「第一回 日中友好黒龍江省の旅報告集」

                             毒ガス島歴史所監修・作成 より    

 眠れぬ大地                 山内 静代 

 ハルビン駅をでた列車は対岸がかすんで見えるほどの大きな川松花江の鉄橋を過ぎると広大な平原を一直線に走った。行けども行けども続くとうもろこし畑。4時間あまりの汽車の旅は時折現れる駅とその周りの小さな町をのぞけばまったくのみどりの大地である。地平線と言うものを見たことのない私にはこれが「大地」というものなのかと感動がわいてくる。かつて読んだパールバックの「大地」と最近放映された「大地の子」から想像した大地が今まさに私の眼前に広がっている。4時間もの旅の間全く景色は変わらなかった。この旅が単なる観光旅行であったなら,何とのどかで楽しいものであろうか。

やがて,チチハル駅に降り立つと,通訳の李然さんとチチハル市社会科学院の曹志劫さんがプラットホームまで迎えに来て下さっていた。運転手は間さん。そしてハルビンから同行してもらった通訳の鞠菊さんの4人の案内で私たちはチチハルにおける戦争の爪痕を訪ねることとなった。

 曹志劫さんはチチハル市社会科学院の院長で戦争史が専門。その研究をする中で日本軍の戦争遺跡や遺棄毒ガスの問題に関わるようになった人である。李さんは旅行社の日本部担当者であるが,元,満蒙開拓団の人たちが肉親探しや慰霊の旅に来るので,どのあたりにどういう開拓団がいたかということを自ら調査しているという。菊さんは信託会社に勤務しているが,栃木県の宇都宮市から2年前に調査団が訪れたときにも案内したという方で今回も10日間,会社を休んで同行して下さった。そして,チチハルは自転車も多いが車も多い。センターラインのない道路を車と歩行者の間を縫うようにして走り回って下さった歌の上手な陽気な間さん。時には一人っ子政策の矛盾点や家族のことなどプライベートなことも話しながらわたしたちの気持ちをやわらげて下さったこの4人のおかげで私たちは重苦しくも充実したチチハルの旅を無事終えることができた。これだけのスタッフを私たちのためにそろえてくださったのは黒龍江省社会科学院の歩平先生の人脈のおかげである。

 チチハルは対ソ連戦に備えた関東軍の北の拠点の一つであり,731部隊の兄弟部隊である516部隊をはじめ兵事歩跡や忠霊塔あとなどたくさんの遺跡が残っていた。取り壊されているものもたくさんあったが,今も住居などに使われているのを見ると切なさがこみ上げてきた。何と広い土地を我が物顔に占領し残虐きわまりない行為を繰り返していたことか。

チチハルの郊外のフラルキ区の中国第一重型機械集団公司供応処で遺棄毒ガスによる被害者の方にお話をうかがうことができた。

これまでに,戦争中の毒ガス使用のことそして遺棄毒ガス弾のこと,その毒ガスによる被害者のことは文献や映像である程度のことは知っていた。しかし,それはまさに表面だけの知識でしかなかったことがこの旅で良くわかった。

 工場のなかの広い応接間に通されてしばらく待った。やがて一人の女性が入ってこられた。ビデオテープやカセットテープの準備をして緊張していた私たちににっこり笑顔で入ってきたその人から思いがけない話を聞いた。それは,今日の証言者をみんなには内緒でさがしているとのこと。自分ももこっそり言われてここに来たこと。なぜなら,この工場だけで200人に上る被害者がいるので,日本からこういう調査にきていることがわかれば大勢の人が押し掛けて話を聞く状態ではなくなるだろうからということであった。そういえばここに来る前の曹さんに何人のかたにお話をうかがうのか,どういうお名前の方なのか質問してもはっきり教えてもらえなかったし,ここに着いて曹さんはあわただしくこの部屋を出ていったきりであった。30分くらい待って曹さんが2人の人を案内して帰ってきて,3人の方のお話が始まった。

王岩松さんは42才の女性で油科部門に勤務,李国強さんは49才の男性で放射線科に勤務する医師,そしてその連れ合いの女性は小学校の教職員であった。

王さんは赤いスーツに身をまとい,はっきりと発言する人で仕事と家庭を両立させ,党大会にも代表として参加し,60才の定年まで勤めたら自分の企業をもつという人生の設計を立て,そのためにもフランス語の勉強もしているという。夢と希望を持ち努力をしていた人であった。しかし,あの10年前のできごとが彼女の人生を狂わせてしまった。彼女のところに持ち込まれた200CCの毒液は,正体を暴かれまいとしてか抵抗し暴れ回ったとしか言い様のない事件であった。

その200CCの毒液を工事現場から持ち帰ったのは李然さんであり,自らも究明実験を繰り返したが,有能な王岩松さんたちにも調べてもらおうと持ち込んだのであった。「李然さんがこんなもの持ってくるからですよ。」という王岩松さんの言葉に李さん夫妻の顔はゆがみ苦悩の色は隠せなかった。李さん自らの毒材による苦痛以上にその言葉はきつかったろう。わずか200CCの液体によって体をむしばまれ生活を破壊されたのみならず,同じ工場に勤務する者こうして対立してしまわねばならなくなったのは何とも痛ましいことであり,その状況は二人にとどまらずこの工場だけで被害者は本当は200人に上るというのだ。戦争がもたらした心と体の被害は計り知れないものがある。

 やがて明るく語っていた王岩松さんの頬に大粒の涙がすーと流れたときそれまで通訳をして下さっていた李然さんが急に席を立ってメモを女性通訳の鞠菊さんに託して部屋を出て行かれた。通訳を引き継いだ菊さんは「最近腫瘍が2つ見つかりました。もうわたしの命は長くないでしょう。残された日々を10才になる息子のための楽しい思い出の時間に当てたいから昨日付けで退職願を出しました。」と声になるかならないか泣きながらの通訳であった。

フラルギの証言者の通訳は李然さんも鞠菊さんも初めてだとのことであった。私たちは質問することを忘れてただ痛む胸を押さえてうなだれて聞くだけであった。「ごめんなさい。ごめんなさい。」その言葉しかでてこない。そしてそれは音声にならず再び胸の奥にもどってしまった。人生の設計を立ててひたすら生きてきた彼女を打ち砕いたたった200CCの液体。私のふるさと,浪静かな瀬戸内海に浮かぶ周囲4キロ程の美しい島,大久野島で生まれた毒液は,今も大地のどこかに潜んで,中国の大地と人民を毒芽にかけようとしているのだ。彼女は今日も痛むからだと闘いながら,あとに残していく幼い子どものことを思い,志を遂げずにおえねばならない自らの人生を思い,眠れぬ日々を過ごしているに違いない。

李国強さんも夜中じゅうひどくせき込むので,彼の妻は彼の背中をさすって夜が明けるという。彼女は小学校の教職員であった。次の日の仕事にも差し支えるが一番悲しいのは二人の娘たちが父親の病状を理解してくれないことだとのこと。

この家族もまた眠れぬ日々を過ごしていることだろう。そして私たちの前に姿を見せることなく,あるいは毒ガスによる障害であることさえ知らずこの中国の街角の家々で今日も痛みと咳で苦しい一日を過ごしている人々がたくさんいることは間違いない。

 そして,毒ガス弾が遺棄されて50数年。その入れ物である鉄材は腐食がすすみすでに限界に来ていると言う。あの大地の土壌汚染,水質汚染が気になってならない。大地は今も眠れない。

私は,このお二人の証言を聞きテープ起こしをするなかで,大久野島で働いておられた方々の証言と重ね会わせていた。私たちが聞き取りを始めたのは敗戦後35年も経ってからのことであったから,慢性気管支炎に悩んでおられる方が多かった。「毒ガス患者は,寝ては死ななかった。夜中じゅうせき込んで,血痰をはき,家族に背中をさすってもらいながら毒ガスを恨んで死んでいった。その生活は就労困難と治療費のために悲惨をきわめた。」と言う証言や,話をして下さった方も平均寿命まで生きられず,早くに肺ガン等でなくなられてしまわれることと重なっていった。

大久野島では毒材であることを充分に知り防護策をこうじて尚かつの被害であるが,中国の被害者はまさか毒材であろうなどつゆ知らず,もろに原液に触れあるいは濃いガスを吸っているのでその被害状況は甚大である。しかもなんらその救済措置はとられていない。

「お願いです。彼を助けるためにどんなことでも善いです。治療法を教えて下さい。 そして,日本政府にこのことを伝え私たちの健康と生活の補償をするよう要求して下さい。私たちはすでに3回の日本人のインタビューを受けています。しかしその後なんら返事がありません。あなた方は4番目です。あなた方を信じ

ます。吉報を待っています。」

李国強さんの妻の厳しいまなざしが忘れられない。私たちはこの問いかけに応える義務がある。何か方策はないものかと忠海病院に相談に行かせてもらったり,身近な人たちに聞いてもらったりしているが,良い返事を出せぬままである。そんな時,通訳の李然さんから年賀状が届いた。

「あなた方の心がなつかしく忘れられません。」

と結んであった。忘れてはならぬ。急がねばならぬ。岩岩松さん,李国強夫妻,待っていて下さいよ。頑張っていて下さいよ。必ず吉報をお届けしますから。

 大久野島で製造に携わり,わが身を毒ガスに侵された人々にはその苦しみが身にしみて理解できるのだろう。大久野島で製造に携わった人々が自らの健康障害を乗り越えて加害者としての責任を追求し行動しておられることへの畏敬の念を深くすると共に,真の加害者は誰なのかを追求しなければならない。

 ことに当時,中学を卒業すると同時に,学校から進められてこの大久野島に養成工としてやってきた少年たちは「お国のためになる人間になれ。化学兵器は人道兵器であって君たちのしていることは立派なことなのである。」と日々,教え込まれ何の疑いもなく毒ガスの製造に携わったのである。彼らに果たしてその責任があるのだろうか。いやあるのは物事の道理をわきまえていたはずの大人たちである。皇民化教育の最先端で権力の手先となった教育関係者である。私は,今教職員として再び道を間違えてはならぬと考える。「おおくのしま」は私たちに歩むべき道しるべとなってくれている。ことに大久野島の地元の教職員としてこのことはきちんと子どもたちに語り伝えると共に全国に向けていや全世界に向けて発信して行かねばならないと考えている。「おおくのしま」の事実を掘り起こし,遺跡を保存し,次の世代に伝えていくことこれがわたしたちの世代の教職員としての責務だと思う。今,「南京大虐殺はなかった。」とか,加害責任を問うている人を「自虐史観」だと批判する声が出てきた。教育現場に「日の丸」を強制する動きが出てきた。かつての戦前の頃を体験した人々が「じわり,じわりと戦争に向かっていったあの頃とそっくりな情勢になってきた。」とつぶやかれる。そして,「大久野島のことを伝えて下さいよ。これからの子どもにわしらのような苦しい目にあわせちゃあならん。平和教育をしっかりやって下さいよ。」と訴えられる。かつて,「この島での仕事のことは誰にも言ってはならぬ。秘密を守れ。」

と教育されていた人々が,今,自ら名乗り出て証言をして下さっている。私たちはこのかたがたの思いに応えねばならない。

チチハルは日本軍が北の拠点とした軍事都市であったため多くの軍事遺跡が残存していた。チチハル市の社会科学院の曹さんが専門的に調査したところを案内して下さった。取り壊されたものもたくさんあったが,住居となったり工場となったりして生活の中に残っていた。中国の人々の労働と財産を奪い尽くして建設されたこれらの建物は金に糸目を付けないと言った堅牢なものであったからだろう。曹さんがチチハル市の地図の中に書き込んでいったその占領地跡も広大なものであった。その軍事施設の中には処刑場もあり,建設するためにつれてこられた中国人は生きて再び故郷の地を踏むことはなかったという。

チチハルの軍事施設を守るかのように満毛開拓団がおかれていた。通訳の李然さんと鞠菊さんから満蒙開拓団の中国残留日本人の話を聞いた。鞠菊さんの叔父のお嫁さんが中国残留日本人で前回の肉親探しに加わり日本に行き,顔も背格好もそっくりの人に巡り会ったがその人は肉親であることを認めてくれなかったためショックを受けて帰ってきたとのことであった。また李然さんからは「日本人だということがばれて,周りの人にいじめられて,石を投げられたりして,とうとう気が狂ってしまって仕事もできないでふらふらしている人が私の身近にいますよ。」と言う衝撃的な話も聞いた。軍は北の守りの前線をこのチチハルから審陽に移したため,取り残されたたくさんの開拓団の人々は多くの犠牲者を出しながら日本へ一歩でも近づこうと逃走していった。この大地の広野を生き地獄のようにさまよい逃げまどわねばならなかった人々の思いははかり知れない。

李然さんは,現在日本から慰霊の旅に訪れる元開拓団の人々の案内をしているとのことだった。50年もたって訪れるので記憶がさだかではない人が多く,そのために自ら調査し満毛開拓団の地図まで作ったと言う。

「開拓団の人たちは,かつて侵略の手先として満州に送られた人々ではあるが,日本帝国主義にだまされ踊らされ,挙げ句の果ては捨てられた人々です。到底,連れて帰ることはできないだろうからせめてここで死なせてやろうと子どもたちを学校の校舎に閉じこめ,まわりを大人たちが取り囲んで火を付けたそうです。『おとうさん助けて・・・。』とわが子が飛び出てきたが,これが親心だとわが子を燃え盛る火の中に投げ込んで帰ったお父さんが,かろうじて生き残り中国の人に助けられて今も元気にくらしている人に会って,『娘よ。許してくれ。あのとき殺していなければこのように幸せに暮らせていたものを。生きて再び会えたかもしれないものを。許してくれ。』と泣いてわびておられましたよ。そのような人がたくさんこられましたが今は少なくなりました。もう動けなくなったり,亡くなってしまわれたのでしょうね。50年以上もたっていますからね。」

 年老いたその日本人たちのために親身になってお世話をしておられる様子がその話ぶりからうかがえた。「李然さんは,心の美しい人です。」と鞠菊さんが言う。仕事という域を越えた,人間としての美しさに心が洗われる思いがした。彼はまさに中日友好の架け橋だ。彼は,私たちに開拓団跡の地図を託した。そしてお互いに情報の交換をすることを約束した。

 遺棄毒ガス問題とともに今尚,解決されていない残留日本人の問題も早急に解決されねばならない大きな課題である。

今回の中国の旅に参加して,戦後52年と言うが決して戦争は終わってはいないということを実感した。眠れぬ日々を送らざるをえない人々と大地。

私は今回の旅の中でしばしば,頭痛におそわれた。これまで,何処へ旅しても,決して体調を崩すことがなかったので,今回の旅も健康面においてはなんの不安もなかったので薬らしきものも用意していなかった。他の3人もそれぞれに体調を崩していたがやはり精神的なものからだろうと思われた。みんな気力で調査の旅を続けていたが,私の頭痛がどうにも絶えきれなくなってとうとう2時間ばかりスケジュールを狂わせてしまった。しかし,だれひとり不平を言うことは図った。お互いの体調を気遣いながらの旅であり,特に私たちを迎えて下さった中国の人々の心遣いには深く感謝している。

「私たちは,日本帝国主義は恨みます。しかし,中国人民,日本人民はお互いに友好を深めこれからの平和な世の中を築いていきましょう。」

これは,証言して下さったすべての方が,別れの時にかならず言われた言葉だ。 あれほどの陵辱を受け,今尚,大地に潜む毒ガスにより被害を受け続けている人々の心情を思うとき,「罪を憎んで,人を憎まず。」という中国の教育の高さと心の深さを垣間みた思いがした。そして,また, 「 皆さん,是非また来て下さい。今度は観光旅行で来て下さいね。」と明るい笑顔で握手をして別れた人々。あの美しい大地とそして,優しい人々。本当は,私の好きな墨絵や書の研修を目的に日本文化の源を訪ねる旅に来たいものだと思う。もし私が,遺棄毒ガスのことを知らなかったら,単なる観光旅行をして,かつての日本人がそうしたように中国の大地を我が物顔に踏みつけて帰っただろう。横柄な日本人旅行者がたくさんいることを李然さんから聞かされた。観光旅行の前にやらねばならぬことがある。

 日本軍の細菌戦によって親戚や家族12人を失った清福和さんがわざわざ私たちに会いに来て下さっていたが,時間の都合でほとんどお話をうかがえなかった。未だ,日本軍の罪過の実相の氷山の一角に触れたに過ぎない旅である。今度は一人での多くの仲間と共に再び行かねばならないとの思いを強くしている。

 大久野島の砒素汚染土壌の処理には即刻22億円の予算が付いてその作業が始まっている。中国の毒ガスの処理を10年で完全にやり遂げさせることそして,毒ガス障害者の救済措置をさせること。これが私たちの世代に背負わされた負の遺産である。その解決を図らねば,大地に夜明けは訪れない。今夜も大地は眠れぬ夜を過ごしていることだろう。

 

 

 

         哈尓濱で思ったこと        山内正之

 私にとって、今回の中国の旅は二つの意義があった。一つは言うまでもなく、大久野島で製造した毒ガスが中国の人達にどのような被害をもたらしているのか、その加害の事実を検証すること。もう一つは、私は中国で生まれ戦後、家族とともに引き揚げてきた、その自分の出生の原点を訪ねることであった。そして、その願いは旅立つ前の予想を越える意義深いものとなった。

私は、哈尓濱で生まれたのではなかったが、満州国時代、家族が哈尓濱にしばらく住んでいたこともあって、よく母親から哈尓濱の話を聞いたものだった。そういう意味もあって今回の旅で、もっとも訪れたかった町は哈尓濱だった。満鉄の中国人やロシア人の日本語教師だった父は、終戦後一年経って日本に家族を連れて引き揚げてきた。その苦労話は小さい頃よく母親から聞かされたものだった。そして、何度か「あんたは、よく生きて帰れた。」と感慨を込めて言われたことがあった。小さい頃はそのことがピンとこなかったが、中国残留日本人の帰国と肉親探しがテレビで映し出されるようになって、そのことの意味がよく解った。また、映画「大地の子」がテレビで放映された時、主人公に自分のことを重ね合わせて見た思い出もある。

私達が哈尓濱に着いたのは夜だった。迎えの車の中からは真っ暗で何も見えずただ道路の両脇に生えている白樺の木が哈尓濱を感じさせるだけだったが、私の心の中は哈尓濱にやって来たんだな、という感激で満たされていた。幾度も聞かされた松花江の話、母がここに住んでいた時習ったと言ってつくってくれた餃子の味、いろいろなことが頭の中をよぎった。

  翌朝、ホテルの窓から初めてみる哈尓濱の町は落ち着いた雰囲気を持った町だった。朝の散歩に出てみると、近くの広場でたくさんの人たちが太極拳など朝の体操に興じていた。古いレンガ造りの住宅の町並はきれいに掃き清められ、すがすがしかった。

 この町の郊外にあの悪魔の部隊、第731部隊が置かれていたとは信じられない気がした。哈尓濱など満州での話は、母から聞いたものが多く、父から聞いた記憶はあまりないが、話の中で、第731部隊のこと、あるいはそれに関わるような話はいっさい聞いたことはなかった。おそらく民間人にはその実態を知らされてなかったのだろう。満鉄で比較的生活に恵まれていた時代の話かソ連軍が侵攻してきて逃げ回った話(女性は皆、丸坊主になってソ連軍兵士の乱暴から逃れた話)など戦争被害者の立場からの話であり、加害を証言するような話はいっさい聞いたことがなかった。しかし、知っていようがいまいが、私の家族の哈尓濱での生活は、あの第731部隊の犯罪の上に成り立ていたことは事実であり、改めて、私達の家族もその加害の一端を担っていたと考えると何とも言えない気持ちになる。

 日本では、地元、竹原の大久野島で毒ガスを製造し、満州では、その毒ガスを使った悪魔部隊の第731部隊のそばで生活していたなんて驚きだ。父親は召集令状が来た時ちょうど終戦を迎えたため戦争には直接参加しなくてすんだ。戦争の現実とは比較的離れた所で生活していたと思っていたが、そうではなかった、むしろその最前線に生活していたことを知り唖然とする思いがする。

哈尓濱の市街を案内してもらいながら、「ここが有名な大和ホテルの建物ですよ、ここが満鉄に関係した建物です。」とか「ここが引き揚げる時、日本人が集合した場所ですよ。」といった説明を受けると他人事とは思えず必死の眼でその建物を追いかけた。

 ガイドのダ−さんの話では、こういう遺跡も壊されていって、ほとんどなくなっているとのこと。10年前ならもっと残っていたが、中国は、今、著しく経済発展をとげているので、古い建物はどんどん壊されているとのこと。中国の経済発展は上海など臨海地域が著しいが、東北部の都市にも少しずつ広がっているとのこと。戦争の傷跡をとどめる遺跡が失われているのは残念なことではある。そういう意味では、第731部隊の遺跡と侵華日軍第731部隊罪証陳列館は貴重な戦争遺跡でありみんなで大切に保存していかなくてはならない。侵華日軍第731部隊罪証陳列館を訪れるのは日本軍の戦争犯罪の学習に訪れる中国の生徒や日本から戦争の遺跡を訪ねて来る人達が多いとのこと。中国東北部を訪れる日本人は必ずここを訪れ、日本のおこなった加害の真実を学ばなければならないと思った。

哈尓濱での戦争遺跡はなんといっても第731部隊の遺跡である。2、3年前行われた「第731部隊展」によって日本全国にその実態は少しずつ、明らかにされているが、まだまだ、日本全国の人がこの悪魔の犯罪を知っているとはいえない。しっかりその罪状と、遺跡を学んで帰り、子ども達に伝えたい。第731部隊に関する学習は今回の旅でも、大きな比重を占めていた。

 私達が最初に訪れたのは侵華日軍第731部隊罪証陳列館だった。最近できたばかりの新しい記念館で、第731部隊の遺跡を残そうと呼びかけて、中国、日本の平和運動を進めている人達の協力によって造られたと聞く、それだけでも意義深いものだ。、現在、この館の研究員をされている金成民さんに第731部隊の遺跡の全貌の説明を聞き、ダ−さんの説明で展示を見て回った。陳列館は第731部隊の施設の全貌とあらゆる罪状が解るように展示されていた。金成民さんとダ−さんの説明で詳しく学ぶことができた。特に、ダ−さんの説明は流暢な日本語のうえ説明が解り易く大変勉強になった。

 館内での学習の後は金成民さんと前館長の韓暁さんに遺跡を案内してもらった。2人は第731部隊の研究家で「中国人の証言」という第731部隊関係の本を共著で出版している。現在の、第731部隊遺跡のある平房区は今はにぎやかな町になっており、哈尓濱の郊外とはいえかなり人が行き交っていた。森村誠一著の「続悪魔の飽食」に出てくる第731部隊の全景を撮った航空写真を見ると広い平原に第731部隊の建物だけが建っている様子が出ているが、そのイメ−ジは、今は当てはまらない。 現在、第731部隊関係の遺跡は22カ所残っているとのこと。全部はとても回れなかったが、冷凍実験室、小動物飼育室、イタチ飼育室、焼却炉、本部跡、ボイラ−室跡、飛行場跡の建物などを案内してもらった。一番印象深かったのは本部跡の建物。今は中学校として使われているというのには驚いた。二階には人体実験の標本が保存されていたと言うし、石井部隊長の執務室もあったという。ここで学んでいる生徒には第731部隊のことはどのように教えられているのだろうか。中に入って見ると、薄暗い通路があった、ロ号棟へとつながる通路だ。もちろん、今は、ロ号棟も特設監獄も破壊されて跡形もなくなっているが、薄暗い通路を行けば特設監獄へつながっていたと考えると何ともいえない気持ちになった。約170mある本部跡の建物の右端には旧侵華日軍第731部隊罪証陳列館の跡があったそうだが今は入り口の看板だけ残って陳列物は新館に移されていた。

第731部隊遺跡を見学した後、宿舎の国際飯店で佳木斯の遺棄毒ガス弾被害者との交流を持った。1974年10月佳木斯の西港通江街のドック入り口で沈殿している泥を取り除く作業をしていて被害にあった、李臣さん、劉振起さんたちだ。その時、被毒して、亡くなられた肖慶武さんの連れあいさんも含めて4名の方の証言を聞くことができた。被毒して23年も経過していても、いまだに後遺症に悩まされていることや、被毒することによって、自分達の人生がいかに変わったか、被害を受けた本人だけでなく、家族までどれだけ苦しめられたか切々と訴えられた。「とにかく、日本政府は一日も早く、中国に遺棄した毒ガスを処理し、中国人民の安全を確保して欲しい。」と訴えられ、この当然すぎる訴えにも何ら答えようとしていない日本政府の無責任さに、改めて怒りを覚えるとともに、加害者である日本人として、自分はこの人たちのために何をしたのか、何ができるのか考えさせられた。李臣さんたちの証言はVTRで見たこともあったし、本でも読んだことがあったが、直接、話を聞かせてもらい、より鮮明に被害の実態を学ぶことができた。証言して下さった被害者の方にどう返していくか、これからの大きな課題である。

哈尓濱を離れる日、私達は東北烈士紀念館で行われていた毒ガス展を見に行った。2年前から展示されている展示会は日本の毒ガス製造がどこで行われ、どのように中国で利用され、今でも遺棄された毒ガスによって中国人民がいかに傷つけられているかが解り易く展示されてあった。大きな大久野島の地図をはじめ、毒ガス島研究所会長の村上初一さんや会員の岡田黎子さんの手紙など、日本側の資料も展示してあった。ここの展示もダ−さんの流暢な日本語で詳しく説明してもらい大変勉強になった。

 日本でも毒ガス展はあちこちでおこなわれているが、まだまだ、日本軍が毒ガスを使用したことや、遺棄毒ガス弾のことは知らない人が多いと思われる。もっと日本でも毒ガス展を開いて、毒ガスの恐ろしさと遺棄毒ガスの問題を一人でも多くの人に知ってもらう必要がある。

また、哈尓濱を訪れて、改めて認識を新たにさせられたことに中国残留日本人の問題があった。哈尓濱にはかなりの残留日本人の人がいることをガイドさんから聞いた。私達の旅に同行して下さった鞠菊さんの親戚にも残留日本人の女性がいて、肉親探しに日本に行って自分の親らしき人がいたのに親だと名乗ってもらえなかった、という話を聞いた。このくらい身近なところに、残留日本人がいるということは、哈尓濱にはかなりの残留日本人がいるなと思った。終戦を、満州で1歳に満たない赤ん坊で迎えた私自身ががその運命に置かれてもおかしくなかったことを考えると他人事には思えなかった。日本軍国主義の犠牲になって、異国の地に放置された残留日本人の苦しみを思うと心が痛む、何とか、日本政府はもっと肉親探しの手だてをしなくてはいけないと思う。残留日本人は鬼子の子として、大変いじめられたという、小さい時いじめられ、文化大革命で危険分子として、差別され、本当につらい生活を送った人が多いという話を聞いた。映画「大地の子」で見たことと重なるが、現実は、もっともっと悲惨だったのだろうと思う。「あんたは、よく生きて帰れた。死ぬと思った。」という母の言葉が心に浮かんだ。毒ガス被害者のために、中国残留日本人のために自分に何かできることがあれば何でもしなければならないという思いを強く持った哈尓濱だった。また機会があれば訪れたい。

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