「環境読本」

広島平和研究所環境読本編集委員会編1999年8月作成より

毒ガス兵器とヒ素汚染
 

〜土呂久公害から大久野島そして中国大陸へ〜           山内正之執筆

 戦争はたくさんの人の命を奪います。瞬間的にたくさんの人々の命を奪うばかりでなく、じわりじわりと人々の命を奪っていく場合もあります。戦争中、製造、使用された毒ガスの原料であるヒ素などによる環境汚染は、時間をかけて人々の健康を害していきます。
                                        
 「ヒ素」は動物の細胞を犯す毒物です。長い間、身体に入り続けると、体内に少しずつたまり、肺がん・皮膚がんの原因となります。また慢性気管支炎・胃腸炎などの病気になってしまう大変怖しいものです。  

土呂久公害
 
 1966年宮崎県の高千穂町で小学校の先生が自分が担任したクラスの中によく腹痛を訴えたり風邪で欠席気味の生徒が数名いることに気づきました。その生徒はみんな土呂久という地域から登校している生徒でした。同じ地域から登校してくる生徒がみんな同じように病気がちであることはおかしいと思った先生がよく調べてみるとそこには大変な公害が発生していることがわかりました。土呂久には鉱山があって1920年から1962年まで毒性の強いヒ素を含んだ亜砒酸を生産していたのです。土呂久では鉱山から掘り出した硫砒鉄鉱を焼き、有害なヒ素を含んだ亜砒酸の白い粉を取り出していました。その時出るヒ素を含んだ有害な煙や、鉱山から流れ出る鉱山が近くの川に流れこみ家畜や農作物だけでなく土呂久に住んでいる人たちの健康を徐々にむしばんでいたのです。土呂久のこのような被害は1962年に鉱山が閉山された後で問題になりました。長い間、裁判で闘った結果、1973年慢性ヒ素中毒という公害病であることを国が認めました。鉱山に利用された土地にはヒ素がしみこみ、病気がちだった土呂久の小学生は鉱山が閉山した後も残っていたヒ素の影響を受けていたのです。

土呂久から大久野島へ、そして中国大陸へ

 土呂久で生産された亜砒酸は殺虫剤・除草剤・防腐剤などの原料とされていましたが、それだけでなく戦争にも利用されました。土呂久鉱山で生産された亜砒酸は大久野島に運ばれ毒ガスの原料としてつかわれたのです。土呂久でつくられた亜砒酸の量は大久野島で毒ガスが大量に製造された頃から急に増加しています。

 竹原市忠海にある大久野島は、今は全島が国民休暇村に指定され観光客でにぎわう島になっていますが、かつては旧陸軍の毒ガス製造所があった島で、戦争中は地図の上からも消された秘密の島でした。大久野島で製造された毒ガスの総生産量は6616トン、日中戦争が始まる頃から急に増えています。大久野島の毒ガス製造所では13種類の化学兵器が製造されていました。それらの毒ガスは中国に送られ戦争に使用されました。

 猛毒のヒ素は毒ガスを製造する過程で人びとの健康を害し命を奪っていきました。鉱山からヒ素を含んだ亜砒酸を取り出す作業をした土呂久の人たち、大久野島で毒ガス製造の作業をした人たち、毒ガスを砲弾などにつめる作業をした北九州市曽根製造所の人たちなど、毒ガス兵器が造られる過程で、たくさんの人が、ヒ素が原因の病気によって苦しめられ、命を失う人も少なくなかったのです。そして、戦争が終わっても後遺症に苦しめられ、今も病院に通っている人がたくきんいます。

ヒ素と環境汚染

 戦後50年以上経った今、問題になっているのがヒ素による環境汚染問題です。毒ガスの原料のヒ素が原因したと思われる場所のあちこちで環境庁が示した基準値の何倍ものヒ素が測定されています。ヒ素による環境汚染は毒ガスの原料であるヒ素を含んだ亜砒酸を生産した所、それを運んだ所、毒ガスを製造した所などで起こっています。

 1995年2月、広島市南区出島の東公国で、敗戦後、広島県が埋めた旧陸軍の毒ガスの原料が原因と思われる土壌の汚染が明るみに出ました。この辺りの土壌から環境基準の350倍のと素があることがわかったのです。この公国には敗戦後、大久野島から持ってきた毒ガスの原料をドラムカンでし700本分も埋めていたのです。

 敗戦の時、日本軍は国際法上認められていなかった毒ガスをつくっていたことを隠すため、あちこちに毒ガスを投棄したり、埋めたりしました。大久野島にあった毒ガスの処理も3つの方法でおこなわれました。@海や川や潮に捨てる方法、A焼いて処分する方法、Bどこかに埋めてしまう方法です。今、問題になっているヒ素による環境汚染は、毒ガスを埋めたり焼却処理したことが原因でおこっていると考えられます。毒ガス製造所のあった大久野島には、戦後の毒ガス処理の時、ヒ素を原料とした赤筒などの毒ガスが防空壕などに大量に埋められたと言われています。50年以上もの長い年月を経るうち、埋められた毒ガス弾は腐食し、毒ガス液が入れられていたブリキはぼろぼろになり中の毒物が流れ出ている可能性があります。

 1970年頃に、防空ごうが掘り起こされ、ぼろぼろになった毒ガス弾や毒ガスを入れた罐が発見きれましたが、再びコンクリートで上を覆い、その上に土をかぶせて埋めてしまい、今はどこに埋めたかわからなくなっています。どこに埋まっているか明らかでないことほど危険なものはありません。どこに埋められたかわからないままとヒ素や他の毒物が大久野島の土壌にしみこんで、地下の水脈に流れ込んでいる可能性があります。早く、その場所を明らかにし、適切に処理し安全な島になるようにする必要があります。
 
 1995年、広島県出島で高濃度のヒ素が検出されたのをきかっけに大久野島でも環境庁がヒ素の調査をしました。その時、島内のあちこちの土壌に基準値以上のヒ素があることがわかりました。1998年10月より環境庁はヒ素基準値の高いところの土砂を洗い流してヒ素を取り除く作業にとりかかり、1999年4月ほぼ作業は完了し、環境庁は「大久野島環境保全対策」というパンフレットを作成し、大久野島の安全をPRしています。しかし、ヒ素を取り除く作業中に、国民宿舎のすぐ近くの防空壕から9個の大赤筒の罐が見つかるなど、安全とは言えないのではないかという状況があることも分かりました。戦後処理の時、他の防空壕に赤筒などの毒ガスを大量に埋めたと言われており、大久野島を完全に安全な国民休暇村にするには、島内の防空壕を調べる必要があります。土壌汚染の原因になるものはいっさい島外に持ち出し処理しなければヒ素やそれ以外の毒物が土壌にしみこんで、環境汚染は広がっていく恐れがあります。

日本軍が中国に捨ててきた毒ガスと環境汚染

 毒ガスによる環境汚染問題では、敗戦時、日本軍が中国に捨ててきた毒ガスによる環境汚染問題があります。川に捨てたり、地中のあちこちに埋めてさた毒ガスは、今も中国の人を傷つけ、環境を汚染している可能性があります。捨てられてきた毒ガス弾は発見されているもので約70万発と言われています。中国に遺棄された毒ガスによって今まで2000人以上の中国の人が死んだり傷ついたりしています。1997年4月「化学兵器禁止条約」が結ばれ、日本は10年間で中国に捨ててきたこれらの毒ガスを処理する義務があります。1日も早く処理して、捨ててきた毒ガスによって傷つくことのないようにしなければなりません。このままにしておくと流れ出た毒ガス弾のヒ素や他の毒物が周辺地域の土壌を汚染し、そこに住んでいる人の飲料水や生活環境を汚染する心配があります。

 このように、土呂久で生産されたヒ素は、毒ガスの原料に使用され大久野島から国境を越えて中国まで運ばれ、きまざまな所に環境汚染をもたらし人体に害を及ぼしています。ヒ素による環境汚染の問題は国境を越えて考えていかなくてはならない問題なのです。
 

 


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