大久野島の歴史と環境問題            

        大久野島の詳しい歴史(新聞・本などからの引用とまとめ)   

             

1877年 (明10)島内大江谷及び長浦地区はほとんどが田畑で官有地が点在していた。

大江谷の海沿いと長浦に宅地があった。

1902年(明35) 日露戦争に備え芸予要塞法がつくられ、大久野島にも

北部・中部・南部に砲台が造られ大砲16門が軍港呉・軍都広島を守るため海をにらむように設置された。

 明治中期、日清戦争の緊張の中で芸予要塞の必要性が高まり、日清戦争後の1897年(明30)から

芸予地帯(忠海〜大久野島〜小島)に砲台工事が始まった。

大久野島には1900年(明33)に北部砲台、と中部砲台、1901年(明21)に南部砲台が竣工した。

大砲が据えられたのはいずれの砲台も1902年(明35年)である。  

大砲の1部は取り外され旅順攻撃に利用された。また、第一次大戦の時にも前線に送られ、戦果かを上げた。 

 1907年(明40)の連合大演習の結果、芸予要塞の有効性が疑問視され1924年(大13)一切の備えが解除され、

 大久野島は要塞地帯から除外された。              

                                                       (「広島県の文化遺産」p256)

 忠海町には明治中期から大正の終わり頃まで陸軍の施設が置かれていた。

1890年(明23)呉憲兵分隊忠海分遣所、1899年(明32)芸予重砲兵大隊、

1900年(明33)年芸予要塞司令部、冠崎砲台、1901年(明34)大久野島砲台がそれぞれ設置された。

そして、1902年(明35)に芸予要塞が完成した。また、1918年(大7)電信独立大隊が設置され、

1922年(大11)広島に移転された。               

                                                              (「写真集竹原」p20)

1922年(大11) 大正末期、軍縮のため芸予要塞施設は整理され、大砲も一部撤去されていった。

軍事上の要地としての立場を失い、おりからの不況も重なって忠海町も沈滞していった。

1927年(昭2) 全国35カ所の候補地の中から毒ガス工場(東京陸軍造兵廠忠海製造所)設置が決まった。             

昭和初期の不景気な時、町の沈滞を払拭するためにも町は陸軍の軍需工場の誘致に力を入れた。

何が製造されるかは知らなかったが、倒れる心配のない軍需工場であるだけに住民も賛成したという。

その後二年間で工場建設が進められ各地から業者作業員が続々大久野島へ向かった。       

当時、島内には住民も住んでいたが、1926年(大15)軍の命令で転居させられた。

東京から遠く離れた、忠海の地に、なぜ、陸軍がこのような重要な工場を造ったのか。

それにはいくつかの理由がありました。

「この火工廠の設置については全国に35カ所の候補地があって、各地とも非常の猛運動を続けて

いたのであるが、今回急に忠海町に決まった・・・」    (「藝南時報」昭和2年8月10日版)

「製造工場の位置は外部に対する秘密保持と発生する排気汚染の関係上なるべく住民地域と隔絶し、

しかも作業の利便のため、ある程度住民地帯に接近するを可とする。」                                        

                                (「日本陸軍火薬史」)

 毒ガス製造で天災や不測の事態が起こった場合の危険を配慮したようだ。

回りが海で、万一、ガス漏れが起こっても付近の住民に被害が及びにくい、

秘密が保持しやすい、労働力確保に便利な所。このような理由から大久野島が選ばれたのであろう。

東京で危険なものは地方でも危険なことには違いない、しかし、危険な仕事の実態を知らない住民は工

場の設置を歓迎した。             

                                (「毒ガスの歴史」p19)

豊田郡東野町出身で郷土選出の政友会代議士望月圭介は内務大臣などを歴任した当時の日本政界の重鎮であった。

陸軍が毒ガス工場を建設するとの情報が得られ、望月圭介が親交のあった、時の陸軍大臣白川義則大将に図り

大久野島を推奨され、忠海町に毒ガス工場建設が決まったと言われている。

当時の忠海町長は望月圭介の令息の望月忠吉でこれも誘致の一助になったと考えられる。

不況にあえぐ忠海町にはまさに干天に慈雨の良報であった。  

                          (「毒ガス創立30周年記念誌」p199)

1929年(昭4) 東京陸軍造兵廠火工廠忠海製造所(毒ガス工場)が完成、毒ガスの製造が始まった。

 当初、従業員は80人で専用の船便で大久野島に渡った。

製造所開所にともなって工員を募集したところ6千人が応募したという。

昭和初期の不景気の中で、作業内容は化学兵器の 製造ということで、これ以上の就職口はなかった。   

工員たちは入所し約1ヶ月間教育を受けた。

作業は二交代制、午前8時〜午後9時までの組と、午後8時〜午前9時までの組、

間に1時間の引継時間があった。作業は防毒面、防毒服、ゴムズボン、ゴム長靴、ゴム手袋の完全防護で行った。

しかし、呼吸も、会話も不自由な上に、動くとどうしても汗が出て、防毒面が曇ったり、毒ガスが体内にしみ込む危険性があった。           

                                (「毒ガスの歴史」p23)

1932年(昭7)  大日本帝国陸地測量部編纂の地図から大久野島が消された。

1933年(昭8)   満州事変も始まり、製造所の拡張工事も行われた。    

  この年、最初の毒ガス犠牲者が出た。青酸ガスが体内に入り被毒した。

K工員が青酸の注入作業をしている時誤って青酸の飛沫を浴び、防毒面の吸収管近くであったため体内に吸入されたのだ。              

この事故後、十姉妹を入れた籠が各チャンバ−に配給された。

1937年(昭12)   日中戦争が始まり、毒ガス製造に拍車がかかり、

毒ガスの生産量も急上昇、中国大陸での日本軍の毒ガス使用が本格化した。

また、 大久野島で製造した毒ガスを、曽根(北九州市小倉区)で砲弾の弾体に詰め込み、

毒ガス弾を製造するようになった。

この年、殉職碑が大久野島神社境内に建立された。

K工員の事故の後、二人の犠牲者が出た。事故後、殉職碑が建てられ、殉職碑の中には3人の名が刻まれている。

1939年(昭14) 青酸ガス工室・催涙ガス工室・イペリット真空蒸溜装置・毒物貯槽

・毒物焼却場・発煙筒工室などの拡張が行われた。

関東軍が満州に化学部隊(第731部隊など)を編成。毒ガスの人体実験も行われるようになった。

1940年(昭15) 日中戦争の拡大期となり、毒ガス工場は「東京第二陸軍造兵廠忠海製造所」と改称、

従業員も急増した。工場内に陸軍兵廠技能者養成所を設置。近隣の高等小学校に呼びかけて卒業生を採用した。

 募集は小学校で斡旋した。大久野島の所長や幹部の人達が小学校に来て、生徒を前に講演や説明があった。

「この国が勝つには他国に負けない兵器を造らなくてはいけない。今以上に立派な兵器を造るには若い力が必要だ。

しかし、大久野島では何を造っているかの説明はなかった。ある学校では25人受験し6人が合格した。

満蒙開拓青少年義勇軍なら希望者が少ないから採用されるのはそう難しいことではなかったが

軍需工場にはそう簡単には入れなかった。

養成工の1年生は午前中教科を勉強し、午後現場実習ということで発煙筒、赤筒を造って現場に行っていた。

教科は化学兵器学、電気、工作機械材料力学、化学、物理、製図、国語、数学、公民学、軍事教練、剣道があった。

化学兵器学の本は授業の時は渡してくれるが、授業が終わると取り上げられた。

2年生になると専門に別れて実習に行くが、みんな「毒ガス」を造る化学工になりたくなく、避けようとしていた。                 

                            (証言「大久野島と私」I氏

 

 養成所では「毒ガス兵器は拡散して広い範囲に広がり、多数の中毒者を出すが、

その傷害は致死的でなく、相手の戦闘能力を低下させるものであり、

他の兵器のように敵を殺戮したり、流血の惨事を起こさず傷害の痛みも低い。

これはきわめて人道的である。」と教えられた。          (「毒ガス島と少年」p12)

1941年(昭16)  太平洋戦争が始まり、毒ガスの生産量もピ−クに達した。

県内より青年が徴用されるようになった。

しかし、資源不足のうえ熟練工などが次々と戦争に召集され 毒ガスの生産は困難になって来た。

防護服なども不足し作業、環境も悪化し毒ガス障害者は増加した。

1942年(昭17) ル−ズベルト大統領声明出る。

「日本軍がアメリカ軍に対して毒ガスを使用したらアメリカも報復のため、毒ガスを使用する」ことを声明。

1937年(昭37)に中国は、日本軍が大量の毒ガスを使用していることを国際連盟に正式に抗議していた。

ル−ズベルト声明はこうした情勢のもとで発せられた。

声明の出された2ヶ月前、初めて東京が八機の米軍機で空襲されていた。

ル−ズベルトは「私はここに明言しておくが、日本が中国あるいは他の連合国に

非人道的な戦争形態を行使し続けるというなら、その行為はわが政府は米国に対してなされたものとみなし、

同様のかつ十分な報復を与える。」と警告した。

 戦争末期の日本軍の毒ガス所有量は約7500万トン、対するアメリカは135000万トンであった。

毒ガス戦は日本にとって不利とみた政府は1944年(昭19)「黄」「茶」に加えて「赤」「緑」に至る

毒物の使用を厳禁する通達を出した。             

                          (「中央公論」1984年3月号p234)

1943年(昭18) 学徒戦時動員体制確立要綱により勤労動員令がだされ、高等女学校をはじめ9校、

1156人の女学生・小中学生が大久野島に動員され、防空壕の穴掘りや毒物の入った

ドラム缶の運搬、発煙筒や風船爆弾の気球造りに従事させられた。

1944年(昭19) 7月に毒物の製造を中止、設備転換を行った。

発煙筒、爆薬風船爆弾などが主要に造られるようになった。

1945年(昭20) 風船爆弾の気球造りと毒物の運搬、不要な建物の撤去が行われた。

宇治製造所(京都府下)から、火薬作業の一部が移された。

1945年8月15日大久野島の全工場の機能を停止。

陸軍造兵廠は秘密を守るため、毒ガス患者カルテや写真、関係書類など一切の機密文書をことごとく焼却した。

致死性の毒ガスは国際法上使用禁止になっている非人道兵器。

それだけに軍事裁判で問題化するのを恐れ、「証拠隠滅」のために終戦直後、進駐軍が来るまでに、

「上官の命令で百トンあまりの機帆船に積んで夜中に出航し、

小久野島や松島の近くの海に大量に青酸ガスボンベイを投棄処分した」という元従業員の証言もある。

当然、製造日誌など重要書類も焼き捨てたから毒ガスがどの程度貯蔵され、

どれだけ海中投棄されたかはっきりはしない。戦争責任の追及を恐れての証拠隠滅が毒ガスの謎を一層深めている。

                          (1972年6月7日 中国新聞記事)

 1945年10月4日進駐軍135名が大久野島に到着。11月9日米陸軍10軍団化学部隊長・フィリップ大佐到着、

開けて次の年(1946年)の5月27日から毒ガス製造工場の破壊作業始まる。

第一次作業は5月27日から11月20日まで毒ガス・毒物処理を行った。

第二次作業は11月21日から翌年の5月27日まで毒ガス工場の施設の破壊を行った。   

                         (「中央公論」1984年  3月号p235)

1946年(昭21) 毒ガス処理と毒ガス工場・施設の解体を帝国人絹三原工場が請け負う。

同社は大久野島の毒ガス工場の建物・諸施設及び薬品の払い下げを受けて、化学工業を経営することを計画した。

これに対して、中央特殊物件処理委員会では1946年(昭21)1月22日この大久野島の軍事施設の                

大部分を化学工業に転用することを決定。その際、同島の毒物処理も帝人三原工場に担当させる方針を取った。

 呉・岩国を中心とする一帯は英連邦軍が占領駐留していた。

従って、英連邦軍(オ−ストラリア軍)が大久野島の毒物と施設の処理の担当であったが、

化学兵器専門の将校が配属されていなかったので、米軍の第8軍に対して化学専門将校の派遣を要請した。

そして、ウイリアム少佐が派遣された。

イペリット・ルイサイトのような猛毒を処理するので非常な危険が伴うので製造するよりむしろ危険であるとさえ予想された。

英連邦軍は当初、その日時を3年間と予定していた。

毒物の処理に2年間、除毒作業に1年間を要する計算であった。

英連邦軍が考えていた毒物の処理方法は、焼却を主とし、海洋投棄を従としていた。

イペリットやルイサイトガスは猛毒で持久性を有することから、これを完全に消滅させるには焼却による方法を、

これに対し、クシャミガスや催涙ガスは、危険性が少ないので海洋投棄しようと考えていた。

これに対し米軍から派遣されたウイリアム少佐は、毒物処理の期間を半年間で終わらせようと計画した。

猛毒ガスを含めて大部分の毒ガスを船に積んで海洋に運び、船もろとも海底に沈めてしまおうとする方法をとった。

躁急で、大まかなやり口であった。

また、大久野島で製造された毒ガス兵器完成品の多くは、同島の近くの忠海補給廠・大三島・阿波島・米光

・切串・内海などに分散貯蔵されていた。これらの毒ガスも大久野島に輸送集結し、処理された。

                             (「帝人三原工場社史」p200)

毒ガスの処理には三つの方法がとられた。一つは船に積んで海洋投棄する方法、二つ目は焼却処理方法、

三つ目は島内の壕などに埋没する方法である。

その時、海洋投棄、焼却、埋没された数は次のとうりである。

@海洋投棄した毒物

 毒液1845トン、毒液缶7447缶(930トン)、クシャミ剤9901缶(99 0トン、催涙剤131缶(7トン)、

 60キロガス弾13272個、10キロガス弾 3036個

A焼却された毒物

BCDタンク、毒物56トン、催涙棒2820箱、催涙筒1980箱

B埋没した毒物

クシャミ剤(赤筒)大65933個、クシャミ剤(赤筒)中123990個

クシャミ剤(赤筒)小44650個、発射筒421980個

                          (「帝人三原工場社史」p200〜206)

1946年(昭21)8月28日クシャミ剤のような有毒姻剤が大量に残存していたものを島内の壕内に埋没し、

コンクリ−トで堰堤を造って密閉し、海水と晒粉の混合物を注入して9月18日その作業を終わった。

その後、島内倉庫地帯の除毒作業を終わり、11月20日、半年に及ぶ毒ガス兵器の処理という難事業を終わった。

1946年(昭21)11月21日英連邦軍より、引き続き毒物製造施設の処理作業が指令された。

この作業は、毒物処理以上に困難が予想された。敗戦のため突然に作業を中止したものであり、

工場には原料・中間製品など危険な毒物が雑然とし未整理のまま混在していた。

いつどこで、毒ガスの被害が出るか解らない状況だった。タンクの除毒作業なども困難かつ危険なもので、

何回も焼却しても、毒性は消えなかった。数日間連続して焼却を行った。

猛毒との闘いが連日続き激しい作業なので、疲労も重なって毒ガス患者が発生した。

工場地帯は、焼却後、晒粉で除毒した。

1947年(昭22)5月27日、第1次の作業(毒物処理)開始から、第2次作業(施設の処理)の終了まで、約1年を経過し、

大久野島の毒ガス処理は終了した。                    

                          (「帝人三原工場社史p207〜210)

1947年(昭22) 発電場・貯蔵庫の一部を残して除毒処理作業終了。

連合軍司令部から大久野島を日本政府に返還。

1947年6月 県立広島医科大学(現広島大医学部)生物学教室の松本邦夫教授が大久野島の生物生態系を調査。

大久野島がGHQから日本政府に返還されたのは1947年6月13日である。

返還を待っていたかのように松本教授は二隻の船で大久野島へ渡った。

島に上陸した松本教授は不気味な様相に目を見張った。

全島くまなく約3pの厚さにまかれたさらし粉、鼻をつく悪臭、目にしみる刺激箇所がいたる所にあった。

松本教授は1948年の7月まで一年間で八回も大久野島に足を運び調査した。

南側の事務室のあった所の下の海岸には数多くみられた、小貝類が毒ガス工場のあった地域の海岸には全くいなかった。

一年後の観察ではカニ、フナムシなどが島全体に増殖しているのに、毒ガス製造工場の下の海岸は極端に少なかった。

松本教授は「工場下の石垣や砂を洗った海流が左右から西海岸に押し寄せ、会合するため、

毒の影響が一番ひどかったのを証明する」と論文にまとめた。(昭23年8月20日)。

だが、「貝の告発」の松本論文は占領下とあって教室の片隅にホコリをかぶってうずもれ、

毒ガス障害が医学のテ−マにのるのはさらに四年の歳月を待たねばならなかった。                                                    

 

                       (1975年12月4日 中国新聞記事)         

 1951年(昭26) 1950年の朝鮮戦争勃発にともない、日米安保条約により、

再び大久野島は米軍の弾薬庫として接収された。

1952年(昭27) 広島大学の松本邦夫教授が大久野島の生物生態を調査

戦後7年経った今でも毒ガス工場のあった西側水域には今も貝類が棲まないことが解った。

松本教授の調査によると今でもヒザラガイ、イボニシ、マツバガイなど

他の海岸に群棲する貝類が西海岸にはいっさい見当たらず、

海水分析で催涙、クシャミガスのもつ砒素系毒が残っていることを物語っている。

また、石垣などに付着するフジツボ、カキなども西海岸のものは著しく形が小さく

数もまれで毒性に痛めつけられた過去を忍ばせている。

なお、同教授の調査表でみると、2〜3年前からフナムシ、カニなど節足動物は

行動力の強さからか汚毒地域にもボツボツ進入し始めているというから

同水域の毒性もちかく生物を死滅するに足りぬ弱さに傾いていくだろうと結論している。

                             (1952年 中国新聞記事)

1953年(昭28) 朝鮮戦争は終ったが、弾薬解体処理場として米軍が管理。

1958年(昭33) 三原市内のスクラップ業者が大久野島沖で引き揚げたボンベイの解体中、

青酸ガスにより、作業員と付近の住民が死亡、27名が傷害を受ける事故発生。

1958年5月29日三原市内のスクラップ業者が大久野島沖で引き揚げられたボンベイ二本の砲金製口金を取ろうとして

ハンマ−でたたいたところ青酸ガスが吹き出し通行中のOさんが死亡、

ガスを吸った作業員や付近の住民が9人重体、18人が眼球出血の被害を受けた。

1963年(昭38)  大久野島は国民休暇村としてオ−プン、人々の憩いの島となり観光客が訪れるようになる。                                       

                       (1974年12月20日 中国新聞記事)                      

 

 

 竹原市吉名町出身の当時の総理大臣池田勇人は「毒ガス、毒ガスいうのじゃ困るからはやく休暇村をつくれと言った。」

という話もある。国民休暇村設置の経緯に国の毒ガス隠し行政の臭いもする。  

                       (「中央公論」1984年3月号p235)

1969年(昭44) キャンプ場の近くの防空壕で赤筒を発見

厚生省が陸上自衛隊の協力の下に調査した結果、いくつかの防空壕から毒ガスを発見、

壕内にあった毒ガスを検査した結果、無害であると判断、再び壕内に入れ入り口を

コンクリ−トで密閉し、外から人が入れないようにした。

 1969年8月大久野島毒ガス障害者団体連絡協議会代表室賀厳さん(46)が

「戦後24年経った今でも島の防空壕に毒ガスが残っている。」と呉防衛施設局に届け出た。

                         (1969年8月27日 中国新聞記事)

 また衆議院内閣委員会で、社会党の浜田光人氏が「国は同島を国民休暇村にしているが、

戦後処理が不十分だ」と追求した。

 最近、防空壕のあとに毒ガスが残っているとの情報が現地から伝えられた。

こうした点を指摘して、浜田氏は「国民休暇村という人出の多い島で、毒ガスの不安があるのは問題だ。

厚生省は一体どんな判断で休暇村をつくったのか、大蔵省は管理責任があったはずだ」とただした。

県薬務課長らが現地調査した結果、フェリ−乗り場西方薬50mにある防空壕の入り口付近で赤筒と思われる固型粉末の詰まった四本の

缶が見つかった。

                        (1969年8月27日 朝日新聞記事)

 

 大久野島毒ガス障害者団体連絡協議会代表室賀厳さん(46)が

「戦後24年経った今でも島の防空壕に毒ガスが残っている。」と呉防衛施設局に届け出た。

そのため県は8月26日午後、県の薬務課長、県衛生研究所理化学部長、

竹原保健所長が調査を実情調査に派遣した。

調べた結果、キャンプ場北の幅約2・5m、高さ約2m、長さ約100mの防空壕の入り口で

毒ガス容器らしいものを三本見つけた。容器はぼろぼろになり、中には白い粉末が入っていた。

薬務課長が外に出して燃やしたところ、セルロイドを焼いたような臭いがした。

「竹原保健所が壕内にあった水を持ち帰り、金魚を入れてみたが、

4時間あまり経っても金魚に異常がないので、毒性物は混入していないのではないか。」と薬務課長は述べている。     

                        (1968年8月27日 中国新聞記事)

旧陸軍が造っていた毒ガスが未処理のまま残っていた問題が、26日の衆議院内閣委員会で取り上げられ

社会党の浜田光人氏が「国は同島を国民休暇村にしているが、戦後処理が不十分だ」と追求した。

 最近、防空壕のあとに毒ガスが残っているとの情報が現地から伝えられた。

こうした点を指摘して、浜田氏は「国民休暇村という人出の多い島で、毒ガスの不安があるのは問題だ。

厚生省は一体どんな判断で休暇村をつくったのか、大蔵省は管理責任があったはずだ」とただした。

これに対し、厚生省の中村国立公園部長は「休暇村建設当時、国立衛生研究所の毒物検出の担当官に調査させ、

安全ということで工事をした。

しかし今回の情報が事実とすれば大変なことなので26日に広島県を通じて調査することにした」と答えた。

ところが浜田氏がさらに追及したところ防衛庁の安田防衛局運用課長が

「1961年(昭和36)広島県知事の依頼で調査した時一部の家屋から毒ガス反応があったので注意した。

しかし、その後、現地でどう処理したかは防衛庁の記録には見あたらない」と述べ、

毒ガスの危険が絶対ないとは保証できないことを示唆した。

 さらに浜田氏は「住民が毒ガスの完全処理を要望しているのに国はあまりにも手ぬるすぎる」とし

9月9日の衆議院内閣委員会で改めて追及することになった。

県薬務課長らが現地調査した結果、フェリ−乗り場西方約50mにある防空壕の入り口付近で

赤筒と思われる固型粉末の詰まった四本の缶が見つかった。

一行は缶を取り出した後、少量の粉末を焼いたところかすかに青い煙が出、

同課長は「赤筒ではないでしょうか、しかし、壕から取り出した水の中で金魚を泳がせたところ

3時間以上経っても死なず、人体に影響のあるものなら一時間後には死んでいるはずなので、

それほど人間の生命に危険と思われる毒性はないようだ」といっている。

                        ( 1969年8月27日 朝日新聞記事)

大久野島で発見された古いブリキ缶は調べたところ、当時「赤一号」と呼ばれていた

クシャミ性の毒ガス缶と解った。

 島内に、コンクリ−トで密閉された貯蔵庫が50か所以上あると言われ、

厚生省も8月28日に係官を現地に派遣することになった。

見つかった缶3本の上部に赤い線がが入っていたので「赤一号」と解った。あとの1本は発煙筒らしい。             

                        ( 1969年8月28日 中国新聞記事 )

1970年1月   厚生省は陸上自衛隊の協力のもとに1970年1月13日から3日間、

大久野島の島内防空壕内の調査を行った。

 厚生省が陸上自衛隊の協力のもとに、50以上ある壕のうち、

戦後の毒ガス処理の時、毒ガスを埋没したと思われる7カ所の壕内を開けて調査した結果、

大赤筒22個、中小赤筒630個、発煙筒1000個が見つかった。

そのいくつかを検査した結果、毒性はもはや失われており、問題ないとして、

見つかった毒ガスは取り出さないで、再び壕内に密閉してしまった。

見つかった時すでに赤筒などの容器は腐食してボロボロになっていたとのことである。

                         (1970年1月14日 中国新聞記事)

1970年3月  厚生省は1970年3月5日より、赤筒が見つかった壕などの密封工事を行った。

  厚生省は旧陸軍の毒ガスが残っている大久野島の地下壕の全面封鎖工事を3月5日から始めた。

行楽客が増える4月に間に合うように今月末までに11カ所の壕の入り口17カ所を全部ふさぐ。

壕の中に毒ガスを入れ盛り土をした上にコンクリ−トで封じ込め壕の入り口を壊し、

その上に石を積み、さらにコンクリ−トを固めた上に盛り土をし

芝やキョウチクトウ、アカシアなどを植えて壕があったことが解らないようにし、毒ガスのイメ−ジを一掃する。  

                          (1970年3月6日 読売新聞記事)

1970年(昭45) 大久野島南沖でエビ漁をしていた漁民が毒ガスボンベを

網にかけ、中毒症状になった。このころから、度々、漁業の網に毒ガス容器がかかるようになった。

1971年(昭46)   陸上自衛隊が島内に残存する旧施設爆破作業は40日間で、自衛隊の演習も兼ねて行われた。

陸上自衛隊第十三師団(安芸郡海田町)により毒ガス施設の撤去作業が始まった。

この撤去は竹原市と国民休暇村が昭和1967年から防衛庁などに

「戦争の暗いイメ−ジを残す施設を取り除いて欲しい」と働きかけていたのが

やっと実現したのだが、一方では毒ガス障害者や市民から「心のド−ム」として

毒ガスタンク、発電場、貯蔵庫などを永久保存して欲しいと要望している。      

                           (1971年2月13日 中国新聞)

1972年(昭47) 北部海水浴場建設工事中に毒ガス容器(腐食)二個発見。

竹原市議会が「毒ガス完全防除と毒ガス障害者援護対策の充実」を決議。

市議会代表が政府に島内一斉点検と安全宣言を出すように要請。

1972年(昭47)4月23日大久野島北側海水浴場の護岸工事で

作業員6人が毒ガスと思われる異臭を感じ、うち二人が顔に痛みやかゆみを訴えて工事を中止した。

竹原市の調べでは事故の四日前に工事現場からドラム缶状の金属筒(直径45cm、高さ80cm)二個が見つかった。

一個は腐食し、一個は砂に深く埋まったままだった。

作業員は特に気にせず、作業を続けた。ドラム缶は戦後処理の時埋められたのではないかとの疑いを強めている。

 大久野島では進駐軍がやって来る前に旧日本陸軍の手でかなり大久野島周辺の海や島内の地下壕に捨てられている。

このため大久野島の周りの海域では毎年、毒ガスボンベが漁網にかかり漁民に被害が出ていた。

県としては、環境庁の指示がありしだいドラム缶の内容物の分析調査を始める。   

                            (1972年5月21日中国新聞の記事)

5月30・31日、残留毒ガスの有無について調査が行われた。

見つかった二つの缶は立ち会った毒ガス工場の従業員だった人によるとイペリットの容器だとのことだった。

陸上自衛隊の処理班15人が二個のボンベを毒ガス探知機で検査した結果、

残留毒ガスは検出されず危険のないことが確認されたので、さらし粉を詰めてつぶし現場付近の空き地に埋めた。           

                              (1972年6月4日芸南新聞の記事)

 

 終戦直後の投棄処理で大久野島周辺に捨てられた毒ガスボンベは当時の従業員の証言から2000本以上と思われる。

大半が鋳物製である。中身は「毒ガス原料の一つであるホスゲンや青酸ガス、イペリットがおもなもの」と

投棄処理にあたった元従業員はいう。            (1972年6月9日の中国新聞の記事)

1973年(昭48) 環境庁、防衛庁など七省で「大久野島毒ガス問題関係各省 庁連絡会議」を設置、

全国の毒ガス処理状況調査にのりだし、埋没18カ所、海洋投棄8カ所を調査した。

大久野島の調査は環境庁がボンベイ発見現場の北海岸を二日間しただけで「全島の安全宣言」はなかった。

宇部沖からは49発の砲弾を引き揚げ、エクス線検査で化学弾(毒ガス・発煙筒)の可能性の大きいもの11発が確認された。

連絡会議は1974年7月「爆発の可能性は極めて少ない」と結論を出した。

詳しい中身が解明されないままウヤムヤのうちに調査はうち切られた。  

                                              (1975年12月20日 中国新聞記事 )

1984年(昭59) 中島敏彦議員が資料館設立を竹原市議会で提案

1985年(昭60) 大久野島毒ガス障害者慰霊碑建立

1988年(昭63) 大久野島毒ガス資料館竣工

1990年(平2) 大久野島の遺跡保存のための署名運動により発電場が保存されることになった。

 平和学習で昨年大久野島を訪れた府中市立第二中学校の生徒が発電場が取り壊されることになっていることを聞き、

保存のための署名運動を行い、周辺の小・中・高校から約五千人の署名を集めた。

連合広島も署名運動を展開するとともに、環境庁に存続の要請書を送った。

その結果、同庁は「地元の要望を考慮し、今回は取り壊しを中止する」と決めた。        

                           (1990年8月15日朝日新聞記事)

1995年2月 広島市南区の出島東公園でかって 広島県が埋設した旧陸軍の毒ガス原料による土壌汚染が明るみに出た。

フェンスで立ち入り禁止にした公園からは、県の調査で13カ所から環境基準値の最高350倍の砒素を検出。

埋設した原料はドラム缶で1119本あった。

 この毒ガスの原料は終戦直後、電気器具商のUさんが、進駐軍に処分を委託された広島県から、

農薬の原料として50万円で払い下げを受け、1951年(昭26)から

広島市元宇品のG倉庫宇品営業所に管理を委託していたのが野ざらしのまま放置されていた。                    

                           (1969年9月6日中国新聞記事)

 

 広島県はこれを1973年に埋設した。その際、現在のような砒素問題を予想しなかった。

砒素汚染が発覚してから住民への公表も2年遅れた。

そのため住民からの県の対応への批判が相次いだ。

汚染土壌の処理がなかなか決まらなかったが1995年11月ようやく計画がまとまった。

高濃度の汚染土壌1万4千トンを出島地区から船で北九州に運び民間処理場で4年がかりで硫化処理する。

処理費用は実に36億5千万円、残る低濃度の汚染9千5百トンの処理方法は決まらなかった。

                             (「毒ガスの島」p77)

1995年3月    環境庁による大久野島の砒素濃度調査始まる。

1996年7月    環境庁が大久野島の砒素濃度調査の結果を公表。

   土壌は島内30カ所を調査し10カ所あまりで環境基準を上回る砒素を確認した。

うち北部砲台跡では環境基準値の470倍の砒素が検出された。

また、井戸や貯水池は19カ所を調査、古井戸など 4カ所で環境基準値を超え、

うち二カ所は環境基準の5倍を上回った。

砒素は大久野島で生産された五種類の毒ガスのうち、びらん性のルイサイト(黄2号)と

クシャミ性のジフェニ−ル・シアンアルシン(赤1号)に原料として含まれていた。

赤1号は致死性の毒ガスではないところから島内の防空壕にたくさん埋没したという記録がある。

 今回最も高い砒素濃度が出たのが北部砲台跡、ここにはルイサイトの原料タンクが置かれていた場所であり、

戦後毒ガスの焼却処理も行われた場所である。

また、クシャミ性の毒ガスである赤筒工室跡でも環境基準値の8倍の砒素が検出されている。

調査は広島の出島地区で350倍の砒素が検出されたのを受けて行われたが、

今回はその環境基準を上回る砒素が検出された。            

                            (1996年7月11日 中国新聞記事)

 大久野島の砒素調査は昨年が初めて、環境庁は「当時の毒ガス工場施設がどこにあったかを調べ、

調査すべきところは調査した」と説明する。しかし検査地点は必ずしも全島にわたっておらず、

再検査を求める声も根強い。

「対策を立ててから発表するつもりだった」。

大久野島で高濃度の砒素を検出しながら1年間も公表しなかった環境庁は広島県庁での記者会見で釈明に終始した。

調査のきっかっけについても「県から要請を受けたので」という説明のみで、

汚染状況を積極的に解明しようとする姿勢はみられなかった。     

                             (1996年7月13日 中国新聞記事)

1997年4月・5月 大久野島の北部海岸で、毒ガス兵器の一種の「発射赤筒」と発煙筒の燃え残り

とみられる35個の筒状のものが見つかった。

環境庁山陽四国地区国立公園・野生生物事務所が分析した1個からは環境基準の36倍の砒素が検出された。

今年2月はじめ毒ガス資料館に常駐する職員が発見し、調べてみると発射赤筒で環境基準値36倍の砒素が検出された。

野生生物事務所は県と市と協力し4月22日と5月6日にあらためて調べてみると、

新たに34個の発射赤筒、発煙筒のようなものを発見した。

大久野島では昨年の夏、毒ガスの原料である砒素による土壌の汚染が問題になったばかり、

今回、砒素を含む発射赤筒が見つかったことについて、新たな波紋が広がっている。                          

                           (1997年6月6日 中国新聞記事)

大久野島の北部海岸で35個の発射赤筒のような筒が見つかったのを受けて県と竹原市は

「大久野島環境対策連絡会議」を開き、島を所有する環境庁への広範な調査要請など対応を協議することになった。

また、環境庁が砒素汚染土壌の処理方法を決めるために今年2月に学識経験者らで組織した「対策検討会」でも

「発射赤筒」などの処理方法大久野島の恒久対策について協議するよう要請する方針である。

                            (1997年6月7日 中国新聞記事)

1997年12月 環境庁が設置した「大久野島土壌汚染対策検討会」は1997年12月20日

土壌調査と処理対策の中間報告を発表した。59地点365サンプルの土壌調査を実施。

そのうち、島の西側護岸付近の地下4mのところでは環境基準値の2200倍の砒素が検出された。

             

検討会は調査の結果、基準値を超えた10カ所の中でも、

特に北部砲台跡地、運動場西護岸、元理材置き場の三カ所については速やかな処理を求める中間報告を環境庁に提出、

環境庁は本年度補正予算で20億6千2百万円の処理経費を計上、年明けの国会通過後直ちに着手することに決めた。

処理方法は「土壌洗浄法」で、ほかの方法に比べて工期が短く効率的だという。

今回処理する三カ所の汚染土壌は高濃度だが、立ち入り禁止にするなどの対策とっており、

観光客が島内で普通に遊ぶのには問題がないとしている。

                           (1997年12月21日 中国新聞記事)

1998年10月 環境庁の高濃度砒素汚染土壌の掘削、撤去工事始まる。

掘削工事は1995年の調査で土壌から環境基準値の2200倍の砒素が検出された運動場西護岸など

基準値の30倍を超えた三か所が対象。

汚染土壌は島内で一時保管した後12月頃から護岸工事で掘削した汚染土壌と合わせて

約四千五百立方メ−トルを島外へ運び出し洗浄する。今のところ土壌の洗浄先は決まっていない。

                           (1998年10月16日 中国新聞記事)

 

 環境庁は15日砒素除去作業を始めた。1999年3月までに終了する。

汚染土壌を掘削し福岡県北九州市の廃棄物処理工場で洗浄後埋め戻すか、コンクリ−ト材として再利用する。費用は約20億円。

                           (1998年10月16日 読売新聞記事)

本格的な掘削工事が始まった。工事は環境基準値の30倍を超えた地域が対象で運動場護岸、

北部砲台、元理材置き場の三カ所で環境庁が実施する。

北部砲台跡では地上から3〜7m掘り下げて約千七百立方メ−トルの汚染土壌撤去の計画。

この日は、砒素の体への付着を防ぐため雨合羽や防塵マスクに身を包んだ作業員七人が

ショベルカ−を使って汚染土壌を掘り出し、フレコンパックと呼ばれる特殊なビニ−ルに詰め込んだ。

掘削された土壌は島内に一時保管され、来年1月完成予定の新しい浮き桟橋から船積みされ、

北九州市の工場に運ばれ洗浄処理される。総事業費は約20億6千万円で、工期は来年3月まで。              

                          (1998年12月5日 中国新聞記事)

1999年1月27日掘削した砒素汚染土壌を島外で処理するため第一陣五百トンの積み込みが始まった。

積み込みは1月19日に完成したばかりの浮き桟橋で午前10時から開始された。

島内の保管倉庫からフレコンパックと呼ばれる特殊なポリ袋に入れられた砒素汚染土壌が運び出され、

大型トラックに積載。桟橋でクレ−ンによって貨物船に積み込んだ。

船へは2日間かけて積み込み29日北九州の工場に陸揚げされ洗浄処理される。                          

                          (1999年1月28日 中国新聞記事)

1999年3月 砒素除去工事中、大久野島の久野島荘前の防空壕跡で9個の赤筒発見される。

 砒素汚染土壌の島外除去作業が続けられている大久野島の防空壕跡から

クシャミ性の「大赤筒」と思われる9個の缶が見つかり環境庁が発掘調査した。

缶には内容物が入っていた。毒性はないと見られるが、環境庁は念のため毒性などを調べた後、処理方法を検討する。

大赤筒が見つかったのは国民休暇村の本館南側の広場に面した防空壕の一つ。

環境庁は、現在島内十カ所の防空壕にふたををする工事を進めており、壕の入口を削ったところ発見された。・・・

缶は直径と縦が27cm、重さ約10kg。9個とも錆び付き、内容物は入っていた。

うち一個は腐食し缶に穴があいていた。今回見つかった防空壕近くには赤一号工場があった。

                           (1999年3月27日 中国新聞記事)

環境庁は14日、先月防空壕から見つかった「大赤筒」の内容物の検査結果を発表した。

成分は自然分解されており、クシャミ性ガスとしての毒性はなかった、としている。

検査は穴のあいていた一個から内容物を取り出し広島市内の検査機関で行われた。

赤筒には有機の砒素化合物や塩酸などを原料にした赤剤が詰められていた。

有機砒素は分解すると無機砒素になるため割合を測定したところ有機砒素はほぼ分解されていたので安全だとした。

大赤筒の処理は検討中としている。また環境庁によると島内で行われている砒素汚染土壌の島外撤去工事は2

1日に完了する予定で、外周道路も22日から使用できるようになる。   

                            (1999年4月15日 中国新聞記事)

1999年4月 環境庁は砒素汚染土壌の島外搬出工事の概要を説明したパンフレット

「瀬戸内海国立公園大久野島感興保全対策」を作製し国民休暇村で配布を始めた。

「砒素=毒ガス」と勘違いする人がいるが、大久野島にはもはや毒ガスは存在せず、

砒素が土壌に残っていることが問題とし、汚染土壌を島外に搬出すれば安全であることを訴えている。             

                             (1999年4月17日 中国新聞記事)

          

1999年8月 北部海岸で3個の中赤筒の残骸発見神奈川大学工学部にて詳しく調査した結果、

内部の空洞の残存物から高濃度の砒素が検出される。

 

 1999年 12月  毒ガス島歴史研究所が大久野島の遺棄化学兵器の徹調査と完全廃棄を求める要請書を

環境庁と内閣内政審議室に提出。

 

竹原市大久野島の北部海岸で旧日本軍が製造した毒ガスの一種、くしゃみ性ガス「中赤筒」が

八月に見つかった問題で地元の市民団体「毒ガス島歴史研究所」は七日、環境庁と総理府を訪れ、

島内の遺棄化学兵器の確認調査と完全廃棄を要請した。       (1999年12月8日 中国新聞)

 

2000年9月 中国の日本軍に遺棄された化学兵器の発掘回収作業が始まる。

中国黒竜江省北安市で、旧日本軍が残した化学兵器の回収作業が十三日始まった。

この問題での日本政府の初めての本格的な取り組みだ。

しかし、化学兵器は推定でも70万発も残された。

これほど大量廃棄は国際的にも例がない。作業は日本側が自衛官を含む75人

、中国側は、人民解放軍40数人を含む約200人。

約2週間をかける今回の事業費だけで約10億円に上る。(2000年9月14日朝日新聞)

 

2000年12月 OPCW(化学兵器禁止機関)から査察団来日。

昨年3月大久野島で発見された9個の大赤筒の処理を査察するためOPCWより査察団が来日、

九州の工場での処理査察をおこなった。  

オランダ・ハ−グ市に本部を置く化学兵器禁止機関(OPCW)が

大久野島(竹原市)で見つかった大赤筒の査察を北九州で始めた。

これを受け、市民団体(毒ガス島歴史研究所)では同日県庁で記者会見し

OPCWに対し、島に埋められていると見られる約65万個の赤の完全廃棄を

日本政府に働きかけるよう要請文を送ることを明らかにした。

                          (2000年12月5日 朝日新聞)

 2002年3月24日中国遺棄毒ガス被害者李国強さんと張岩さんの竹原証言集会開く。

旧日本軍が中国大陸で遺棄した毒ガスで被害を受けたとして日本政府に損害賠償請求訴訟を

起こしている二人が市民に訴えた。(2002年3月25日中国新聞記事)

 

2003年5月15日旧日本軍中国人遺棄毒ガス被害者第一次訴訟判決

東京地方裁判所は請求を棄却した。事実は認めながらも請求は認めず。

「あまりに理不尽だ」集った支援者達は唇をかんだ。(2003年5月16日中国新聞記事)

 

2003年9月29日旧日本軍中国人遺棄毒ガス被害者第二次訴訟判決

旧日本軍が敗戦時に中国に遺棄した毒ガス兵器や砲弾で被害を受けたとして、

中国人被害者と遺族13人が日本政府に計約2億円の損害賠償を求めた訴訟で、

東京地裁は29日、請求をほぼ全面的に認め、原告全員に慰謝料計約1億九千万円を

支払うよう国に命じる判決を言い渡した。片山裁判長は「日本政府は遺棄された兵器

に関する情報を中国側に提供せず、被害を防止する措置を取らなかった。」と指摘した。

                      (2003年9月30日読売新聞)

 

2003年11月28日環境省が全国毒ガス調査結果を発表

戦争の「負の遺産」とされ、今も放置されたままの旧日本軍の毒ガス。

環境省が28日、三十年ぶりに全国調査の結果を発表したが、

毒ガスによる健康被害は現在進行形にもかかわらず国の対策は手つかずのまま。」

                (2003年11月28日東京新聞夕刊)

 

 

 

             

           大久野島                発電場跡              中部砲台跡

 

 

   

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