大久野島の概要   詳しくは→大久野島から平和と環境を考える会 」ホームページへ移動する

 

【大久野島の毒ガスの歴史の概要】

1:大久野島はどんな島か。

大久野島は周囲約4kmの島です。もともとは、瀬戸内海を拠点に南北朝頃から台頭してきた村上水軍の末裔が住みついていた過疎の島でした。             

 日清戦争後、瀬戸内海に侵入してくる敵艦から軍都広島と軍港呉を守るために芸予要塞地帯法がつくられ瀬戸内海の島々や岬に砲台が設置され芸予要塞が構築されました。大久野島にも1902年、北部・中部・南部と3つの砲台が置かれ、あわせて22門の大砲が設置されました。それ以降大久野島と忠海町は軍隊と深いつながりをもつ島と町としてその歴史を刻んできました。「大久野島はもともと、島には松の木が多くて松茸がよく取れ、潮が引くとサザエや貝がよく取れるし、漁師さんから獲りたての魚は買えるし、米や野菜は自分で作って食べられ、食べ物の豊富な住みよい島でした。」と住んでいた人は話しています。そのような平和な島が軍の要塞になっていきました。

 結局、瀬戸内海に敵艦隊が来ることはなく、大久野島の砲台の大砲の一部は日露戦争で中国に運ばれ旅順攻撃に使われました。その後、要塞としての価値は失われ要塞は廃止され大砲も撤去されました。

昭和初期には4世帯が住んでいましたが大久野島の毒ガス工場が設置されることになり住人は強制的に島から移転させられました。大久野島に毒ガス工場が設置されたのは1929年でそれから1945年の敗戦まで16年間、陸軍の兵器工場が置かれていました。ここでつくられた毒ガスは、北九州の曽根というところに運ばれ、そこで、迫撃砲弾や航空機からの投下爆弾に装填され、中国をはじめ各戦場へ送られていきました。・毒ガス兵器という国際的に禁止された兵器をつくっていたので、戦争中は秘密の島として、この島は地図からも消されていました。

このように大久野島は、明治以降、軍事的な要地として利用されてきた島です。今でも日露戦争前に造られた北部・中部・南部砲台の建造物や毒ガス工場時代の毒ガス貯蔵庫跡などが残されています。

 

2:なぜ大久野島に毒ガス工場がつくられたのか。

はじめ、毒ガス製造のための研究所は東京に造られていましたが、関東大震災 (1921年)を経験した陸軍は,化学兵器施設は,天災や不測の事故が起こった時の危険防止のため人口の多い東京より、地方へ移したい、という考えをもつようになりました。そのため次のような条件で設置場所を考えました。

  @秘密が保たれるところ、・

  A毒ガスが漏れても回りに被害が少ないところ

  B西の地方(中国大陸に近いところ)

 C比較的居住地域に近く、労働力・資材の供給がしやすいところ 

忠海町では芸予要塞が廃止され施設が引き揚げたあと、不況もあって町が沈滞していました。軍隊の施設なら不況にも強いということもあり町は誘致に力を入れました。全国35箇所の候補地があり各地とも誘致に猛運動をしていたがその中から大久野島が選ばれました。この時の忠海町、望月忠吉町長は時の元内務大臣を勤めた実力者で政友会の望月圭介の息子だったこともあり、政治的力を背景に誘致に成功したとう話もあります。望月圭介は白川義則陸軍大臣と親しく大久野島への誘致を頼んだという話です。

誘致には成功しましたが、町の人々は毒ガス製造工場が来るとは知りませんでした。化学兵器製造工場とだけ説明されていました。化学兵器というから進んだ近代的な兵器工場ぐらいに考えていました。

 

3:大久野島ではどんな種類の毒ガスが、どのくらい製造されたか。

1929年陸軍造兵廠火工廠忠海製造所が完成、毒ガスの製造が始まりました。最初は毒ガスの生産は需要の少ないこともあって農薬、サイローム(特殊赤土に青酸を吸収させる。)などが生産されました。サイロームとはミカンの木に着く貝殻虫を駆除する農薬です。1937年日中戦争が始まると毒ガスの生産量が急増、中国各地で実戦に使われるようになりました。日本軍は毒ガス製造と使用をひた隠しにしながら、日中戦争で使用し、多くの中国人を殺傷しました。1941年、日米開戦の年が大久野島の毒ガス生産のピークでした。1931年から1945年までに生産した各種の毒剤の量は6616トンです。敗戦時、日本本土に残されていた毒剤は3647トンですから少なくとも3000トン以上の毒剤が戦場に運ばれたと考えられます。その、ほとんどは中国に運ばれました。

大久野島では7種類でしたが、主要な毒ガスは五種類、イペリット(黄1号)、ルイサイト(黄2号)ジフェニール・シアンアルシン(赤1号)・クロールアセトフェノン(緑2号)・青酸ガス(茶1号)でした。最も生産量が多かったのは猛毒のイペリットでした。

 

大久野島で製造された毒ガスの種類

毒ガスの名

 

原 料

   症状

イペリット

黄1号

塩酸・エチレン・グリコール

びらん性ガス

ルイサイト

黄2号

食塩・アセチレン・亜砒酸

びらん性ガス

青酸ガス

茶1号

青化ソ−ダ・硫酸

窒息性ガス

ジフェニ−ル

赤1号

亜砒酸・塩酸・青化ソーダ

くしゃみ性ガス

塩化アセトフエノ

緑1号

酢酸・モノクロール・三塩化リン

催涙ガス

 

4:日中戦争における日本軍の毒ガス使用。

 1937年日中戦争が始まると毒ガスの生産量が急増、中国各地で実戦に使われるようになりました。しかし、日本軍は国際法上禁止された毒ガス製造と毒ガス使用をひた隠しにしながら、日中戦争で使用し、多くの中国人を殺傷しました。

日本軍が毒ガスを製造したのは、陸軍の毒ガス製造工場である大久野島と海軍の毒ガス製造工場である神奈川県の相模海軍工廠の2カ所だけです。相模海軍工廠で製造が始まったのは1943年で日中戦争末期であり、生産した毒ガスの総量は760トンで本土決戦に備えて国内各地の海軍の貯蔵庫に配備されたが使用されませんでした。

大久野島の毒ガス生産総量は6616トン、その約半分が国外に持ち出され戦争に使用され、日中戦争で日本軍は2000回以上は毒ガスを使用、中国の軍民が9万4000人以上死傷し、そのうち中毒で死亡した人は1万をこす。(参照「日本軍の化学戦」紀学仁編:大月書店p331) 日本軍が戦争で使用した毒ガスは大久野島で製造されたものでした。日本軍は、戦線が膠着状態になると毒ガスを使用して、戦線打開をはかりました。たびたび、毒ガスが使用されたことは、使用した日本軍兵士の証言で明らかになっています。日本軍が主として日中戦争で使用したのは赤筒と呼ばれる、くしゃみ性ガスです。発煙筒と一緒に、村人をいぶり出すのに使われたことは、多く使用したという証言から明らかになっています。

長い間、戦争での毒ガス使用を認めていなかった日本政府も、多くの使用事例や証拠がでてきたため認めざるを得なくなりました。1995年11月秋山防衛庁防衛局長が「戦史資料によると、非致死性の化学剤を装填した兵器を使ったことは明らか」と述べ、河野外相も「秋山局長の申し上げた通り」と毒ガスの使用をみとめています。しかし、致死性の毒ガスの使用は認めようとしない。(参照「日本軍の化学戦」紀学仁編:大月書店p386)このように日本政府は赤筒の使用は認めていますが、致死性の毒ガスの使用は公式に認めていません。たくさんの致死性毒ガスが中国に運ばれたのは事実ですし、使用したという元日本兵の証言や中国側の被害調査の資料などから考えても中国で日本軍が致死性の毒ガスを使用したことは間違いありません。

 

5:中国に遺棄された毒ガス

敗戦時、秘密兵器の毒ガス製造と使用の事実を隠すために、日本軍は中国のあちこちに毒ガスを棄てて日本に帰ってきました。そのために戦後、2000人以上もの中国の人達が遺棄毒ガスによって被害に遭い、現在でも、後遺症に悩まされています。日本軍が中国に捨ててきた毒ガス弾は中国側の説では200万発です。日本政府はそのうち70万発を遺棄したことを認めています。1993年に締結された化学兵器禁止条約によって、日本はこの70万発の毒ガス弾を処理する義務を負っています。

また、現在、たくさんの中国の遺棄毒ガス被害者が日本政府を相手に謝罪と補償を求めて裁判に訴えています。

 

6:戦後の大久野島周辺の毒ガス処理。

終戦時、大久野島とその周辺には約3000トンの毒ガスが残されていました。その量は全人類を絶滅できるものでした。      

残されていた毒ガスは占領軍のオーストラリア軍(英連邦軍)によって1946年から約1年間かけて処理されましたが、その危険な作業を請け負ったのは民間企業の帝人三原工場でした。毒ガスの危険性に対する確かな知識もなく、高給がもらえるという誘いで雇われた民間人が十分な訓練も受けず、防護設備もないまま、危険な毒ガスの処理作業に従事しました。そして、この戦後の毒ガス処理によって、多くの毒ガス障害を受け、のちのちまで、後遺症に悩まされる人が多数出ました。        

毒ガスの処理は三つの方法で行われました。海洋投棄・焼却・島内埋設の方法によるものです。その時、約65万本の赤筒や多数の発煙筒が島内の防空壕に埋設されました。

 

@敗戦〜進駐軍大久野島上陸(1945年10月)までの毒ガス処理

   致死性の毒ガスは国際法上使用禁止になっている非人道兵器。問題化するのを恐れた日本軍部は「証拠隠滅」を命じました。進駐軍が来るまでに処理しようと機帆船に積んで近くの海に大量に遺棄したそうです。毒ガス容器や毒ガス製造設備が1メ−トル四方に切り刻まれ海に投げ込まれました。広島大学の生物学者の研究論文、「貝の告発」によると戦後、約数年間、投げ込まれた海域の海底には生物が生息しなかったという。島周辺の海域からは戦後多数の毒ガス容器などが漁業者の魚網にかかって引き揚げられました。

 

A進駐軍による毒ガス処理

 戦後の毒ガス処理は英連邦軍(オ−ストラリア軍)によって行われた。本来なら化学兵器の専門部隊で行われるべき危険な作業を毒ガスの危険を知らない民間人が行いました。そのために作業に従事した多くの人が被害を受け毒ガス障害で悩まされることになりました。

【進駐軍による毒ガス処理は三つの方法でおこなわれた】。

海洋投棄・焼却・島内埋没による処理である。帝人三原工場の社史「帝人の歩み」によるとそれぞれの方法で処理された毒ガスの数値は次の通りです。 

海洋投棄:毒液1,845トン、毒液缶7447缶、クシャミ剤9,901缶 催涙剤131缶、60キロガス弾13,272個、10キロガス弾

              3,036個

焼却・・・・・毒物56トン、催涙棒2,820箱、催涙筒1,980箱

島内に埋没・・クシャミ剤(大赤筒) 65,933個

              クシャミ剤(中赤筒)123,990個

             クシャミ剤(小赤筒)  44,650個

              発射筒              421,980個

海洋投棄による処理

  イペリット・ルイサイトなど死に至らせる猛毒の毒ガスが船によって高知県の土佐沖まで運ばれ船ごと海底に沈められたり、また、別の船からは海洋に投げ込まれて遺棄されました。積み込み作業は極めて危険にもかかわらず、作業に従事した民間人は、十分にその危険性を知らされていなかったのです。

 

焼却による処理

 一部の毒ガスと毒ガス製造設備が焼却処理された。毒性を消すため工場の建物の内部も火炎放射器で焼却されました。北部海岸にも焼却場があった。そこで働いていた従業員は毒ガス障害に悩まされ早く亡くなりました。焼却した時、砒素などの毒物が飛散した可能性も高く、大久野島はかなりの範囲が汚染されていると考えられます。

 

島内埋没による処理

  毒性の弱い毒ガスである赤筒や発煙筒など が島内の防空壕などに埋没処理されました。帝人社史には次の方法で毒ガスを埋没処理したと記述してあります。

「クシャミ剤のような有毒姻剤が大量に残存していた。これらは大久野島所在の壕内へ埋没し、コンクリ−トで堰堤を造って密閉し、海水とさらし粉の混合物を注入してその処理をした。」 赤筒や発煙筒を壕内の奥に入れ、入口をコンクリ−トで密閉、毒の中和のためにさらし粉と海水を壕内に大量に注ぎ込んだのです。このような簡単な方法で砒素を原料とするクシャミガス(赤筒)が処理された。このような簡単な埋没処理によってもう、島内の毒ガスは薬品処理済みであり、従って安全である。というのが今の国(環境庁)の姿勢です。

 海水とさらし粉で満たされた砒素を原料とするクシャミガス(赤筒)は50年も経過すれば容器は腐食し原料が流れ出る可能性は高い。砒素は元素であり永遠に分解されることはない、それが大久野島の地下水系に流れ込んだら大変なことになることは考えれば容易に予測できます。ちなみに、1995年から環境庁がおこなった砒素濃度検査でも、地表よりも地層4m〜5mのところから高濃度の砒素が検出されている場所もあります。これは地層深く砒素がしみこんでいるからだと考えられます。 このように、大久野島の毒ガスと毒ガス製造施設の戦後処理は、その後の大久野島の環境汚染につながる可能性を持った不完全な処理であったといえます。

 

7:戦後の大久野島

1950年の朝鮮戦争が始まると、アメリカ軍が大久野島を接収し弾薬置き場として使用しました。朝鮮戦争が終わっても日本には返還されず、アメリカ軍は引き続いて弾薬処理場として使いました。日本に返還されたのは1956年でした。

その後、国の所有地として大蔵省が管理、具体的には中国財務局が管理していました。島内は立ち入り禁止で、昼は中国財務局の守衛が、夜は忠海町の職員が交代で島の番をしていました。

1960年国民休暇村の認定を受け、1963年に国民休暇村としてオープンしました。大久野島は人々の憩いの島となり観光客が訪れるように成りました。しかし、「国民休暇村にして大丈夫だろうか」という声が、毒ガス工場で働いていた人達からあがっていました。

当時、地元、竹原市吉名町出身の内閣総理大臣池田勇人が「毒ガス、毒ガス言うのじゃ困るから、早く国民休暇村を作れ」と言った・・・という話もあります。これが、本当なら、毒ガスという秘密兵器のイメージがいつまでも残るのは良くないという、国の考えが現れているような発言です。大久野島から毒ガスのイメージを払拭しようとして、国民休暇村が設置されたとも考えられないこともありません。 

1969年毒ガス弾がキャンプ場の近くの防空壕で発見されたのをきっかけに大久野島の防空壕に埋めてある大量の毒ガス(赤筒)のことが問題となり、国会でも取り上げられました。厚生省が自衛隊に依頼し調査した結果、いくつかの防空壕から毒ガスを発見しましたが、毒ガスとしての効力は失われているとして、再び埋め戻しました。さらに、毒ガス島のイメージを払拭するため、島に残っていた毒ガス工場時代の建物を自衛隊が徹底的に破壊しました。しかし、その後も作業中の漁船の網に海底から毒ガス容器がかかって上がったり、島内からも毒ガス弾の残骸が見つかったり、たびたび毒ガス発見騒動が起こりました。大久野島周辺で漁業を営む人たちも、1971年、海中に投棄された毒ガスや毒ガス関連器材を調査し、引き上げて欲しいと要請しましたが、十分な調査もおこなわれませんでした。

 

8:大久野島のヒ素汚染問題

1995年、環境庁の調査により、大久野島のあちこちで砒素による土壌汚染・水質汚染があることが明らかになりました。毒ガス工場時代の、毒ガスの原料の砒素が原因であることは間違いありません。国(環境省)は1998年10月〜1999年3月にかけて環境基準を大幅に超えた(30倍以上)危険な地域を立ち入り禁止にし、300倍を越えた3箇所の砒素汚染土壌を除去し洗浄しました。その費用は約21億円かかりました。現在の大久野島は危険な土壌は除去され、井戸水調査なども定期的に行なわれているとのことですので一応安全は確保されていると言えます。

 しかし、さまざまな資料から大久野島には今でも、65万本の毒ガス(赤筒)が埋めたままになっていると思われます。赤筒は原料が砒素でつくられた毒ガスです。島内に埋められたままになっている大量の毒ガス(赤筒)が将来、環境汚染をひきおこす可能性があるのです。また、砒素以外の有害物質(鉛など)が地中に埋もれているとも考えられます。

このように大久野島の毒ガス問題はまだ終わっていないのです。いつ、ヒ素汚染などによる環境問題が発生するかわからないし、今後遺棄毒ガスが出てくる可能性があるのです。