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第50次教育研究全国集会
提案内容
社会科教育(歴史認識)
広島県 高等学校 山内 正之
1:はじめに 私が住んでいる広島県竹原市の忠海町から船で約12分のところに、戦前〜敗戦まで毒ガス工場があった大久野島(毒ガス島)がある。戦争時、日本の毒ガスの約90%を製造していた島である。戦争中は秘密の島として地図からも消されていた。ここで生産された毒ガスは日中戦争で使われたくさんの中国人を殺傷し、さらに敗戦時日本軍が棄てて帰った毒ガスが戦後もたくさんの中国の人たちを死傷させ、遺棄毒ガスの後遺症で今でも中国の人は苦しんでいる。 私は地域の平和学習として以前から、社会科の授業で大久野島のを教材化している。しかし自分自身、大久野島について十分学習が深まっていなかったこともあり、生徒の反応も鈍く、「小学校・中学校で大久野島のことは勉強した、もう知っている。」という意識を乗り越えることができず、盛り上がりに欠ける大久野島学習になりがちだった。 生徒に、より深い内容で大久野島の問題を教材化するためには、私自身がもっと大久野島のこと、毒ガスのこと、遺棄毒ガス弾のことなどを学習する必要を感じ、毒ガス島歴史研究所に入会し、大久野島の加害の歴史の研究と遺棄毒ガス問題などに取り組んだ。 1997年夏、毒ガス島歴史研究所のメンバ−として、大久野島で製造され日本軍が遺棄した毒ガス弾によって被害を受け、毒ガス障害に悩む中国の被害者の証言を聞き取りに中国に旅する機会を得た。中国の遺棄毒ガス被害者の悲痛な叫びを聞き、日本の戦争加害責任を痛感した私はより主体的、積極的に大久野島の毒ガス問題に関わるようになった。 1998年8月には、中国遺棄毒ガス弾被害者との交流をすすめる会を組織し、前年、中国で証言を聞かせてもらった遺棄毒ガス被害者、李国強先生を広島に招き、証言集会を開き、日本の人たちに中国の遺棄毒ガス弾被害の実態と被害者の訴えを知ってもらう取り組みをした。このような取り組みを通して、多くの中国の人と交流を持つ機会もあり、いろいろなことを学ぶことができた。今まで、本などを通して観念的にしか捉えていなかったものが少しずつ自らの目で見・耳で聞き・体感を通して学ぶことができ、それを生徒に伝えるられるようになった。自由主義史観の言う歴史観がいかに国際感覚に欠け、特に、アジアの人たちにはとうてい受け入れられない考え方であり、日本の軍国主義復活の誤解を与えているか実感をした。日本が侵略戦争の加害の事実を認め、謝罪と補償をすることなしには日本に対する国際的信頼は生まれない。かって日本が侵略したアジア諸国と日本がともに生きるとはどういうことか、生徒に話せるようになった。 1999年8月、私が、偶然、大久野島の北部の海岸で3個の毒ガス弾(中赤筒)を見つけた。私たち毒ガス島歴史研究所は、それをきっかけに、竹原市・広島県・国(環境庁と内閣内政審議室)に対し、大久野島に敗戦後埋設された約65万本の遺棄毒ガス弾(赤筒)の実態調査と完全撤去の要請を行なっていった。このことがマスコミで報道されたこともあり、学校の生徒たちも、私が大久野島の平和・環境問題に取り組んでいるのを知り、大久野島の問題に関心を持ち、質問してくるようになった。この機会をとらえて大久野島の問題について考えさせたいと思い、私が今取り組んでいることやその経過などを、授業やロングホームルームなどで新聞記事やVTRを使って生徒に伝えていった。生徒からもいろいろ質問が出るようになり、生徒がより身近な問題として大久野島の問題を考えるようになった。「僕のおばあさんも、大久野島に行っていたんよ先生。」とか「私の、おじいちゃんも毒ガスの後遺症で苦しんでいるよ。」とか、話しかけてくる生徒も出てきた。「おじいちゃんを苦しめている毒ガスなど二度と使うことがあってはならない。」などの意見も出るようになった。「先生、今度は一緒に大久野島に行って学習しよう」という声も出てきた。明らかに以前よりは大久野島についての生徒の関心は高まった。遠足で大久野島平和学習フィ−ルドワ−クを実施、生徒とともに大久野島の毒ガス工場の遺跡を歩いて回り、大久野島の戦争加害の歴史と現在の大久野島の抱えている問題について学習を深めた。 地域の平和・環境問題に私自身が行動し学習していくことによってより深い内容で地域の平和・環境問題を教材化することができる。そして、生徒の関心も高まり、生徒が大久野島の問題をより身近なこととして考えるようになった。
2:大久野島の加害の歴史と環境汚染問題の学習 (1)教材化のねらい 日本政府は日本軍が日中戦争で、くしゃみ性ガスを使用したことは認めているが毒ガスの使用を認めていない。しかし、さまざまな資料や日本軍兵士の証言から日本軍が毒ガスを使用したことは事実である。大久野島で製造された毒ガスが日中戦争で使用され、敗戦時、日本軍は中国に遺棄してきた。その数は中国側の推測では200万発、(日本政府推測では約70万発)といわれている。日本政府は1997年化学兵器禁止条約の発効により2007年までに、中国に遺棄してきた毒ガス弾を処理することが国際義務になっている。中国の遺棄毒ガス弾の処理作業は2000年の9月13日から始まった。全部処理するには、莫大な費用と10年以上の年数がかかると推測される。 しかし、遺棄毒ガスの問題は中国だけではない。日本国内の大久野島にも毒ガス工場で製造された毒ガス(赤筒)が約65万本も島内の防空壕跡に埋設されたままになっている。そして、現在、大久野島では毒ガス弾(赤筒)の影響と思われるヒ素による環境汚染問題が起こっている。中国の遺棄毒ガス弾は処理するが国内の遺棄毒ガスは処理する気はないというのが、今の日本政府の見解である。中国の遺棄毒ガスは処理して、日本国内のはなぜ処理しないのか。現在も、大久野島の遺棄毒ガス弾の実態調査と完全撤去の要請を粘り強くおこなわれている。大久野島の毒ガス問題は過去の問題ではなく現在の問題、さらには将来の環境問題である。毒ガスによる戦争加害と現在の大久野島の環境問題について考えさせたい。 (2 )大久野島の学習 防毒服の作業員
(展開)毒ガス工場時代の工場の写真を示しながら、大久野島の歴史について話す。 ・主な大久野島の歴史について学習 (1)大久野島と毒ガス関係年表1902年:日露戦争に備え大久野島にも砲台が設置される。(Aの説明文参照) 1915年:第一次世界大戦で毒ガスが使用される。 1925年:ジュネ−ブ国際平和会議で毒ガス使用禁止の条約が結ばれる。 1929年:大久野島に毒ガス工場が完成、 毒ガスの製造始まる。(Bの説明文参照)1937年:日中戦争が始まり、毒ガスの生産量も急上昇 中国大陸での日本軍の毒ガス使用が本格化。毒ガスの人体実験も行われた。 1941年:太平洋戦争が始まり、毒ガスの生産量もピ−クに達した。 1942年:ル−ズベルト大統領声明出る。(Cの説明文参照) 1944年:毒ガスの製造を中止、発煙筒、 風船爆弾などを製造。1945年:8月6日・9日 広島・長崎に原爆投下。 1945年:8月15日、敗戦、大久野島の全工場の機能を停止。 1945年:大久野島にあった毒ガスの一部処理(Dの説明文参照) 1946年:極東国際軍事裁判で大久野島の毒ガス製造とその加害責任は裁かれなかった。(Eの説明文参照) ( Aの説明)昭和初期の不景気な時、沈滞を払拭するためにも忠海町は軍需工場の誘致に力を入れた。何が製造されるかは知らなかったが、倒れる心配のない軍需工場であるだけに住民も賛成したという。当時、島内には住民も住んでいたが、軍の命令で転居させられた。 生徒への質問・・・「なぜ、大久野島に毒ガス工場を造ったと思うか。」「製造工場の位置は外部に対する秘密保持と発生する排気汚染の関係上なるべく住民地域と隔絶し、しかも作業の利便のため、ある程度住民地帯に接近するを可とする。」 (Bの説明) (「日本陸軍火薬史」) 毒ガス製造で天災や不測の事態が起こった場合の危険を配慮したようだ。回りが海で、万一、ガス漏れが起こっても付近の住民に被害が及びにくい、秘密が保持しやすい、労働力確保に便利な所。このような理由から大久野島が選ばれたのであろう。 (Cの説明) 中国は、日本軍が国際条約に違反して、大量の毒ガスを使用していることを国際連盟に正式に抗議していた。ル−ズベルト声明はこうした情勢のもとで発せられた。ル−ズベルトは「私はここに明言しておくが、日本が中国あるいは他の連合国に非人道的な戦争形態を行使し続けるというなら、その行為はわが政府は米国に対してなされたものとみなし、同様のかつ十分な報復を与える。」と警告した。日本にとって不利とみた政府は1944年毒ガスの使用を厳禁する通達を出した。 (Dの説明) 陸軍造兵廠は秘密を守るため、毒ガス患者カルテや写真、関係書類一切の機密文書をことごとく焼却した。 致死性の毒ガスは国際法上使用禁止になっている非人道兵器。それだけに軍事裁判で問題化するのを恐れ、「証拠隠滅」のために終戦直後、進駐軍が来るまでに、「上官の命令で百トンあまりの機帆船に積んで夜中に出航し、小久野島や松島の近くの海に大量に青酸ガスボンベイを投棄処分した。(Eの説明) アメリカ軍は大久野島の毒ガス製造の資料やデ−タ−を独占して国内に持って帰ることと交換に日本の毒ガスによる加害責任はうやむやにされ秘密のうちに処理された。そのため、戦後、長い間、大久野島の毒ガスの話は正確なことは国民に伝えられなかった。毒ガスは作ったが使用されなかったなど、間違った情報が流された。 (まとめ) ・毒ガスは製造されたが戦争で使用されなかったというのは間違い。使用され多くの中国人 が死傷した。 ・大久野島の周辺市町村には、毒ガス製造にかかわった人がたくさんいる。まわりにそ いう人がおられれば是非、話を聞いておこう。その人たちも高齢化し、貴重な証言が聞 けなくなってきている。( 使用した資料)毒ガス工場の写真・・現在の写真と古い写真を対比させながら使用。現在の大久野島(国民宿舎) 毒ガス工場時代の大久野島(毒ガス工場群)
Aテ−マ:「日中戦争での日本軍の毒ガス使用と遺棄毒ガス問題」 導入:VTR「日本鬼子の置きみやげ」を視聴。20分くらい 展開: (1)日本軍の毒ガス使用 ・1929年 大久野島で毒ガス製造開始 ・1930年 台湾の「霧社事件」で日本軍初めて毒ガス使用。 ・1937年 日中戦争開始とともに大久野島の毒ガス生産量増加 日本軍中国で毒ガス使用(約1300回以上 約6万人を死亡させたといわれる。(2)遺棄毒ガス問題 ・敗戦後、日本軍は中国の各地に、毒ガスを遺棄してきた。 日本政府の確認している数(約70万発) 中国政府の予測している数(約200万発) ・今でも、中国の人たちは日本軍が中国に遺棄した毒ガスによって被害を受けている。(3)化学兵器禁止条約(1993年130カ国調印・1997年発効) この条約によって日本は中国に遺棄してきた毒ガスを処理することが国際義務となった。(まとめ) ・中国に捨ててきた毒ガス弾、約70万発については、化学兵器禁止条約に基づいて日本の責任で処理する義務があり、 中国の遺棄毒ガス保管場所
Bテ−マ:「大久野島の砒素汚染問題」 (導入)大久野島の砒素問題を取り上げた新聞記事を配布し、現在、大久野島の環境問題では 何が問題になっているかについて説明をする。 (展開)VTR「今よみがえる毒ガスの恐怖」1998年テレビ朝日放送を 13分くらい視聴。 ・大久野島のヒ素汚染の原因は毒ガス製造及び大久野島に遺棄されている毒ガスと 関係があることを板書しながら説明。(2)大久野島の毒ガス処理の三つの方法 。 防空壕に埋設しているところ
・ヒ素は体内に入ると危険なので、毒ガス弾や毒ガス工場時代の陶器などに触れるときは気をつけよう。 手袋をしてつつく。つついた後は手を洗う。 (資料) インタ−ネットで取り出したオ−ストラリア戦争記録写真 Cテーマ:「大久野島の環境問題」 (導入)3つニュ−スをVTRに16分編集したものを視聴。今、大久野島で何が問題となっているか、私自身が大久野島の問題にどう取り組ん でいるかについて紹介し、大久野島の問題に対する生徒の関心を呼び起こす。 (展開)・大久野島に大量に埋設されている毒ガス(赤筒)をそのままにしておくことは 将来の大久野島の環境汚染の原因となる可能性の高いことをことを話す。 ・なぜ、国は大久野島の問題に組まない ヒ素汚染を伝える新聞記事
3:大久野島フィ−ルドワークによる学習 (目標)実際に大久野島の戦争遺跡及びヒ素汚染が問題となったところを訪ね平和と環境問題について考える。
4:ロングホームルームでの学習 (導入) 大久野島の歴史について簡単に説明(毒ガス工場時代の写真利用) (展開) ・毒ガス弾発見から環境庁への要請行動のニュ−スをまとめたVTRを視聴。(約15分) ・大久野島が今何が問題で、今後どうすべきかについて話をする。(まとめ) ・大久野島は決して危険な島ではない。平和学習の場として貴重な島である。 ・ヒ素汚染が今後も起る可能性はあるので見守って行く必要がある。 ・環境庁に対して大久野島の安心して平和学習ができるようにするためにも埋設された毒ガス弾の徹底調査と完全廃棄を粘り強く要請していく必要がある。 【学習後の生徒の反応と意識の変化 】 ・大久野島に約65万本もの毒ガスが埋設されていることを初めて知った生徒がほとんどで新しい歴史的事実を知り大久野島に対する関心が高まった。 ・自分の身の回り(祖母や祖父など)の大久野島の毒ガス障害に苦しむ人のいることに気づき、 毒ガスの後遺症の問題について考えるようになった。 ・大久野島の埋設された毒ガスのことを放置して、大久野島を公園化し毒ガスの暗いイメ−ジを覆い隠そうとすることに疑問を感じる生徒も出てきた。 ・大久野島にヒ素汚染があることを知り、驚きヒ素問題に関心を持つようになった。
5:大久野島の平和・環境問題学習資料集 【資料集の内容】 ・大久野島関係参考文献及びVTR一覧 ・マンガ「海と毒ガス」 ・大久野島の毒ガス工場配置図 ・大久野島フィールドワーク資料(地図と案内文) ・化学兵器の誕生と国際法 ・大久野島の歴史 ・日本軍の毒ガス製造と毒ガス使用 ・毒ガス工場で働いていた人々と毒ガス障害・1970年頃の毒ガス発見をめぐる問題 ・大久野島のヒ素汚染問題 ・化学兵器禁止条約と中国遺棄毒ガス問題 ・遺跡保存の取り組み ・敗戦と毒ガス処理(オ−ストラリア軍戦争記録写真)インタ−ネットより |