国際友好交流は平和の礎

中国との友好交流のために・・・私たちが行っている活動  2019年5月作成

1946年10月に中国から引き揚げてきた私は、戦争中、日本陸軍が毒ガスを製造していた島から約10km離れた広島県竹原市で生活しました。敗戦後、中国から引き揚げてきた私たちの家族は貧困に苦しみましたが、日本の学校の教師になった父の収入で私は育てられ成長しました。成長する過程においても、私の心の中では、中国は外国の中で、一番は行ってみたい憧れの国でした。やがて私は大学を卒業し、高等学校の社会科の教員になりました。私は家族の引き揚げの苦労などを聞き、私が「九死に一生」を得た身であることを聞いいて育ったので、幼い頃から、戦争はいけないことだという意識が心の底に強くありました。

高等学校の教師になって生徒に日本の歴史を教える中で、日本の侵略戦争について教える時は、自然と力が入りました。日本が二度と悲惨な戦争を繰り返さないために、日本の子どもたちに日本の行った戦争がいかに間違っていたか、平和がいかに大切かを理解してもらいたい思いが強くあったからです。南京大虐殺・七三一部隊の細菌戦・三光作戦など日本が行った残酷な侵略戦争の事実について書かれた書籍を読んで学びながら、できるだけ、子どもたちにも伝える授業を心掛けました。しかし、日本軍の毒ガス戦についてはあまり、授業でも取り上げていませんでした。日本軍の毒ガス戦に関する勉強不足もありますが。私の心の中に、間違った知識があったからでした。私は、まだ小学校に入学する前から、誰からともなく、戦争中、大久野島で毒ガスが製造されていたことは聞いて知っていました。それは、「戦争中、大久野島では毒ガスを製造していた。しかし、戦争では使わなかった。大久野島で製造した毒ガスで外国人は殺傷していない。」という間違った知識でした。学校で習った覚えもないので、多分それが当時の大久野島の存在する周辺地域の一般的な知識だったと思われます。

敗戦後、大久野島で毒ガス製造に携わった人や大久野島でいろいろな作業に従事した多くの人が毒ガス後遺症で苦しんでいた時です。地域の人はだれもが大久野島の毒ガスのことは無関心ではなかったはずなのに、なぜ、このような間違った情報が地域に広がっていたのか。国際条約に違反した毒ガスを中国などで使用したという事実を隠ぺいするために流された情報だったのだと思わざるを得ません。

大久野島で製造された毒ガスは侵略戦争で使用され中国で多くの死傷者を出している。私の大久野島の毒ガス戦に関する誤りに気が付いた時にはすでに教員になって10年以上経過していました。私は10年以上、間違ったことを子どもたちに教えていた。大変申し訳ない。私自身の勉強不足を反省するとともに、自分自身の目で見、耳で聞き、現地で学ぶことの大切さに気付きました。中国に行って日本軍の侵略戦争の真実を学ばなければならない、という思いが強くなりました。そして、私の住んでいる大久野島の毒ガス加害の事実を子どもたちに伝えること、私と同じように間違った知識を持っている人に真実を伝えること、まだ知らない人に日本軍の毒ガスによる戦争加害の事実を伝えることが自分のするべきことだと考えるようになりました。

1996年4月、大久野島の毒ガス被害・加害について調査・研究し、その実態を多くの人たちに伝えるために毒ガス島歴史研究所を創設しました。敗戦後、流布されている誤った大久野島の毒ガスの歴史を払拭し、大久野島の毒ガス加害の歴史を伝えていくことを目的に設立しました。戦争中、国の命令で毒ガス製造に従事させられ、毒ガス傷害を受けた日本人被害者の被害のことも調査研究するのは勿論ですが、それ以上に加害の事実の調査研究に力を入れて活動していくことにしました。今まで行ってきた活動をまとめると次のようになります。

T:大久野島の毒ガス被害者の証言や資料を集め「毒ガス島歴史研究所会報『記録にない島』を発行し、

多くの人に毒ガスの被害・加害の事実を知ってもらう。

U:中国の毒ガス被害者から被害の実情を聞かせていただき、中日友好交流を進める。

  中国の毒ガス被害者に自分たちのできる範囲で支援を行う。

V:中国の被害者に日本で証言をしていただき、日本人に毒ガス問題の啓蒙をする。

  日本人に毒ガス加害の問題・遺棄毒ガス問題に関心を高める。

W:日本の侵略戦争の事実を写真展示や資料展示を通して多くの人に伝える。

X:大久野島でのボランティア活動(戦争遺跡の案内・講演)を通じて毒ガス加害の歴史を伝えていく。

 【活動の概略紹介】

T:「毒ガス島歴史研究所会報『記録にない島』の発行

『記録にない島』1号〜16号  中国遺棄棄毒ガス問題報告集 毒ガス工場の歴史を伝える伝言を発行

           

創刊号        第15号       第16号     中国遺棄棄毒ガス問題報告集

U:日中友好交流の旅(日本軍の侵略の実態を学び、中日友好交流を進める。)

  中国の毒ガス被害者に自分たちのできる範囲で支援を行う。(現在も継続中)

〇1983年8月 第 1回日中友好交流・中国平和学習の旅(上海・杭州・蘇州・南京・北京)

〇1997年7月 第 2回日中友好交流・中国遺棄毒ガス被害者と交流の旅(哈爾濱・斉斉哈爾)           

〇1998年8月 第 3回日中友好交流・中国反侵略の旅(上海・南京・北京・北坦村)

〇2000年9月 第 4回日中友好交流・撫順戦犯管理所開設50周年記念式典参加(瀋陽・)             

〇2001年8月 第 5回日中友好交流・中国遺棄毒ガス被害者と交流の旅(瀋陽・哈爾濱)

〇2004年8月 第 6回日中友好交流・河北省北坦村訪問謝罪の旅(南京・北京・北坦村)

〇2005年4月 第 7回日中友好交流・河北省北坦村訪問清明節参加(北京・北坦村)

〇2005年9月 第 8回日中友好交流・731部隊罪証陳列館国際シンポジュウム参加(哈爾濱)               

〇2007年12月第 9回日中友好交流・南京大虐殺70周年国際会議参加(上海・南京)

〇2009年8月 第10回日中友好交流・中国東北部平和と交流の旅(瀋陽・平頂山・哈爾濱)

〇2010年4月 第11回日中友好交流・北坦村清明節で講演(南京・北京・北坦村)

〇2013年2月 第12回日中友好交流・中国遺棄毒ガス被害者と交流の旅(哈爾濱)

〇2015年12月第13回日中友好交流・南京大虐殺紀念館国家追悼式典参加(南京)

〇2016年11月 南京大虐殺紀念館の遺棄毒ガス展シンポジュームに参加し講演

〇2019年 5月 南京大虐殺紀念館の口述史取材のため南京訪問

  

1997年中国哈爾濱遺棄毒ガス被害者から証言を聞く     2004年侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館訪問

     

2004年河北省北担村に謝罪の旅  謝罪と追悼式                 村人と友好交流          

    

2010年4月清明節で 河北省北担村の平和集会に参列、子どもたちに大久野島の毒ガス加害の歴史を講演した。  

V:中国の被害者に日本で証言をしていただき、日本人に毒ガス問題の啓蒙をする。

  日本人に毒ガス加害の問題・遺棄毒ガス問題に関心を高める。

〇1998年7月中国遺棄毒ガス被害者李国強先生一行を招請。

広島大学病院で李国強さんに検診を受けていただき、広島と竹原で証言集会開催。

〇2002年3月  中国遺棄毒ガス被害者(李国強さんと張岩さんの証言)竹原証言集会開催。

中国黒龍江省テレビが取材、中国で特集番組として放送。

      

1998年広島で遺棄毒ガス被害者                     2002年竹原で遺棄毒ガス被害者

李国強先生証言集会開催                          李国強・張岩先生証言集会

W:侵略戦争の事実を写真・資料の展示会や講演会・学習会を開催して多くの人に伝える。

〇1997年10月「中国遺棄毒ガス問題検証の旅」報告集会開催。

〇1998年5月 歩平先生(中国黒龍江省社会科学院副院長)の講演会開催。

〇1998年11月「笪志剛先生(黒龍江省社会科学院)との交流学習会」開催・大久野島案内。

〇1998年11月〜翌1999年年3月大久野島の模型づくり。(現在:大久野島毒ガス資料館に展示)

            大久野島毒ガス工場の模型は希望者に貸し出しをした。

〇1999年7月「731部隊を考える集い」王選女士(細菌戦訴訟中国原告団団長)講演会開催。

  〇1999年 8月 演劇「地図から消された島」やまびこ座竹原公演を主催。参加者約400人

  〇2000年3月 忠海東公民館祭りに、毒ガス島歴史研究所として写真展示会開催。

〇2000年4月 毒ガス島歴史研究所ホームページ開設。

〇2000年8月「大久野島歴史写真展」「日中友好文化交流絵画書道展」を中部砲台遺跡で開催。

  〇2003年1月 「南京大虐殺・毒ガス問題展」と講演会を開催

  〇2003年8月 毒ガス問題の展示会を広島市内で開催。(於: 広島シャレオ広場)

 〇2005年2月「毒ガス展」と映画「苦い涙の大地から」上映会を開催

北坦村毒ガス被害者陵園修復資金の募金活動。修復募金は2005年4月5日

北坦村に持参。中国中央テレビが中国で報道するため取材。

〇2010年3月「岡田黎子大久野島動員学徒の語り原画展と語る会」開催。(忠海駅研修室にて)

〇2016年4月 毒ガス島歴史研究所創立20周年記念大久野島毒ガス写真展展示会開催

〇2017年7月 南京大虐殺展示会「閉ざされた記憶、ノーモア南京展」を広島で開催

 

2005年2月竹原で中日友好平和学習の旅報告会開催      中国中央テレビが取材、中国で放送した。

X:大久野島でのボランティア活動(戦争遺跡の案内・講演)を通じて毒ガス加害の歴史を伝える。

☆毒ガス島歴史研究所会員のボランティアによる大久野島の遺跡の案内と講話の概数

   (注)マスコミ(新聞、テレビなど)へ取材協力も含めた回数です。

    ☆2018年12月で大久野島での案内・講話の回数が約1,216回以上になりました。

毒歴研会員による大久野島でのボランティア活動で頂いたカンパ金(謝礼金)は中国遺棄毒ガス被害者への医療支援や大久野島被害者への支援、

その他の平和運動へのカンパ金などに役立てています。

        

大久野島の毒ガス加害の歴史の講話             戦争遺跡のフイールドワーク

 

中国と家族と私   

私の家族は父と一緒に1937年、10月に中国東北部(満州)に渡った。まず、父と母は生まれて2か月の長男(智)を連れて中国(満州)に渡った。長姉(明子)はしばらく竹原の祖母の元に預けられ、1年後に、叔父(光時)に連れられて渡満した。姉が3歳の時だった。次男(攻)は1939年4月ハルピンで生まれた。三男で末っ子の私は1944年10月30日に瀋陽(奉天)で生まれた。私の生まれ故郷は中国の瀋陽である。

父は満州に渡り満鉄(南満州鉄道株式会社)の学校の教師として働いた。最初の赴任地は新京(現在の長春)の満鉄新京扶輪小学校であった。その後、ハルピンの満鉄ハルピン鉄道学校講師、奉天鉄路学院教諭として勤務した。日本の敗戦約1年前の1944年10月15日からは錦州の満鉄錦局総務部錬成科の青年学校・青年隊指導員として勤務している。

私の家族は敗戦1年後の1946年10月に日本に引き揚るまで、約9年間、中国に住んでいたのである。1944年10月に生まれた私は約1年11ヶ月間、中国で育った。しかし、赤ん坊だった私には生まれてから1歳11ヶ月間の中国での生活の記憶は全くない。竹原に引き揚げて後、私が小学生になった頃から時々、満州での生活のことを母から聞くことがあった。その話から、自分が終戦前、中国で生まれ、生きるか死ぬかの運命を背負っていたことを知った。母親から満州時代の話を聞き始めた頃から、私にとって、中国は他国ではなくなった。中国は自分の生まれ故郷であるということを意識するようになった。

満州では父は満鉄の語学教師をし、母は主婦業だった。父は満鉄に関係するロシア人や中国人に日本語を教えていた。その関係でハルピンに住んでいる時は父の教え子のロシア人や中国人がよく、我が家に遊びに来ていたそうだ。母は中国の人から餃子の作り方を学び、日本に引き揚げてからも、よく餃子を作ってくれた。冬になると父が松花江に姉や兄子をスケートに連れていったり、リンゴ狩りに連れて行ってた楽しい思い出も多く聞いた。ハルピンでは冬はマイナス30度以上になるので松花江が凍結し、その上でスケートを楽しんだ話を母からよく聞いた。学校では前の晩、校庭に水を撒いておくと次の日、校庭がスケート場になり、子どもたちは校庭でスケートを楽しんだという。      

     

母と姉と智兄、ハルピンにて                当時のハルピン駅

 

終戦の日の1945年8月15日の朝、父は赤紙で徴兵されて集合場所に向かった。兄はそれを見送る母の姿を憶えている。もし、父がこのままどこかの戦場に送られていたら、どこかで兵隊任務に就かされていたら私の家族はバラバラになり、家族全員が無事、日本に引き揚げて来ることができなかっただろう。しかし、8月15日に父が徴兵から解放されて家に帰って来たので家族にとっては大きな幸運だった。おかげで、家族全員で日本に引き揚げることができたのである。終戦日の8月15日、集合場所にいた父は昼頃に、家に帰ってきた。「もう家に帰って良い」と言われたとのこと。

敗戦後、中国に渡っていた人達は、しばらくは引き揚げはできなかった。敗戦直後、日本政府は海外の移住者への対策は、「現地定着」の方針で進めることを決定し、海外の関係官庁にはそのように指示していた。すなわち、日本に引き揚げさせても日本国内は大変だから、海外移住者はそのまま、海外へ定着させて、住まわせるという政策であった。ひどい話だ、日本が侵略した国のどこに日本人が定住できる場所があるというのか。まさに棄民である。お国のためと宣伝し。国民を騙して侵略した国に送り込んでおきながら、いざとなったら棄てる。本当にひどい話だ。

8月15日の終戦時、私の家族は瀋陽(奉天)の社宅に住んでいた。日本人家族は固まって一緒に住んでいた。住宅の周りに柵を作り、外部の者が入って来ないようにし、見張りをおいて警戒したそうだ。しかし、ソ連軍が来て統治するようになると、ソ連軍の兵士が略奪にやって来るようになった。

ソ連軍の憲兵が取り締まりはしていたが十分でなく、たくさんの人が被害を受けたそうだ。私の家族の住んでいた住宅地にもソ連兵が度々、やってきて物(特に時計を欲しがった)を要求した。幸い、私の家族は悲惨な被害に会うことはなかったが、やってきたソ連兵に物品は取られたという。ソ連兵の来襲に備えて社宅では、見張りを付けてすぐ逃げられるようにはしていたが、ソ連兵は急にやって来るので逃げようがなかった。被害を最小限にするために、裏の戸は開けておき、すぐ逃げられるようにしたり、すぐ逃げられるように、寝る時も靴を履いたまま寝たりした。ソ連兵が物を要求した時は抵抗しようがないので持っている物を渡すしかなかったそうだ。

 敗戦後、日本人が集まって柵の中に住んでいた時、私の家族を父の教え子の中国人が助けてくれた。食べ物や衣類を持って来てくれたり、ソ連兵が略奪に来た時などに我が家に来て、家族をかばってくれたりした。

引き揚げ後、私は母から、敗戦後、日本に引き揚げるまで、中国の人に親切にしてもらい助けてもらったという話を度々、聞いた思い出がある。私は幼いながら、中国の人に、大変お世話になったという気持ちを持って成長した。母から中国の人にひどい目に遭ったという話は聞いたことがなかったからだ。母から満州での生活の話を聞く度に、私の心の中には、私が生まれた故郷、中国に行って見たいという思いが高まっていった。私の心の中で、中国に行くことが大きな夢となって膨らんでいった。

敗戦から引き揚げまでの満州での家族の生活は苦しかった。父には定職はなかった。家族を養うために、父は、何時も職探しをしていた。子ども4人と妻の6人家族が生きていくために、父は、どんな仕事でもしなくてはならなかった。材料が手に入った時は粟餅を作って翌日、販売したりしもした。それ以外にも何か仕事がないか父は、毎日、町に職探しにでていた。時に、ソ連軍の兵士から仕事が入り、労働(材木の運搬など)させられた。時には2・3日帰らないこともあった。

その頃の、私の家族の生活は困窮していた。毎日の食事は粟(あわ)や高粱(こうりゃん、カオリャン)が主食だった。食料は常に不足し、姉兄たちは何時も空腹だった。私は赤ん坊だったので、粟や高粱のおも湯を飲んでいたそうだ。私は栄養失調で痩せ衰え、骨と皮ばかりで、立ち上がることもできず、じっと寝ているばかりだった。本来なら歩く年齢になっても私は歩くことができなかった。座るのがやっとだった。中国から日本に引き揚げた後、母から「正之はよう生きて帰った。死んでいても不思議はなかった。」とよく言われたものだ。この時期、満蒙開拓団で、北部から逃げてきた引き揚げ者家族は私達の家族以上に困窮していたそうだ。逃げる途中で家族がバラバラになった人も多かったそうだ。とだけでも  

瀋陽(奉天)に住んでいた私の家族は早い時期の引き揚げ船に乗れることになり、引き揚げの予定の日時も決まって、日本への引き揚げに、期待に胸を膨らませて待機していた。ところが、不運なことに、その待機中、母が高熱を出して、重病人になった。医者に見てもらうと、母の病状では、引き揚げは無理と言われた。子どもたちは、帰るのを楽しみにしていた。それだけに帰れなくなってショックだった。母は、父に「先に子どもたちを連れて帰ってください。」と言ったそうだが、父は「みんな一緒に帰らなくてはいけない。」と言って、予定していた引き揚げ船には乗らなかった。次に引き揚げるには重病の母が乗れる病院船を待たなくてはいけなくなった。いよいよ引き揚げの時が来た。奉天に住んでいた家族は引き揚げ船の出港する葫蘆島の近くの錦県(錦州市内)に移動しなければならなかった。母の病状も少しは回復し、歩けるようになっていた。当時、11歳の姉が生まれて1歳10ヶ月の赤ん坊の私を背負って引き揚げてくれた。母は病身で私を背負うことはできなかった。私の家族と親しい中国人が親切に、「赤ん坊の私を連れて帰ると大変だから、中国で預かってあげますから、置いて行きなさい。日本に帰って、落ち着いたら連れに来たら良いから」と言てくれた。栄養失調の赤ん坊を連れて帰っていて、途中で、もしものことがあったらという親切心からだった。しかし、父はそれを断って家族みんな一緒に帰ることを選んだ。家族は1946年10月日本に帰ることができた。引き揚げの途中、栄養失調で餓死したり、病気で死んだり、残留孤児として中国に残されたりした人も多かった。それを考えると私は引き揚げの時、「九死に一生」を得たと言える。空腹に苦しみながら、やっとの思いで、日本の我が家に着いた時、私は母に背負われて帰って来たそうだ。近所の人が、母が手足が骨と皮ばかりの私(赤ん坊)を背負っているのを見て、この子はいずれ死ぬのではないかと思ったそうだ。

私は日本の犯した侵略戦争の犠牲にならず生き延びることができた。私は「九死に一生」を得たとも言える。私は幼い頃から私の家族の中国からの引き揚げの苦労やその後の苦労話を母親から繰り返し聞きながら成長した。そして、自分の家族は敗戦後中国で過ごした1年間と引き揚げの時、親切な中国の人たちに助けられた。    

私が元気で成長できたのも中国の人たちのおかげだという思いが強く心に刻まれた。

私が成長し、日本のアジアへの侵略戦争の歴史の勉強するようになり、日本が行った三光作戦・南京大虐殺・731部隊の人体実験など数多くの日本軍の犯罪を学ぶにつれ、ますます、中国という国の偉大さとやさしさなど考えるようになった。一方、なぜ、あれほど日本軍によって残虐なことをされ、被害を受けた中国の人たちが私たち家族を守ってくれたのか。中国の偉大さを感じるとともに、その偉大さの生まれる原点を知りたいと考えるようになっていた。

そのことに気付かせてくれたのが、2000年9月撫順戦犯管理所50周年記念式典に参加し、撫順戦犯管理所における人道主義に基づく人間変革のことを知ってからでした。 中国共産党と中国政府の、侵略者日本人に対する人道主義の政策があったからこそ、私の家族は中国人に助けられ、無事日本に帰還できたことが解りました。「軍国主義は許せないが、日本人は憎んではならない、人間として尊重しなさい。」という中国政府の人間尊重の人道主義政策と中国人民の温かい心が私を救ってくれたことを知りました。そして、中国の人から「あなたたちが悪いのではない、そのようにあなたたちさせた戦争が悪いのです。」という温かい声をかけてもらえるのは人間尊重の人道主義の心が根底にあることが解りました。私はますます中国が好きになりました

私は学校で、ますます、日本の侵略戦争の残虐行為の事実や日本の加害責任、他国と平和に共存していくことの重要性を生徒たちに伝えるように努力するようになりました。そして地元、大久野島で毒ガスを製造し、中国で使用し、たくさんの中国人民を死傷者させた事実ももっと伝えなくてはならないと大久野島の毒ガス問題の勉強に力を入れるようになりました。そして、生まれ故郷の瀋陽にも早く行ってみたいと思うようになりました。丁度、そのころ、日本軍の遺棄した毒ガスが戦後50年経った現在でも中国の人たちに被害を与えているという情報を耳にし、びっくりしました。戦争はまだ終わっていないのだ。私にとっては大変心痛む情報でした。1996年8月に大久野島で毒ガス問題のシンポジューウムが行われ、そこで黒竜江省社会科学院の歩平先生が、日本軍の遺棄した毒ガスが中国で被害を出し、被害者を苦しめていることを報告されました。

私はその実情を知るには現地に行って被害者に会う必要があると考え、翌年の1997年7月中国遺棄毒ガス被害を検証する旅を行い。ハルピンとチチハルで中国の遺棄毒ガス被害者と会い、その実情を聞かせてもらいました。ハルピンは私の生まれ所ではありませんが、瀋陽に近く、戦争中、両親家族が住んでいた都市であり、自分の生まれ故郷の地をやっと踏めたという喜びを感じました。母が思い出を語っていた通り、ハルピンは落ち着いた、雰囲気の良い、きれいな街でした。ホテルの朝食で食べた餃子は紛れもなく母が作って食べさせてくれた餃子の味と同じだった。はじめて、私たちの家族とハルピンとのつながりを実感し、嬉しかった。毒ガス問題と日本の侵略による悲惨な戦争加害の歴史を学ぶ旅でしたが、私にとっては家族の思い出の詰まった哈爾濱でした。しかし、ガイドさんから、今でも、祖国日本へ帰りたくても、帰れない中国残留日本人がたくさんハルピンにおられることも知り、私の家族の引き揚げ時の苦労を思い出すとともに、私も同じ運命になったかもしれないことを考えると他人ごとには思えない複雑な気持ちが沸き上がった。

私たちの中国遺棄毒ガス被害者との交流がこの時から始まりました。この時、遺棄毒ガス被害の証言を聞かせていただいた、チチハルの李国強さんハルピンの李臣さん夫妻との交流は20年以上経った現在でも続いています。中国の被害者が日本に来たり、私たちがハルピンに出かけてお会いしたりの友好交流が続いています。

 このような友好交流を続ける中で私は両国民の信頼の育成が平和の第一歩だと確信するようになりました。

国同士が対立し、両国の人間同士が殺しあう戦争を避けるには国民と国民の信頼関係がその基礎になる。

異なる文化・異なる生活様式を相互に理解しあい、人間としての心の信頼関係を築いていくことが「平和の礎」

だと確信します。南京でも友達ができ交流を続けています。私の生まれ故郷の中国に日本が再び悲惨な戦争を

仕掛けないように、未来永劫、仲良く信頼し会えるように、草の根の日中友好交流を命ある限り、続けていき

たいと思っています。