第 2 回 日 中 友 好 黒 龍 江 省 の 旅           

  2001年8月16日〜23日            毒ガス島歴史研究所主催    

  はじめに       害者との交流をおこないました。毒ガス島歴史研究所の活動目標に、中国遺棄毒ガス弾被害交流を、これからも続けり     毒ガス島歴史研究所では 2000年9月13日中国黒龍江省北安市で日本軍が遺棄した毒ガス弾の発掘回収作業が始まりました。発掘された遺棄毒ガス弾はチチハルの保存庫におかれ、その後、機械で処理されるということも報道されました。中国で遺棄毒ガス弾処理の動きが始まったのを機会に、3回目の遺棄毒ガス弾被害者との交流をしたらどうか、できればチチハルの遺棄毒ガス弾保管庫も見てみたいという声があがり、第2回日中友好黒竜江省の旅を企画しました。

 今回は、大連、瀋陽、撫順も訪れ、平頂山殉難同胞遺骨館など侵略戦争による加害の歴史を学ぶこともその目的の一つとしました。

 会員を中心に呼びかけたところ11名の参加希望者が出ました。第1回の時が4人だったことを考えると心強い旅でした。少し、ハード過ぎるくらいの内容の重い貴重な旅でした。学習に訪れる場所が多かった、ことに加え、この旅の間にたくさんの中国の人たちと交流できたことが何より良かったと思います。これも、ひとえにダ−先生をはじめ多くの中国の方々のご協力とご親切があったからだと大変感謝いたしております。

                                        張作霖爆殺現場             731部隊罪証陳列館入口 (元731部隊本部跡)        526部隊跡(化学部隊)       (

                             

旅の日程 

■8月16日(木)【瀋陽泊】     広島空港発15:30大連空港着16:30大連〜瀋陽             

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

                                                                   
・CA154便にて空路大連へ  (所要時間約2時間) マイクロバスにて(所用時間約6時間)

■8月17日(金)【瀋陽泊】     マイクロバスにて審陽・撫順の見学

1.平頂山殉難同胞遺骨記念館訪問

2.9.18事変博物館と                                          

3.撫順戦犯管理所記念館訪問

4.張作霖爆殺現場の訪問

■8月18日(土)【ハルピン泊】  瀋陽空港発10:35 ハルピン空港着11:20  ・ハルピン空港着 

5.侵華日軍第731部隊罪証陳列館訪問

6.第731部隊跡訪問(金成民先生の案内)

7.第731部隊の放ったネズミによるペスト菌の被害の幸存者(靖福和さん)の証言を聞く。

■8月19日(日)【 チチハル泊 】  午前中は学習ハルピン発13:40チチハル着16:21

8.黒竜江省社会科学院歩平先生の講義 (中国の遺棄毒ガス弾と歴史認識について)

9.遺棄毒ガス被害者李臣さんと劉振起さんの証言を聞く

10.東北烈士記念館訪問 

・鉄道にてチチハルへ

11.中国遺棄毒ガス被害者との交流  (李国強先生の証言を聞く)

■8月20日(月)【 チチハル泊】  チチハルで終日学習

12.日本軍の毒ガス関係遺跡見学   
  嫩江大橋   第516部隊跡
  李国強先生被災現場訪問 遺棄毒ガス被害者から話を聞く 

・中国第一重型機械集団公司の昼食歓迎会に出席(張百忠さんと再会)

第526部隊跡訪問 

・観光地鶴公園訪問

■8月21日(火)【ハルピン泊 】  チチハル発14:44 ハルピン着18:04

13.満州開拓団集団自決の地訪問     

14.中国残留日本人二世の方から話を聞く

・百貨店で買い物・午後、鉄道にてハルピンへ

15.日中交流学習会(夜)   日本の教科書問題について話し合う  
その後、日中友好歓迎夕食交流会

■8月22日(水)【大連泊】  ハルピン空港発11:10大連空港着12:45

16.日中友好文化交流絵画展を訪問し交流  (ハルピン婦人スタッフ養成学校にて) 

・空路大連へ

17.満鉄時代の建物見学 

・大連の観光地見学 

・ 夜の大連観光

・買い物

■8月23日(木)  大連空港発11:00広島空港着14:10

大連空港にて買い物 CA153便で広島空港へ

          

 9・18事変博物館               日中友好交流会                          大連にて

旅の記録 

8月16日(木) 

広島空港発15:30発(CA154便)にて空路大連へ、所要時間約2時間、時差が1時間あるので中国時間で、16:30に大連空港に着く:大連海外旅遊総公司の苗さんの出迎えを受け、少しでも早く瀋陽に着くために、夕食もとらず、すぐにマイクロバスで瀋陽に向けて出発。食事はバスの中で苗さんの用意してくれた、水とパンとソ−セ−ジなどですませた。4時間半ぐらいと思っていたが約6時間かかって瀋陽の香格里拉商貿酒店ホテルに到着。ホテルではハルピンから来てくれた通訳の王宗傑さんと瀋陽中国旅行社のガイド、孫正洪さんが待っていてくれた。この晩は部屋でゆっくり休む人、ガイドの孫さんについて深夜のレストランに行く人、明日からの日中友好と平和学習の旅への期待を胸に、思い思いの中国での第一夜を過ごした。

8月17日(金)

起床6:00・朝食6:30・ホテル出発8:00。中国の朝は早い。5:00に起床して朝の散歩を済ませた人もいた。マイクロバスにて、平頂山殉難同胞遺骨館を訪問。あいにく土砂降りの雨の中、遺骨館に到着。1932年9月16日、日本軍は何の罪もない平頂山の麓の村人3000人を虐殺した。遺骨館には約800体の遺骨が掘り出された状態で葬られている。あまりにも残酷な加害の事実を前に胸が締め付けられる。日本人は、みんな、ここを訪れて日本軍のおこなった侵略戦争の加害の歴史を直視すべきである。全員で殉難者の霊に黙祷を捧げ・献花をおこない、二度とこのような野蛮な惨禍はおこさせないことを誓う。

続いて撫順戦犯管理所訪問、ここは、1950年から日本人や溥儀をはじめ中国人で偽満州国に関わった戦犯が収監され教育を受けたところである。この管理所では、周恩来総理に指導された中国共産党の「戦犯といえどもみな人間である。人間である以上、人格を尊重しなければならない」という考えのもとに、人間の尊厳を守る教育が徹底しておこなわれた。「戦犯も、日本軍国主義戦争の犠牲者であり、憎しみを持って接してはならない」という考えが管理所の職員全員に徹底された。その結果、日本軍国主義の先兵の鬼となっていた戦犯たちが「鬼から人間に戻る」という奇跡に成功した。管理所に展示されたさまざまな資料を見ながら、ここに、人間教育の本質があると思った。

レストランで昼食をすませた後、9.18事変博物館と張作霖爆殺現場を訪れた。9.18事変博物館は広く、日本の中国侵略の歴史がわかりやすく展示してある。日本の侵略戦争を否定する人はここに来て学習すべきである。中国の子どもたちは、このような博物館で日本の侵略戦争の歴史を学習をしている。歴史の真実は覆い隠すことはできない。

夕食では、瀋陽の地酒を呑む、名前は忘れてしまったが、呑み心地の良い酒だった。

8月18日(土)

ホテルを8:30出発:瀋陽空港発10:35でハルピンへ。ハルピン空港には、今回の中国の旅の計画をコ−ディネイトしてくださったダ−先生の出迎えを受ける。4年前に来たときと比べて明るく大きくなったハルピン空港だった。4年前、飛行機の搭乗口を間違えかけた思い出が甦る。しかし、今回は搭乗口も解りやすい近代的な空港に変身していた。 

 ハルピン市内に向かう高速道路を走りながらダ−先生の流暢な日本語が心地良く響く。ダ−先生の書かれた本もいただき至れり、つくせりの歓待を受ける。空港からハルピン市内に向かう道も高速道路で整備されていた。高速道路の両側に続く白樺の並木と畑が大変きれいだ。

ハルピン市内に着くと、すぐに侵華日軍第731部隊罪証陳列館と731部隊遺跡の学習に向かう。金成民副館長の出迎えを受ける。金成民先生に会うのはこれで3度目だ。度々、日本にも来られているので、いつでも合えるような気がする。731部隊罪証陳列館も夏は訪問者が多く忙しいとのこと。金成民先生は忙しく、案内は別の案内人さんがしてくれた。  第731部隊罪証陳列館は4年前来たときとはすっかり様子が変わっていた。前、来たときは第731部隊本部跡の建物が中学校として使用されていて、びっくりしたが、今は、中学校としては使用されておらず、本部の建物自体が罪証陳列館となっていた。まわりも、すっかり整理され、第731部隊の建物の遺跡が見学しやすくなっていた。第731部隊の犯罪を永久に遺跡として残そうという中国の意気込みが伝わってくる。4年前は第731の遺跡が保存できるかどうか心配されていたが大丈夫だ。
 第731部隊遺跡の学習の後、第731部隊の放ったネズミによるペスト菌の流行により一家19人のうち12人もなくなり、自分は生き残った、幸存者、靖福和さんの証言を聞いた。ペスト菌に汚染された靖さんの村(二道溝)まで案内してもらい現場で、村人に囲まれながら話を聞いた。靖さんが11才の1945年8月はじめ、けたたましい爆発音が連日が聞こえてくるようになってまもなく、第731部隊の施設から3km離れている村にネズミをはじめ、さまざまな動物が逃げてきたそうだ。ペストが流行したのが1946年8月。3つの村、合わせて約200人がペストにかかって死んだそうだ。4年前はせっかく靖福和さんに来てもらっても時間がなくて話を聞くことができなかったが、今回は詳しく聞くことができた。

 帰り道、ハルピン婦人スッタフ養成学校の先生に中日文化交流絵画展のために持って来た日本の子どもたちの絵画と書の作品を渡した。8月22日にこれらの絵画と書の日中交流絵画展示会場を訪問することになっている。

 夕食はダ−先生の属する黒竜江省社会科学院が経営に参加している餃子専門店で、様々な種類の餃子をご馳走になる。餃子と中国料理に堪能して、宿泊するホテル(新世界北方酒店)に到着した。このホテルは4年前に来たとき泊まったホテルだ。翌朝、散歩してみるとホテルの周りの様子が全く変わって、前よりいっそうきれいな町になっていた。

8月19日(日)

 午前中は宿泊したホテルで学習会。まず、黒竜江省社会科学院の歩平先生から、「中国の遺棄毒ガス問題」と「中日関係と歴史認識」という内容で話しを聞いた。歩平先生は、新潟大学の客員教授として、日本の学生にも講義されている。教科書問題・靖国問題も含めた、今、日本人として考えるべきことを流暢な日本語で、解りやすく講義してくださった。講義終了後、広島から持っていった広島県教職員組合の作った広島・長崎の原爆写真集を平和学習に役立ってもらうように歩平先生に手渡した。

その後、遺棄毒ガス被害者李臣さんと劉振起さんの証言を聞かせてもらった。4年前に来たときも証言を聞かせてもらったが、新たな後遺症が出ていることなど詳しく証言してくださった。 

午後の列車でチチハルに行く予定なので大急ぎで、東北烈士紀念館を見学、ここでは、日本人でありながら日本の侵略戦争に反対して闘った長谷川テルの資料を見るつもりで行ったが展示内容が変わっていた。急いでハルピン駅へ行き、13:40発の列車に乗ってチチハルへ向かった。

 列車の窓から見る東北平原は雄大である。雄大な平原を見ながら満州開拓団のことが、頭に浮かぶ。この大平原に放置された開拓団の人たちの過酷な逃避行とその後の運命を考えると、戦争指導者たちは絶対に許せないし、戦争は絶対してはならないと強く思う。16:21予定時刻にチチハル駅に到着。3年ぶりの李国強さん、4年ぶりの李然さんたちとの再会だ。迎えに来てくださった李国強さんたちとホ−ムで抱き合って再会を喜ぶ。やはり来て良かった。教科書問題で揺れる日本と中国ではあるが、このような、草の根の日中友好交流こそ、大切だと、あらためて実感した。駅には、ガイドの李然さん・曹志功先生も迎えに来てくださっていた。親切な、熱烈歓迎に感動するとともに、4年ぶりに会ったとは思えないような親近感を感じた。
宿泊予定のホテル(民航大厦)で、李国強さんの証言を聞く。毒ガスの後遺症で、今は仕事も辞め、冬になると、療養のために南の地方の親戚の家に滞在して健康を維持しているとのこと。その後の、李国強さんの厳しい後遺症との闘いの様子を聞く。王雅珍さんも李国強さんの介護で身体を壊し、教職をやめざるを得なかったとのこと。遺棄毒ガスの被害は李さんの家庭生活をメチャメチャにしてしまった。

 李国強さん・王雅珍さんの証言を聞いた後、広島県教職員組合の作った広島・長崎原爆写真集をお二人に渡す。今は教職を辞めている王雅珍さんだが、必ず、学校へ持っていって、平和学習に役立ててもらうと約束してくださった。その後、レストランで夕食交流会、3年ぶりの再会を祝し、何度も乾杯。再会を喜び会った。

8月20日(月)

 今日は日本軍の毒ガス関係遺跡の見学する日だ。ホテルを8:30に出発、先ずは、日本軍が撤退するとき大量の化学兵器を棄てたという嫩江大橋へ、行った。チチハル市で随一の毒ガス関係の研究者、曹先生より説明を受ける。日本軍が4日間にわたって大量の毒ガス兵器を橋の上から投棄したとの証言もあることを聞く、今もこの河の川底のどこかに遺棄された毒ガスが埋もれていることを考えると、ぞっとする。遺棄毒ガス弾は一日も早く、日本の責任で処理しなければならない。

 次に訪れたのは第526部隊跡、今は、ただの森林と草原地帯だが、ここに、日本軍の化学戦部隊526部隊が置かれていた。日本軍は、このあたりにも毒ガス缶を埋めて逃げ、農民が被害を受けたとのこと。その後、李国強さんの被災現場である中国第一重型機械集団公司の事務所を訪れた。ここは、4年前に来たときは訪れていない。そこには、祖さんが待っていた。 李国強先生が被災した時、毒ガスの煙が出たので、火事かと思って消火のために事務所内に入って毒ガスの煙を吸い、それからずっと毒ガス後遺症に悩まされている女性だ。私たちが、来るのを知って、わざわざ、他の仕事場から話をするために来てくれたとのこと。祖さんは、今でも気管支炎のための高価な薬が手放せないと話した。遺棄毒ガスの被害は、ここでも平和に暮らしていた中国の人を苦しめていた。李国強さんが被毒した時、約200名もの人が毒ガスの被害に遭っているとのこと。

昼食は李国強さんの会社であり、日本にも同行してくれた張百忠さんの勤務先、中国第一重型機械集団公司が昼食歓迎会を開いてくださった。予期していなかった歓迎に感謝でいっぱいだ。昼間であることも忘れるようなにぎやかな楽しい交流の一時を過ごした。

昼食歓迎会でかなり、呑みくたびれた人もいたが、午後は予定通り、第516部隊跡の見学に行った。この部隊は化学戦部隊で毒ガス弾など化学兵器を秘密裏に製造していた。4年前と同じく今も、ガラス工場になっており、工場の中に当時の建物が残っている。
 「前回は行けなかったので、今回は、是非、チチハルの名所、鶴の自然保護地区を案内したい。」との李然さんの薦めもあり、チチハルの第一の観光地であり世界的な鶴の保護区として知られた、扎龍自然保護区を訪問。この保護区は面積21万haに及ぶ広さでほとんどが湿地帯である。望鶴楼(展望台)に登って周りをみると360度の地平線を見ることができた。残念ながら、鶴の群は見ることはできなかったが、丹頂鶴をはじめさまざまな鳥を見ることができ、地平線の雄大な景色に感動。チチハル市内に帰り、夜は、疲れを取るために足マッサ−ジをしてもらいに行った。中国では足マッサ−ジが盛んだ。  

8月21日(火) 

午前中、満州開拓団集団自決の地を訪問。日本の農村から、満州に「王道楽土」「五族共和」の理想国家を作るのだと宣伝され、半ば強制的に移住させられた人たちの戦後の悲惨な歴史がそこにある。中国残留日本人二世の方からも話を聞く。一面、トウモロコシ畑の風景が印象的だった。帰るとき、ほかほかのトウモロコシをいただいて、みんなで、バスの中で食べた。わざわざ、私たちの来る時間に合わせて調理していてくれたのだ。暖かいトウモロコシを通して、心の暖かみを感じた一時だった。

 午後の列車でハルピンに帰るため、急いで昼食をすませ、デパ−トへ買い物に行く。中国に行くたびに、店の品物が豊富になりつつあるのを感じる。中国の経済のすざましい発展がここにも現れている。   

 李国強さんらに見送られて14:44、特別急行列車でハルピンへ向けて出発。列車の中で中国の子どもとも英語で交流、予定時刻にハルピン駅に到着。すぐに、黒竜江省の大学の先生たちとの日中交流学習会のために、会場へ直行。日本の教科書問題について話し合った。

私たちのために多くの先生方が集まってくださった。どの先生も、日本の教科書問題、小泉首相の靖国神社参拝などに見られる、日本の国家主義・軍国主義の台頭に懸念を述べられるとともに、今回のような、草の根レベルの日中交流の重要性を強調された。そして、協力して、「新しい教科書をつくる会」の教科書採択に反対していくことの重要性を述べられた。

その後、日中友好歓迎夕食交流会、お互いに、歌を出し合って、和やかな交流会で楽しい一時を過ごすことができた。忙しい中、私たちのために時間を割いてくださった、黒竜江省の先生方に感謝の気持ちでいっぱいだ。 

8月22日(水)

午前中に大連行きの飛行機に乗ることになっていたので、今日は少し早めにホテルを出発。昨夜泊まった馬迭爾賓館ホテルはハルピンの有名な老舗ホテルで1931年の柳条湖事件の後、国際連盟から派遣されたリットン調査団が泊まったホテルだとダー先生から説明を受ける。飛行機に乗り遅れないように、急いで、ハルピン婦人スタッフ養成学校での日中友好文化交流絵画展を訪問し交流をおこなった。日本の子どもたちの書いた絵や書がきれいに展示されてあった。「子どもレベルの交流をもっと活発におこないたいですね」とスタッフ養成学校の校長先生が言われた。同感である。ハルピンのテレビ局のインタビュ−も受けた、日中友好が少しは達成され、いろいろ、文化交流の準備で忙しかったが、苦労が報われた思いだった。11:10発の飛行機で空路大連へ。12:45大連到着

 大連はきれいな町だ、同行の石崎さんが子どもの頃住んでいた。石崎さんに案内してもらい、大連の満鉄時代の建物見学や大連の観光スッポットを時間いっぱい回って過ごした。大連もまた今なお日本の侵略の歴史を物語る遺跡が多数残っていた。重い、重い、日本の戦争加害の事実を訪ねる今回の旅だったが、最後は、大連のきれいな町並みや、すがすがしい海の景色にホットした気持ちになれた一時だった。

夜は大連の町に市内電車で買い物に行く。運転手さんは普通の服を着た女性だ。制服はないらしく私服の、元気のいい女性だった。中国では電車や列車の運転手は女性が多い。日本では見られない光景である。 

8月23日(木)

いよいよ、中国大陸からさよならするときが来た。まだまだ、中国にいたい気もするが、日本では、たくさんの仕事が待っている。大連空港で少し買い物もしたいと、少し早めに空港へ行った。日本語のアナウンスもあるし、あまり、外国に来ている気分はしない。CA153便で広島空港へ。北京からのお客さんが乗り換えるのを待って、約40分ばかり出発が遅れた。北京からのお客を乗せると満員になった飛行機は、予定時刻には少し遅れたが無事、広島空港に着陸、私たちの8日間の旅は終わった。

中国では思っていた以上の歓迎を受け、どこに行っても親切にしてもらい、本当に日中友好交流の大切さが、心に刻まれる旅だった。これからも、この日中友好草の根交流を大切にしたいと思う。

 

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