大久野島関連資料    詳しくは[大久野島から平和と環境を考える会]ホームページへ移動

 

T:大久野島の戦後の毒ガス処理

U:毒ガス障害者救済措置

V:中国遺棄毒ガス問題

W:大久野島の砒素土壌汚染をめぐる問題

【大久野島関連資料】

 

T:大久野島の戦後の毒ガス処理

  日本の敗戦が決まった時、大久野島とその周辺の島々と忠海には約3000トンの毒ガスと16000発の毒ガス弾が残されていた。国際条約で禁止されていた毒ガスはどのように処理されたのだろうか。その方法を探っていけば、現在の大久野島の砒素汚染の原因も明らかになってくると思われる。

 

(1)敗戦直後、大久野島周辺に毒ガスがどのくらい残されていたか。

 大久野島の毒ガス処理を請け負って実施した帝国人絹三原工場の社史によると敗戦時の毒ガス貯蔵量は約3000トン、その内訳は以下のようであった。

      (種類)               (貯蔵量)

  イペリットガス(致死濃度)            1,451 トン

  ルイサイトガス(致死濃度)                824 トン

  クシャミガス(呼吸困難)                  958 トン

  催涙ガス(涙が激しく出る)                   7 トン

                              合計       3,240トン

   周辺地域(忠海。阿波島・大三島)におかれていた毒ガスも大久野島に集められ1946年5月より毒ガス処理がおこなわれた。処理作業はイペリット・ルイサイトのような猛毒を処理するので非常に危険を伴うもので、製造するよりもむしろ危険であった。

 

(2)敗戦後大久野島に残された毒ガスはどのように処理されたか。

@敗戦直後の毒ガス処理

   致死性の毒ガスは国際法上使用禁止になっている非人道兵器。問題化するのを恐れた日本軍部は「証拠隠滅」を命じた。毒ガス製造の従業者は毒ガス製造の罪で戦争犯罪者として連合軍に拘束されるのではないかという恐怖から、証拠隠滅に協力したという。

占領軍が来るまでに処理しようと、急いで処理したため、機帆船に積んで近くの海に大量に遺棄したそうだ。大久野島近海の海には、毒ガスや毒ガス製造設備が1メ−トル四方に切り刻まれ投げ込まれたという。そのとき作業に従事した人の証言では、大量に鯛などの魚が浮き上がってきたという。          (「毒ガス島と少年」村上一編)

 

A占領軍による毒ガス処理 ( 処理は三つの方法でおこなわれた。)

 戦後の毒ガス処理は英連邦軍(オ−ストラリア軍)によって行われた。本来なら化学兵器の専門部隊で行われるべき危険な作業を毒ガスの危険を知らない民間人が行った。そのために作業に従事した多くの人が毒ガス障害で悩まされることになった。

英連邦軍は処理作業を帝人三原工場に委託、現地採用された約300人の従業員が作業にあたった。毒ガスの危険性に対する教育と訓練が十分におこなわれないまま作業は進められた。毒ガス障害者の検診を続ける広島大学医学部のデ−タ−によると「戦後処理」と呼ばれるこの作業にかかわった人々にがん発生率がもっとも高いという。海洋投棄・焼却・島内埋没による処理の三つの方法でおこなわれた。帝人社史によるとそれぞれの方法で処理された毒ガスの数値は次のようである。「毒ガスの島」中国新聞社編

 

海洋投棄・・・毒液1,845トン、毒液缶7447缶、            クシャミ剤9,901缶

              催涙剤131缶、60キロガス弾13,272個、      10キロガス弾3,036個

焼却・・・・・毒物56トン、催涙棒2,820箱、催涙筒1,980箱

島内埋没・・・クシャミ剤(大赤筒) 65,933個

              クシャミ剤(中赤筒)123,990個

             クシャミ剤(小赤筒)  44,650個

              発射筒              421,980個        (帝人社史)

(3)海洋投棄による毒ガス処理はどのようにおこなわれたか

 イペリット・ルイサイトなど死に至らせる猛毒の毒ガスは海洋投棄されることになった。島内の毒ガス貯蔵槽から船内タンクに輸送パイプを通じて積み込んだ。極めて危険な作業であった。台風がくる海が荒れる時期であったが、あえて、毒液の粘りにくい夏作業がおこなわれた。そして1946年7月29日台風が来襲、積み込み中の艦船(LST)の錨が切断される事故が発生、毒液輸送パイプが切断されて毒液が飛散100名余りの負傷者が出た。イペリットなどの猛毒は艦船に積み込み、高知県の土佐沖まで運ばれ艦船ごと海底に沈められた。また、別の船からは毒ガス弾や毒ガス容器が海洋に投げ込まれて遺棄された。     (「毒ガス島の歴史」村上初一編)

 

毒ガスの積み込み作業は極めて危険にもかかわらず、作業に従事した民間人は、その危険性を知らされていなかった。  働く人の人権は無視された危険な作業であった。

 

(4)焼却による毒ガス処理はどのようにおこなわれたか

 催涙棒・催涙筒など、一部の毒ガスと毒ガス製造設備や建物が焼却処理された。毒性を消すため工場の建物の内部も火炎放射器で焼却された。ルイサイト工場など危険な建物の焼却作業は危険性を考えて数回に分けておこなわれた。北部の毒ガスタンク地帯の除毒作業は困難を極めた。何回も焼却を行ったが毒性はなくならなかった。ついには重油を注入して混和焼却することになり数日間連続して焼却をおこなった。

                                (「毒ガスの歴史」村上初一編)

   毒ガス処理がいかに危険な作業であったか帝人三原が処理完了後に出した「毒ガス処理の記録」には次のように述べてある。

  「 敗戦後、これらの有毒兵器並びに毒物製造施設はポツダム宣言に則って急速に処理せられるべき運命にあった。しかしながら、恐るべき猛毒と危険とのため作業は不安なる状態のうちに放置されていた。一方帝人は大久野島において近代化学工業の建設を計画。すでに転用の許可を受け、着々とこれが実現に努力中であった。これを契機としてそのもてる化学技術と全機能を動員し本作業の実施にあたるよう緊急指令を受けたのであった。・・・苦闘の一ヶ年それはかえりみると凄惨な月日の連続であった。それは監督指揮官ウイリアムソン少佐自身すらも、ルイサイトによる障害を受けたという事実によっても知ることができる。・・・」

   この帝人には当時の広島県知事からも感謝状まで贈られた。

  しかしすべてが終わったわけではなかった。アメリカ軍は大久野島の毒ガスを熱心に調査した結果、旧日本軍が開発した不凍イペリットの効果をつきとめ、50キロ容器10本くらい化学戦部隊の将校が、本国に持ち帰ったという。対ソ連戦用に着目したのであろう。後に、アメリカはベトナム戦争で毒ガスを使用した。日本近海ではあちこちで遺棄した毒ガス弾があがり多くの人命を奪った。さらに警察官は市民に対し催涙ガスを使用している。

                                  (「日本の恐怖・毒ガス」 落合英秋編)

北部海岸にも焼却場があった。そこで働いていた従業員は毒ガス障害に悩まされた。その焼却場あたりも焼却された。焼却時、砒素などの毒物が飛散した可能性は高い。

 

(5)毒ガスは島内にどのように埋設処理されたか

 毒性の弱い毒ガスである赤筒や発煙筒などが島内の防空壕などに埋没処理された。

帝人社史には次の方法で毒ガスを埋没処理したと記述してある。

「クシャミ剤のような有毒姻剤が大量に残存していた。これらは大久野島所在の壕内へ埋没し、コンクリ−トで堰堤を造って密閉し、海水とさらし粉の混合物を注入してその処理を終わった。」

  赤筒や発煙筒を壕内の奥に入れ、入口をコンクリ−トで密閉、毒の中和のためにさらし粉と海水を壕内に大量に注ぎ込んだのである。このような簡単な方法で砒素を原料とするクシャミガス(赤筒)が処理された。このような簡単な埋没処理によってもう、島内の毒ガスは処理済みであり、従って安全である。というのが今の環境庁(日本政府)の姿勢である。

  帝人社史によると、島内に埋設された赤筒は大赤筒・中赤筒・小赤筒などあわせて約65万個も埋設されている。日本政府が認めている中国に遺棄された化学兵器の数が約70万発であることを考えるといかに膨大な数の赤筒が大久野島に埋設されているかが分かる。海水とさらし粉で満たされた防空壕跡に埋められた砒素を原料とするクシャミ性ガス(赤筒)は55年も経過すれば容器は腐食し、原料が流れ出ている可能性は高い。もし容器が腐食していなければ毒ガスとしての効力を依然として持っている可能性も考えられる。いずれにしても、大久野島に埋設された約65万個の毒ガスは決して安全とはいえない状況にある。 赤筒の原料の砒素は元素であり永遠に分解されることはないことを考えれば、砒素が大久野島の地下水系に流れ込んだら大変なことになることは容易に予測できる。ちなみに、1995年から環境庁がおこなった砒素濃度検査でも、地表よりも地層4m〜5mのところから高濃度の砒素が検出されている場所もある。これは地層深く砒素がしみこんでいるからだと考えられる。このように、大久野島の毒ガスと毒ガス製造施設の戦後処理は、その後の大久野島の環境汚染につながる可能性を持つものであった。

   1969年毒ガス(赤筒)が発見されたことがきっかけに、自衛隊がいくつかの防空壕を発掘し約1000本の赤筒を発見した。しかし、それは、毒ガスの効力はないとの判断で再び大どこかの防空壕に埋められた。環境庁は、その防空壕どこか分からないと言う。しかし、自衛隊が出動していることなどから考えると情報はあるはずである。

 

(6)1969年の毒ガス発見及び壕内調査と処理をめぐる問題

  1963年大久野島は国民休暇村となり、多数の観光客が訪れるようになった。その6年後の1969年8月フェリ−乗り場近くの防空壕内から三個の赤筒が発見された。このニュ−スが流れると毒ガス工場の元従業員などから島内に埋没した毒ガスの悪影響を心配する声があがり、衆議院内閣委員会でも取り上げられた。当時、大久野島を管理していた厚生省も無視できなくなり1970年1月より島内の防空壕の中で毒ガスが埋没してあると思われる7カ所の壕を調査した。

 その結果、クシャミガスの大赤筒22個・中赤筒600個・小赤筒30個・発煙筒1000個が見つかった。厚生省は見つかった毒ガスはもはや毒性は失われており、問題はないとして、再び見つかった赤筒や発煙筒を壕内に入れ、入口を土とコンクリ−ト密閉し、外からは入口が解らないように盛土した後、樹木などを植えて外から解らなくした。そのため、再埋没した毒ガスはどこの壕に入れたか解らなくしている。厚生省はこれで大久野島の毒ガスは安全に処理したという見解をとっている。

  この時の処理についてもいくつかの疑問点が浮かび上がって来る。自衛隊が、650個もの赤筒が埋没されていた防空壕を開いたとき、「壕の中にはかなりの水があり、赤筒を入れてあったと思われる箱の残骸が浮いていた。また、腐食した容器なども見られた」と新聞記事で報道している。厚生省はなぜ、これらの発見された毒ガスや発煙筒を全部、壕内から取り出して処理しなかったのか。再び埋没したのでは、安全に処理したことにはならない。毒ガスとしての効力は失っても砒素などの毒性を持つ元素が環境汚染を引き起こすことを考えていない。

  また、厚生省が調査した壕は7カ所にすぎない。大久野島には50カ所以上の壕があり、敗戦時、「赤筒だけでも約65万個埋没した」という帝人社史の記録にもあるようにまだまだ島内にはたくさんの毒ガス弾や発煙筒がどこかの壕に埋没されていると考えられるにもかかわらず島内の全ての壕の徹底的な調査をおこなっていない。

   このような点から考えても、たとえ、島内に埋没した毒ガス弾がその毒性はなくなったとしても、砒素などによる大久野島の環境汚染を引き起こしている可能性は十分 広島市では,1995年2月,多数のドラム缶があった場所からヒ素が検出された。このドラム缶は,敗戦後大久野島から赤1号(ジフェニール・シアンアルシン)の原料(ジフェニールアルシン酸)を移し保管していたものであった。そこで,広島県は検査した環境庁に,赤1を作っていた大久野島にもヒ素が検出されるか調査を要請した。

  検査結果、北部砲台跡にはたくさんの砒素が検出された。これは、毒ガス時代にルイサイトの貯蔵庫となり、敗戦後、焼却場に使われた、ためと考えることができる。

また、北部砲台の北側の山も検出されている。焼却場の煙突から流れた煙が原因ではないかと考えることができる。

 

U:毒ガス障害者救済措置

(1)救済措置発足前の情勢

終戦後毒ガス工場で働いていた従業員の中から毒ガスに起因すると思われる患者が多発し、治療を受けても治癒するに至らず、咳きががひどく、呼吸困難となり、またガンになるも者も多く、そのために死亡者が続出する有様であった。そこで1951年(昭26)頃からこれら毒ガス患者たちは各方面に対し救済を陳情し始めた。(大久野島毒瓦斯傷害者互助会編「毒ガス創立30周年記念誌」p25)

 

戦後、大久野島の地元、忠海町では毒ガス工場で働いていた人たちがつぎつぎに病気になった。身体の調子が悪く満足に働けず、ぶらぶらしていたので地元の人たちは「ぶらぶら病」と呼んでいた。働けないと家族を養えなくなる、なんとかしなくてはという動きが元従業員の中から起こった。

 

(2)傷害者救済措置の制定

1952年4月大久野島毒瓦斯傷害者互助会が結成された。旧従業員に入会を勧めてもあまり入らなかった。戦争中の秘密主義に拘束され、自分自身の毒ガス傷害や作業について語りたがらない人が多かった。毒ガスは人々の心を縛っていた。(当初の会員約50人)GHQに直訴状を送った。・・・患者の窮状は日本政府に伝えると返事があった。

 

1952年8月1人の重症患者が広島医科大学に入院した。AさんでA2工室で働いていた。咳やのどの痛みに悩まされ、血痰をはいて肺結核で亡くなった。これをきっかけに毒ガス障害者問題がクローズアップされるようになった。調べてみると忠海町とその周辺に住む旧従業員の中に肺結核、その他原因不明の病気で苦しんでいる人が多数いることがわかった。

 

1953年(昭和28年)一部の国会議員が中心となって特別措置法に基づいて同法を一部改正し毒ガス患者を救済しうるよう企画したがうまくいかなかった。そこで大蔵省は毒ガス患者の問題は行政措置によって救済しようとした。(大久野島毒瓦斯傷害者互助会編「毒ガス創立30周年記念誌」p25)

つまり、地元選出議員を中心に毒ガス傷害者を救済するための単独立法が国会に提出される矢先、政府側から異議が出て提出は見送られた。そのかわり、旧令特別措置法を準用して「陸軍共済組合」に加入していた旧従業員に対して大蔵省から諸手当を支給する案が出された。政府は「ガス問題を単独立法で審議し法律を制定することは旧軍の毒ガスに関してこれを認めることになるので、それはできない。国際法に関わる毒ガス問題を扱うことはできない」いう見解だった。毒ガス傷害者互助会など傷害関係者はいつ成立するかもしれない困難な単独立法よりも旧令準用の救済の道をとることにした。

 

1954年(昭和29)大蔵省から「ガス障害者救済のための特別措置要綱」が通達された。なぜ「毒ガス」と明記せず、「傷害者」が「障害者」なのか不審を抱く人もいた。政府は特別措置によって毒ガス問題に蓋をし国家責任を回避したのである。しかし、旧陸軍共済組合加入の旧従業員の道はついたが、大久野島で働いた動員学徒や勤労奉仕隊、女子挺身隊、などは救済されず取り残された。

(「地図から消された島」武田英子著p192) 

 

1954年(昭和29年)2月大蔵省から「ガス障害者救済のための特別措置要綱」が出された。この通達に基づきガス患者を救済するためガス障害者調査委員会及びガス障害認定審査会が設けられた。この両機関の調査および審査によってガス障害と認定された者(認定患者)にはその障害による疾病の程度が特別措置法を適用すれば年金に該当する者には、同法により年金を支給し、その者が死亡した場合にはその遺族に対し障害年金者遺族一時金を支給することにした。(大久野島毒瓦斯傷害者互助会編「毒ガス創立30周年記念誌」p25)

 

1961年(昭和36)原爆被爆者に対して医療手当の制度が新設されると、それにならって同年3月「ガス障害者に対する医療手当支給要綱」が定められそれに基づいて認定患者に対して療養を受けている期間月額2000円を限度とする医療手当が支給されることになった。

1965年(昭和40年)1月特別措置要綱が改正され認定患者の疾病の程度が年金に該当しない場合でもその程度によって障害一時金が支給されるように改善された。

1968年(昭和43年)10月には医療手当支給要綱を「ガス障害者に対する特別手当及び医療手当支給要綱」と改めるとともに、認定患者に対し月額1万円の特別手当を支給する制度が創設された。

1969年(昭和44)12月大蔵省は関係国会議員と折衝し「ガス障害者に対する特別手当及び医療手当支給要綱」を「ガス障害者に対する特別手当等支給要綱」と改め新たに、旧陸軍共済組合員であった者のうち、認定患者以外の者にも救済措置が講じられることになった。

 ガス障害調査委員会より確認された者に医療手帳を交付し、その手帳所持者で指定された範囲の疾病にかかっている者(一般障害者)は指定の病院で治療が受けられるように措置され、その治療を受けた者に所要費用額を限度とする医療費を支給する制度が設けられた。また、一般障害者中特定の者に月額3000円の健康管理手当を支給する制度が設けられた。

(大久野島毒瓦斯傷害者互助会編「毒ガス創立30周年記念誌」p26)

しかし、学徒動員、挺身隊、戦後処理の被害者には適用されないという問題を残していた。

1975年(昭和50)動員学徒や勤労奉仕隊、戦後処理の人たちにも医療手帳の交付と医療費の支給が行なわれることになった。

1976年(昭和51)には健康管理手当ての支給が実施されるようになり遅ればせながら救済の道が開けた。                                        

1977年(昭和52)旧陸軍共済組合員であった人は大蔵省からA手帳(2291人)学徒動員など組合員でなかった人は厚生省からB手帳(1506人)を交付されている。A手帳保持者のうち審査にパスした認定患者は特別手当月額3万円と医療手当月額最高1万7千円支給される。しかし、認定患者は全体の1割の378人にすぎない。

 

(3)毒ガス障害者団体の結成

1964年(昭和36)までに互助会会員780人中202人が認定された。互助会の運動の成果が表れ始めると入会者も増えた。しかし、認定を申請する人が増加するのに比べて認定される人が少なくなった。同じ職場で働いていてなぜ自分は認定されないのか不満が元従業員分裂へと向かわせた。

1966年(昭和37)認定の申請却下が続く中、互助会から分立して「毒瓦斯傷害者厚生会」が発足した。認定患者対否認定患者、旧陸軍関係従業員対学徒動員、勤労奉仕隊などの民間からの従事者の間にミゾが生じた。その後つぎつぎと毒ガス傷害者団体が結成された。

1952年発足「大久野島毒瓦斯傷害者互助会」:旧陸軍従業員主体の会。

1966年(昭和41)発足「毒瓦斯傷害者厚生会」:旧陸軍従業員主体の会。

1967年(昭和42)発足「大久野島毒ガス障害者徴用者協議会」旧徴用者主体

1970年(昭和45)学徒動員の立場から「大久野島学徒親和会」を結成。

1976年(昭和51)陸軍広島兵器補給廠忠海分廠で働いていた人が「忠海分廠毒ガス障害者協議会」を結成。

ほかにも3団体、計10団体が発足した。1967年(昭和42)には「大久野島毒ガス障害者対策連絡協議会」が結成され10団体の会長がメンバーになり陳情や協議の窓口となった。

 

(4)毒ガス障害者の認定

毒ガス障害者の救済は国有財産大久野島を管理している大蔵省の管轄で1954年(昭和29)2月から始まった。@認定毒ガス障害者に対する無料治療A死亡者に一時金支給が骨子。このため国家公務員共済組合連合会理事長の諮問機関としてガス障害調査委員会とガス障害認定審査会の二つの機関が設置された。

毒ガス障害者の認定はガス障害調査委員会とガス障害認定審査会の二つの機関を通じて行なわれた。ガス障害調査委員会は毒ガス工場の元所長・元従業員の代表や中国財務局長などによって構成され、申立者の就職年月日、身分、給料、審査会の参考資料としてガス障害を受けやすい立場にあったか、かってガス障害を受けた事実の有無を調査し理事長に報告した。理事長はその報告に基づき組合員であった事実の確認された者の障害認定につきガス障害認定審査会に諮問する。ガス障害認定審査会は呉共済病院長や広島大学医学部教授などにより構成され、ガス障害調査委員会のい理事長の諮問に応じて治療の要否に関する認定及びその障害による年金受給権裁定に必要な障害の程度について疾病の程度を査定する。(大久野島毒瓦斯傷害者互助会編「毒ガス創立30周年記念誌」p27)

毒ガス障害の援護救済の道を得るまでの道は厳しかった。旧従業員で療養を希望するものは申請書を提出しこれがガス障害調査委員会とガス障害認定審査会の審査を通過したうえで国の負担による無料治療が認められた。調査委員会の承認を得るには従業員だったことを証明する物的証拠と証人二人が必要だった。しかし、工員手帳や給料袋などの品物は戦後の証拠隠滅などでほとんど処分されていた。調査委員会で承認されても認定審査会の審査を受けなくてはならない。そのためには医師の診断書が必要だった。しかも、医師の書いた診断書を非医師団体である調査委員会がふるい落とす権限が与えられていた。両委員会とも患者を差別し蹴落とすためのものという声もあった。(「地図から消された島」武田英子著p200) 

1954年(昭和29)「ガス障害者特別措置要綱」実施当初に31人が認定された、ところが認定患者の審査は年々厳しくなり1964年(昭和399にはT人、1965年(昭和40)には認定ゼロとなった。(中国新聞1975年12月「毒ガス島」の記事より)元所長などは「学徒動員など毒ガス工場で働いていた者以外は、そんなに毒ガス被害を受けていないはずだと」いった自分の所長としての責任を回避したいがためのような考えを持っていた。そのような人物が構成員にいる調査委員会は毒ガス患者の立場にたつよりも認定をできるだけ認めない方向で動いているところもあった。医者が毒ガスとの因果関係を認める診断書を出しても、病気は必ずしも毒ガスのせいではない、一般的な公害のせいだといって認定を認めないこともしばしばだった。毒ガスを製造していた時代は大久野島全体が毒ガスという有毒な大気で覆われていたし、大久野島全体にその有毒な大気が降り注いでいることを考えれば、島のどこで働いていても毒ガスの被害を受けているのです。

1970年(昭和45年)認定制度が始まって16年経っても700人が申請したのに対し217人しか認定されていない。

審査会の医師がガスが原因とみられる慢性気管支炎との診断書をつけても、呼吸器病は大気汚染などの原因も考えられるため調査会では認定とは認めないケースが多かった。

原爆被害者には「原爆被害者の医療等に関する法律」(1957年)が制定され被爆者の健康保持を国の責任で行なうことを明白にしているが、毒ガスの被害者には特別の立法はない。現在適用されているのは旧陸軍共済組合の権利義務を継承する目的で作られた「旧令による共済組合等からの年金受給者のための特別措置法」に基づく毒ガス障害者救済のための特別措置要綱でその改正によって援護を拡大してきた。従ってあくまで労災補償の立場であり援護のワクは被爆者に比べて狭い。二月からの医療手帳にしても使用できるのは慢性気管支炎などの気道病に限定されている。それに特別立法でないために学徒動員などの共済組合に掛け金を掛けていなかった人は除外されている。(中国新聞1970年3月22日版)

1971年(昭和46)審査会のメンバーが代わり適用の範囲が広がり認定患者が大幅に増えた。発足以来440人が認定された。各団体の運動も軌道にのり、1973年(昭和28)6月県が独自に「女子挺身隊、動員学徒特別措置要綱」を制定して救済に乗り出し、10月から特別手当月2万4千円(旧1万5千円)、医療手当1万2千円〜1万4千円(旧七千五百円〜九千五百円)介護手当2万3千円〜1万1千五百円など諸手当がアップしたほか重症疾病者介護手当四千円、保健手当六千円が新設され援護対策は一歩前進した。

しかし、「公害健康被害補償法」による認定患者の標準給付は50歳で月額約14万円であり毒ガス障害者と大きな開きがある。この差は毒ガス障害者援護法が制定されず、大蔵省の行政措置だけで毒ガス障害者対策が始まったことに起因している。

 

1988年で旧令共済部関係の認定患者は1004人(うち323人死亡)医療手帳及び健康管理手当受給者は1660人(うち442人死亡)。厚生省関係では1987年で医療手帳受領者は1362人、健康管理手当受給者は634人となっている。

(西本幸男退官記念講演より)

 

2004年現在、財務省が所管する毒ガス障害者は国家公務員共済組合連合会特定年金事業部旧令年金課が、厚生労働省が所管する毒ガス障害者は県福祉保健部衛生・被爆者総室被爆者・毒ガス障害者対策室が担当している。

元従業員で旧共済組合に入っていた人で認定された者には月約13万円の特別手当が支給されている。

 

V:中国遺棄毒ガス問題

@中国遺棄毒ガス被害

 敗戦時、日本軍は国際条約に違反した毒ガス使用の事実を隠すために、中国の畑の中や川の中などあちこちに毒ガスを棄てて帰りました。そのために戦後、2000人以上の中国の人達が農作業や下水道工事などの時、埋もれていた遺棄毒ガスによって被害に遭い、現在でもその後遺症に苦しんでいます。掘り出された毒ガス缶が何か解らないので調べているとき被害を受けたり、工事中壊れた毒ガス弾の毒液が水の中に漏れ出ていて知らずにその中に足を入れたり毒液が散ったりして被害を受けました。日本が中国に持って行った毒ガスは戦争が終わっても平和に暮れしている中国の人民を傷つけ生活を破壊しているのです。

1974年黒龍江省ジャムス市港湾の浚渫作業中の船が吸い上げ式の浚渫船で作業していたところ日本軍の遺棄毒ガス弾を吸い上げ、そのために35人が毒ガスに侵され、うち三名が重体だった。現在までに7名がすでに死亡している。

1947年敦化県林勝郷の黄春勝さんは夏草刈に山へ行き溝に一つ砲弾が転がっていた中から液体が流れ出ていたので足でちょっと蹴ったら涙くらいの大きさの液体が一粒、ヅボンにはねかかりました。しばらくすると足がきりきりと痛み始めた。ズボンをまくって見ると水疱ができていた。水泡は背中まで広がっていた。原因がわからないまま家財道具をほとんど売り払って治療費に使ってしまった。生命は取り留めたものの労働能力を失い、重労働はできなくなった。1982年7月黒龍江省の牡丹江市の基礎工事現場で鉄製の円筒形の缶が4つ出てきた。上にあったネジをひねったところ液体が吹き出て五名の労働者にはねかえり毒ガスの被害を受けた。

1950年黒龍江省チチハル市の第一師範学校の校舎建築現場で労働者が二つの缶を掘り出した。ドラム缶には三つのネジがついていた。労働者たちはなんだろうとネジを開けてみた。この時一種の独特な臭いがした。現場にいた、雀英韻先生は芥子のような臭いと薄黄色いの液体を記憶していた。労働者の一人がこれは酒だろうと思って一口飲んだがすぐに「これは違う」言ったが、すでに遅かった。化学の教師であった雀先生は指でその液体を手の甲に縫ってみた。すぐ異常に気づいて手を洗ったが間に合わなかった。2時間後には手や腕から赤くなり、6時間後には痛みがひどくなり大きな水泡ができた。その時8人がひどくしたが最初に1口飲んだ人はその日のうちに死んだ。毒剤を飲んだ人は口も舌も大きな水泡ができその苦しむ様子は目を覆うばかりだった。

このような日本軍の遺棄毒ガスによる事故が中国のあちこちで起こっています。

 

A化学兵器禁止条約

1993年に結ばれた化学兵器禁止条約によって日本政府は中国に棄ててきた毒ガス弾を処理する国際的義務を負っています。中国のあちこちに棄てて帰った毒ガスの数は日本政府が確認しているだけでも約70万個、中国側の推測では約200万個と推計されます。棄てた場所が日本兵の証言によって明らかになったのはごくわずかで、あとはどこに棄てられたか分かりません。川に捨てたり、地中のあちこちに埋めたりしてきた毒ガスは、今も中国の人を傷つけ、環境を汚染しているのです。発見された毒ガス70万発は中国の何カ所かに中国人民解放軍によって埋設保管されています。

 1997年4月「化学兵器禁止条約」が発効し、日本は原則として10年間で中国に捨ててきたこれらの毒ガスを処理する義務があります。

2000年9月13日黒竜江省の北安市でその処理作業が始まりました。しかし、約70万個の毒ガスを処理するには10年ではとても終わりそうにないのです。1日も早く処理してこの捨ててきた毒ガスによって中国の人たちが傷つくことのないようにしなければなりません。このままにしておくと流れ出た毒ガス弾のヒ素や他の毒物が周辺地域の土壌を汚染し、そこに住んでいる人の飲料水や生活環境を汚染する心配があります。

  2002年、日本政府は70万発の毒ガス弾を処理するための本格調査に、約150億円の予算を計上しています。本格的な処理が始まるのも近いといえます。

 

B国遺棄毒ガス被害者訴訟

 旧日本軍が敗戦時中国に遺棄した毒ガス兵器によって被害を受けた中国人被害者が日本政府を相手に損害賠償と謝罪を求めて日本の裁判所に訴訟を起こし現在係争中です。第一次訴訟では李臣さんたち被害者13人が日本政府に計約2億円の損害賠償を求めて裁判中である。また第二次訴訟では李国強さんたち5名が日本政府を相手に計8千万円の損害賠償を求めて裁判中である。

 第二次訴訟は2003年5月15日に、第一次訴訟は同じ年の9月29日にいずれも東京地裁で判決が出された。5月の第二次訴訟は中国人被害者の賠償請求を棄却、9月の第一次訴訟は中国人被害者の損害賠償請求を認め、日本政府に賠償金の支払いを命じる判決を出した。半年の間の二つの判決で正反対の判決が出されたのである。

第一次判決では国が、第二次判決では被害者が控訴し、二つの訴訟は現在も争っている。

しかし、5月の第二次訴訟の判決理由は日本軍が中国に毒ガスを遺棄した事実や、その遺棄毒ガスによっては戦後、中国人が多数被害にあっている事実は認めながら、今の日本政府に賠償義務はないという、きわめて矛盾に満ちた判決であり、9月の判決理由が納得できる中身になっている。いずれにせよ、日本政府は謙虚に日本軍による遺棄毒ガス被害の責任をとろうとしない。

 

W:大久野島の砒素土壌汚染をめぐる問題

 戦後の毒ガス処理で現在の大久野島の環境汚染に影響を及ぼしていると考えられる点は三つ考えられます。

@毒ガス及び毒ガス施設を焼却したとき砒素などの毒物が飛散し環境を汚染している可能性がある。

A島内の防空壕やトンネルに埋没した大量の赤筒などが腐食し土壌汚染を引き起こしさらには地下水脈に砒素など有害なものが流れ込んでいる可能性がある。

B敗戦時、進駐軍が大久野島に来る前に日本軍の命令で証拠隠滅のため急いで、大久野島の周辺の海に投棄した毒ガス弾や毒ガス施設の残骸が海底に埋没し海底の土壌汚染 を引き起こしている可能性がある。

このように戦後の毒ガス処理の時、現在の環境汚染の原因となる可能性が残されたと考えられます。

現在も島内に埋没されていると考えられる約65万個の大・中・小の赤筒はその原料に砒素が含まれています。大量の赤筒を島内の防空壕に埋没させたままにしていて本当に安全と言えるでしょうか。埋没された時の様子などから考えても将来、さらに砒素による環境汚染の問題が生ずる可能性はきわめて高いといえます。

 

  1995年広島市の出島で高濃度の砒素による土壌汚染が明るみに出た。出島で砒素が出るなら、大久野島も砒素汚染調査が必要との声があがり、調査が実施された。

 その結果、島内30カ所を調査し10カ所あまりで環境基準を上回る砒素が検出された。環境庁はそのうち環境基準値の30倍の砒素が検出されたところ三カ所のみの土壌洗浄工事を、約20億円の費用をかけて、1998年から洗浄作業に取りかかり1999年4月ほぼその工事を終えたとしている。そして事実上の安全宣言とも言える「瀬戸内海国立公園大久野島環境保全対策」というパンフレットを発行し、安全をPRしようとしている。しかし、なぜ30倍以上のところを基準に除去工事したのか、その根拠も明確にされていないし、もっと、調査を必要とするところは未調査のままです。もっと除去工事を必要とするところもあると思われるのに手が着けられていません。ちなみに砒素除去工事が行われた三カ所の砒素濃度は次の通りです。

 

北部砲台跡・・・環境基準値の470倍の砒素を検出。

                ここは毒ガス工場時代、原料に砒素を含んだ猛毒のルイサイトガスの原料タンクが置かれていた場所である。

元理材置き場・・環境基準値の310倍の砒素を検出。

ここは毒ガスを造るのに利用された化成釜などが置かれていた場所である。

運動場西護岸・・地下4mのところから基準値の2200倍の砒素を検出。ここは1939年当時沈殿槽となっていたところで近くに砒素を原料とする赤筒の工場があり、ここに廃液が沈殿されていたところである。

1944年の工場配置図では沈殿槽は埋められ、待機所になっていた場所であるが、その歴史的経過を考えると高濃度の砒素がでてもおかしくないと言える。

 

大久野島の今後の課題

  以上のように、大久野島は、今後も砒素土壌汚染など環境問題が生じてくる可能性はきわめて高い。戦後の毒ガス処理の方法、1970年の処理の方法、そして1999年の砒素汚染土壌の除去作業、どれも、完璧な安全な処理が行われているとは言えない。国は安全だと説明してきたにもかかわらず大久野島の毒ガスと環境汚染の問題は1969年、1996年と発生してきた。そして、これからも環境汚染が発生する可能性を多分に持っている。大久野島が、今は無人島で、誰も住んでいないのならともかく(それでも問題は残るが)、国民休暇村として多くの観光客が訪れ、平和学習の場として、修学旅行生や遠足で多くの子どもたちが訪れ、また世界で唯一つの毒ガス資料館を見るために海外からもジャ−ナリストや学者が訪れる大久野島が砒素など毒物によって環境汚染されているとしたら大変なことである。

  砒素は1日や2日、砒素濃度の高い場所を訪れたからといってすぐ被害のでるものではない。むやみに、大久野島を訪れる人に砒素汚染の恐怖感を与えてはいけないであろう。しかし、毒ガスが島内に埋没されたままでは決して安全であるとは言えない。安全でないのに安全だと言うことはできない。              

 安全宣言というものがいかに根拠の薄い、不完全なものかは、1999年に起こった東海村臨界事故の例をみるまでもない。原子力発電の反対運動に対し、国や電力会社は、いかに、その安全性を強調している。でもチェルノブイリ原発事故に見られるように、現実に起こるはずのない重大な原子力事故が起こっている。原子力発電所の事故は次々と起こっている。

1999年の東海臨海事故には大久野島の毒ガスの戦後処理の事故と類似点がある。それは、作業する人がその危険性を十分認識しないまま作業し、事故に遭っている点である。危険な作業にもかかわらず専門家による慎重な作業が行われていない。さらに、その危険性を周りの住民にちゃんと知らされていない。そのために事故の事後処理作業に行った人まで被害に遭ってるなど、類似てんがいろいろ見られる。

 環境汚染をもたらす原因がある以上、それはいつか人間生活に被害をもたらすことは、はっきりしている。戦争の加害の歴史を学ぶ場として大久野島にはこれからもたくさんの人に訪れて欲しい。だからこそ、環境汚染の原因となる戦争廃棄物である毒ガスを島内から撤去し安全で平和な島にすべきである。

 〈参考文献〉

・中国新聞社1996年発行 「毒ガスの島」中国新聞社著  

・径書房 1986年発行 「辺境の石文}川原一之著   

・平和教育教材化「おおくのしま」広教組竹原支区平和教育部会編             

                広島平和教育研究所出版部1987年発行

・「毒ガス島の歴史」村上初一著       

・「置いてきた毒ガス」  相馬一成著1997年発行

・「日本の中国侵略と毒ガス兵器」歩平著 明石書籍1995年発行

・「母と子でみる毒ガス島」早乙女勝元・岡田 黎子編草の根出版会発行

・「ドキュメント 日本の恐怖・毒ガス」落合英秋 著 番町書房 発行 

・「フィールドワーク案内文」広教組竹原支区平和部会制作