第49次教育研究全国集会  提案内容        環境教育(歴史認識)

 

                               広島県  高等学校     山内 正之

      毒ガス工場のあった大久野島の環境汚染について考える

1・はじめに

 1996年7月、環境庁が行った調査で戦前・戦中毒ガス工場のあった広島県竹原市忠海町にあった大久野島(現在は国民休暇村で観光地となっている)の土壌の砒素汚染が表面化した。環境庁は1997年から約20億円をかけて島内の、環境基準値を大幅に超えた3カ所の砒素汚染された土壌を掘り出して洗浄する工事を行った。そして、昨年(1999年)4月、ほぼ工事は終了したとして、事実上の安全宣言ともいえる、「瀬戸内海国立公園大久野島 環境保全対策」というパンフレットを作成し、島を訪れる人に配布している。

はたして、大久野島は本当に安全な島になったといえるのだろうか。一度、大久野島を訪れたからといってすぐ砒素の被害を受けるわけではないし、いたずらに、人々に恐怖感を与えてもいけないことは、言うまでもない。しかし、国民休暇村として全国から多くの人がレジャ−に訪れ、修学旅行や遠足で多くの小・中・高生が訪れる大久野島に万が一にも人体に悪影響を及ぼす可能性のある環境汚染の要因を残してはならない。

 大久野島には世界で唯一の、化学兵器関連の資料を集めた毒ガス資料館があり、多くの外国人の学者やジャ−ナリストも訪れている。大久野島は戦争中、たくさんの毒ガスを製造し戦場に送り出した。その毒ガスは日中戦争などで多くの人々を殺傷し加害の歴史を持つ島である。再び戦争を起こしてはならない戒めとして、永久に後世に伝えていかなくてはならない大切な遺跡の存在する島である。そのような大久野島であるからこそ環境汚染のない安全な島でなければならない。しかし敗戦直後おこなわれた大久野島の毒ガス処理、戦後、何度も島内から毒ガスが発見されるたびに行われた処理は完全なものでなく、環境庁の対策は「毒ガス騒ぎ−ワンポイント調査−毒ガスの効力なし、だから心配なし、埋設工事」といったワンポイント的な対応を何度も繰り返している。

 今回の砒素汚染土壌の除去工事(1999年4月完了)も、安全と言い切れる処理ではなく工事の途中1999年3月、9個の毒ガス弾(大赤筒)が国民宿舎のすぐ前の防空壕から見つかったり、工事終了後の3か月後の8月には誰でも遊べる砂浜で3つの毒ガス弾(中赤筒)が見つかるなど、徹底的な調査・完全処理はおこなわれず、将来の大久野島の環境問題に大きな不安を残している。

 大久野島の砒素汚染の源泉は敗戦直後の毒ガスの戦後処理に起因していると考えられる。敗戦直後、大久野島の毒ガス工場に残された大量の毒ガスが周りの海に捨てられたり、島内の防空壕に埋没されている。敗戦後の毒ガス処理において砒素を原料とする赤筒など、約65万本の毒ガスが埋没されたと言われる。すなわち、戦争の産み出した有害廃棄物が大久野島の周りの海に遺棄されたり、島内に大量に埋められているのである。

 廃棄物は、人々の視界から消えていれば安全と言えるものではない。現在、産業廃棄物が人間にもたらす有害性について大きな問題になっているように、有害戦争廃棄物も、完全に処理しなければ、埋没されたままでは必ず将来また人々に害を与えることになる。環境汚染の原因となる遺棄毒ガスという有害戦争廃棄物を島内の壕から取り出してきちんと完全処理して初めて安全だと言える。現在、日本政府は、1997年に発効した化学兵器禁止条約に基づき中国に遺棄してきた70万発〜200万発と言われる遺棄毒ガス弾を掘り出し完全処理する義務を負っている。1999年7月30日、北京で日本政府は中国政府との間に「遺棄化学兵器の廃棄に関する覚書」に署名し、日本の責任で、できるだけ早く中国に遺棄している化学兵器を処理することになっている。

 しかし、日本政府は国内に遺棄されている毒ガスについては処理する姿勢がない。1995年北海道の屈斜路湖に毒ガス弾を遺棄したという証言がでてきたように敗戦時、毒ガスは日本国内のあちこちに遺棄されたと考えられる。戦争中、大久野島で造られた毒ガスは全国の部隊に配置され、敗戦後、大久野島を含め国内18カ所に保管されてあった毒ガスはGHQの指令により焼却されたり、海洋投棄されている。日本政府は化学兵器禁止条約に「1977年以前に国内に埋没された化学兵器や85年以前に海洋投棄された化学兵器は適用されない。」という規定を理由に国内の化学兵器処理には動こうとしない。しかし、この条約の規定にかかわらず国が捨てた有害戦争廃棄物を処理する義務は国にあることはいうまでもない。

 大久野島に戦後処理において大量に赤筒などの毒ガスが埋没されているという歴史的事実を知っている人は少なくなってきている。歴史の真実を、偽りなく正確に後世に伝え、大久野島が環境汚染の無い安全な島として平和と人権についての学習の場となるためにも、戦後の大久野島の毒ガス処理の問題点を明らかにし、これから考えられる環境汚染の可能性について分析し大久野島の環境問題について考えていかなくてはならない。

        

全国教研全体集会入り口にて        環境教育の分科会で提案しました。   熱心な討議がおこなわれました。

 

2・大久野島の砒素汚染の原因を探る

(1)敗戦直後、大久野島周辺に毒ガスがどのくら残されていたか

 敗戦時、大久野島とその周辺には約3200トンの毒ガスと16000発の毒ガス弾が残されていた。これは世界中の人間を殺戮できる量といわれている。国際条約で禁止されていた毒ガスはどのように処理されたのだろうか。その方法を探っていけば、現在の大久野島の砒素汚染の原因も明らかになってくる。

 大久野島の毒ガス処理を請け負って実施した帝国人絹三原工場の社史によると敗戦時の毒ガス貯蔵量は約3200トン、その内訳は以下のようであった。

   (種類)        (貯蔵量)

イペリットガス(致死濃度) 1,451 トン

ルイサイトガス(致死濃度) 824 トン

クシャミガス(呼吸困難) 958 トン 合計 3,240トン

催涙ガス(涙が激しく出る)  トン

 

(2)敗戦後大久野島に残された毒ガスはどのように処理されたか。                                 @敗戦〜進駐軍大久野島上陸(1945年10月)までの毒ガス処理

致死性の毒ガスは国際法上使用禁止になっている非人道兵器。問題化するのを恐れた日本軍部は「証拠隠滅」を命じた。進駐軍が来るまでに処理しようと機帆船に積んで近くの海に大量に遺棄したそうだ。毒ガス容器や毒ガス製造設備が1メ−トル四方に切り刻まれ海に投げ込まれたという。広島大学の生物学者の研究論文、「貝の告発」によると戦後、約数年間、投げ込まれた海域の海底には生物が生息しなかったという。島周辺の海域からは戦後多数の毒ガス容器などが漁業者の魚網にかかって引き揚げられた。

A進駐軍による毒ガス処理

 戦後の毒ガス処理は英連邦軍(オ−ストラリア軍)によって行われた。本来なら化学兵器の専門部隊で行われるべき危険な作業を毒ガスの危険を知らない民間人が行った。そのために作業に従事した多くの人が被害を受け毒ガス障害で悩まされることになった。

【毒ガス処理は三つの方法でおこなわれた】

 海洋投棄・焼却・島内埋没による処理である。帝人三原工場の社史「帝人の歩み」によるとそれぞれの方法で処理された毒ガスの数値は次のようである。

海洋投棄・・・毒液1,845トン、毒液缶7447缶、クシャミ剤9,901缶

催涙剤131缶、60キロガス弾13,272個、10キロガス弾

3,036個

焼却・・・・・毒物56トン、催涙棒2,820箱、催涙筒1,980箱

島内に埋没・・クシャミ剤(大赤筒) 65,933個

クシャミ剤(中赤筒)123,990個

 クシャミ剤(小赤筒) 44,650個

発射筒 421,980個

(A)海洋投棄による処理

イペリット・ルイサイトなど死に至らせる猛毒の毒ガスが船によって高知県の土佐沖まで運ばれ船ごと海底に沈められたり、また、別の船からは海洋に投げ込まれて遺棄された。

積み込み作業は極めて危険にもかかわらず、作業に従事した民間人は、十分にその危険性を知らされていなかった。

に毒ガスを積み込む作業 作業に従事したのは民間人 危険性を十分認識していなかった。裸で作業している人たちもいる。従業員は毒ガスに侵されることになる。

周辺地域(忠海。阿波島・大三島)

におかれていた毒ガスも大久野島

に集められ1946年5月より

毒ガス処理がおこなわれた。処理

作業は製造するより危険な作業で

あった。

  

 

 

 

 

         写真 No1

 

 

 

     写真 No2

 

 

 

猛毒のイペ

 

 

 

    写真   No3

リットガスなどは船に積んで

高知県の土佐沖まで運び海に捨てられた

大分湾・別府湾・宇部沖周防灘などにも

海洋投棄された

       

 

(B)焼却による処理

 

 

 

写真No4

       

 一部の毒ガスと毒ガス製造設備が焼却処理された。毒性を消すため工場の建物の内部も火炎放射器で焼却された。北部海岸にも焼却場があった。そこで働いていた従業員は毒ガス障害に

悩まされた。焼却した時、砒素などの毒物が

飛散した可能性は高い。そう考えると

大久野島はかなりの範囲が汚染されていると

考えられる。

毒ガス製造施設・工場・一部の毒ガスは

焼却された。その時、砒素などが飛散した

可能は十分考えられる。

(C)島内埋没による処理

毒性の弱い毒ガスである赤筒や発煙筒など

が島内の防空壕などに埋没処理された。

 

 

 

 

写真  No5

帝人社史には次の方法で毒ガスを埋没処理したと記述してある。

「クシャミ剤のような有毒姻剤が大量に残存していた。これらは大久野島所在の壕内へ埋没し、コンクリ−トで堰堤を造って密閉し、海水とさらし粉の混合物を注入してその処理をした。」

赤筒や発煙筒を壕内の奥に入れ、入口をコンクリ−トで密閉、毒の中和のためにさらし粉と海水を壕内に大量に注ぎ込んだのである。このような簡単な方法で砒素を原料とするクシャミガス(赤筒)が処理された。このような簡単な埋没処理によってもう、島内の毒ガスは薬品処

理済みであり、従って安全である。

というのが今の国(環境庁)の姿勢である。

 

大久野島の島内にはたくさんの防空壕が

あり、大量の赤筒が埋没されている。

 

 

 

 

 

 

 

写真 No6

海水とさらし粉で満たされた砒素を原料とするクシャミガス(赤筒)は50年も経過すれば容器は腐食し原料が流れ出る可能性は高い。砒素は元素であり永遠に分解されることはない、それが大久野島の地下水系に流れ込んだら大変なことになることは考えれば容易に予測できる。ちなみに、1995年から環境庁がおこなった砒素濃度検査でも、地表よりも地層4m〜5mのところから高濃度の砒素が検出されている場所もある。これは地層深く砒素がしみこんでいるからだと考えられる。 このように、大久野島の毒ガスと毒ガス製造施設の戦後処理は、その後の大久野島の環境汚染につながる可能性を持った不完全な処理であった。

 

毒ガスを壕に埋没、入口を

コンクリ−トで密閉し、

海水とさらし粉を50%

ずつ混ぜ合わせたものを

壕内に注いでいるところ。

 

 

 

写真 No7

【考えられる砒素汚染の原因】

戦後の毒ガス処理で大久野島の環境汚染に影響を及ぼしていると考えられる点は三つある。

 @毒ガス及び毒ガス施設を焼却したとき砒素などの毒物が飛散し環境を汚染している可能性がある。

 A島内の防空壕やトンネルに埋没した大量の赤筒などが腐食し土壌汚染を引き起こしさらには地下水脈に砒素など有害なものが流れ込んでいる可能性がある。

 B敗戦時、進駐軍が大久野島に来る前に日本軍の命令で証拠隠滅のため急いで、大久野島の周辺の海に投棄した毒ガス弾や毒ガス施設の残骸が海底に埋没し海底の土壌汚染を引き起こしている可能性がある。

 このように戦後の毒ガス処理の時、現在の環境汚染の原因となる可能性が残されたと考えられる。なかでも、島内に埋没された約65万個の大・中・小の赤筒はその原料に砒素が含まれている。今回の砒素による土壌汚染問題が毒ガス(赤筒)と無関係でないことはいうまでもない。環境庁は今回の砒素汚染土壌の除去工事において環境基準値の300倍以上の砒素が検出されたわずか三か所の砒素汚染された土壌のみを掘り出し洗浄して安全だとしているが、大量の赤筒を島内の防空壕に埋没させたままにしていて本当に安全とは言えない。埋没された時の様子などから考えても将来、さらに砒素などによる環境汚染の問題が生ずる可能性はきわめて高いと考えざるをえない。

3・1968年頃の毒ガス騒動・調査・処理をめぐる問題

1963年大久野島は国民休暇村となり、多数の観光客が訪れるようになった。その6年後の1969年8月 フェリ−乗り場近くの防空壕内から三個の赤筒が発見された。このニュ−スが流れると毒ガス工場の元従業員などから島内に埋没した毒ガスの悪影響を心配し、壕内の徹底調査と毒ガスの完全除去を求める声があがり、衆議院内閣委員会でも取り上げられた。当時、大久野島を管理していた厚生省も無視できなくなり1970年1月より島内の防空壕の中で毒ガスが埋没してあると思われる7カ所の壕内を自衛隊の助けを借り調査した。

 その結果、2〜3の壕内からクシャミガスの大赤筒22個・中赤筒 600個・小赤筒30個・発煙筒1000個が見つかった。厚生省は見つかった毒ガスの効力はもはや失われており、問題はないとして、再び見つかった赤筒や発煙筒を壕内に入れ、入口を土とコンクリ−ト密閉し、入口が解らないように盛土した後、樹木などを植えて外から解らなくした。そのため、再埋没した毒ガスはどこの壕に入れたか解らなくしている。厚生省は観光客など島を訪れる人の目に触れないようにし、それで大久野島の毒ガスは安全に処理したという見解をとっている。

しかし、この時の処理についてもいくつかの疑問点が浮かび上がって来る。自衛隊が、650個もの赤筒が埋没されていた防空壕を開いたとき、「壕の中にはかなりの水があり、赤筒を入れてあったと思われる箱の残骸が浮いていた。また、腐食した容器なども見られた」と新聞記事で報道している。厚生省はなぜ、これらの発見された毒ガスや発煙筒を全部、壕内から取り出して処理しなかったのか。再び埋没したのでは、安全に処理したことにはならない。毒ガスとしての効力は失っても砒素などの毒性を持つ元素が環境汚染を引き起こすことを考えていない。

また、厚生省が調査した壕は7カ所にすぎない。大久野島には50カ所以上の壕があり、敗戦時、「赤筒だけでも約65万個埋没した」という帝人社史の記録にもあるように島内にはたくさんの毒ガス弾や発煙筒がどこかの壕に埋没されていると考えられるにもかかわらず島内の全ての壕の徹底的な調査は戦後一度もおこなっていない。なぜ、行わないのか。

このような点から考えても、島内に埋没した毒ガス弾がその毒性はなくなっているかもしれないが、砒素などによる大久野島の環境汚染を引き起こしている可能性は高い。そのことが、証明されたとも言える出来事が敗戦後50年も経って生じた1996年の砒素汚染問題である。

1969年の毒ガスの発見を伝える新聞記事

 

 

 

               新聞記事 No1

4・1996年頃の砒素による土壌汚染をめぐる問題

1995年大久野島から運ばれていた毒ガスの原料が埋められていた広島市の出島で高濃度の砒素による土壌汚染が明るみに出た。出島で砒素が出るなら、大久野島も砒素汚染調査が必要との声があがり、調査が実施された。その結果、島内30カ所を調査し10カ所あまりで環境基準を上回る砒素が検出された。環境庁はそのうち環境基準値の300倍の砒素が検出されたところ三カ所のみの土壌洗浄工事を、約20億円の費用をかけて、1998年から洗浄作業に取りかかり1999年4月ほぼその工事を終えたとしている。そして事実上の安全宣言とも言える「瀬戸内海国立公園大久野島環境保全対策」というパンフレットを発行し、安全をPRしようとしている。

 しかし、なぜ300倍以上のところを基準に除去工事したのか、その根拠も明確にされていないし、もっと、調査を必要とするところは未調査のままだ。もっと除去工事を必要とするところもあると思われるのに手が着けられていない。ちなみに砒素土壌除去工事が行われた三カ所の砒素濃度は次の通りだった。

北部砲台跡・・・環境基準値の470倍の砒素を検出。

ここは毒ガス工場時代、原料に砒素を含んだ猛毒のルイサイトガスの原料タンクが置かれていた場所である。

元理材置き場・・環境基準値の310倍の砒素を検出。

ここは毒ガスを造るのに利用された化成がまなどが置かれていた場所である。

運動場西護岸・・地下4mのところから基準値の2200倍の砒素を検出。   

ここは1939年当時沈殿槽となっていたところで近くに砒素を原料とする赤筒の工場があり、ここに廃液が沈殿されていたとこ             ろである。

砒素汚染騒動の新聞記事

 

 

 

新聞記事 No2

 

 

 

 

 

5・将来の環境汚染につながる国の環境行政への疑問

 戦後、国がおこなっってきた毒ガス処理は環境問題から考えても国民が安心できるものではない。それどころかたくさんの疑問が浮かんでくる。

@大久野島で、戦後、何度も発見される毒ガス弾は何を物語っているのか。

 広島の出島で高濃度の砒素が検出されたのに伴い環境庁が大久野島の砒素汚染の状況を調査を行っている時期の1997年5月に北部海岸で赤筒の燃え残りと思われる筒状のものが35個も見つかった。また、汚染土壌の砒素除去工事を行っている最中の1999年3月に国民宿舎(久野島荘)のすぐ前の防空壕から9個の大赤筒が発見された。そして、工事がほぼ終了した3カ月後の1999年8月、今度は、誰でも立ち入ることのできる砂浜で3個の中赤筒が発見された。

 戦後、何度も毒ガス弾が発見されるということは島内にまだまだ毒ガス弾が存在することを物語っている。国(環境庁)はなぜ、島内の全ての防空壕の内部を徹底的に調査し、島内から毒ガスを完全に除去し、国民の安全を保障しないのか。

Aなぜ毒ガス工場跡など危険が予想される場所を徹底調査しないのか。

 1996年、環境庁は59地点365サンプルの土壌調査をおこなったということだが、調査すれば高濃度の砒素が検出される可能性のある、元毒ガス工場の跡など、明らかに毒性がでてきそうな所が十分調査されていない。もっと、当時働いていた人と話し合った上,危険な場所を徹底的な調査をするべきではないか。工場配置は年とともに変遷しており、環境汚染されている可能性のある場所もよく研究して行わないと的確な調査を実施したことにはならない。

B砒素以外の毒性調査を行わなくてよいのか。

今回、環境庁のおこなった検査は砒素濃度の検査であり、青酸など他の毒物の検査はおこなっていない。他の毒物によって大久野島が汚染されている可能性もあり、砒素汚染調査と合わせて他の毒性検査もおこなうべきではないか。 

C大久野島は心配ないとする国の根拠はどこにあるのか。なぜ、安全宣言を出さないのか。

国が大久野島の安全の根拠としているのは、戦後のさらし粉に海水を注いで中和するという方法で島内の毒ガスは薬品処理済みとしているところにある。しかし、今、問題になっているのは、毒ガスの効力だけではなく、毒ガスの原料である砒素による害であり有害戦争廃棄物のもたらす環境汚染と人体への影響である。「大久野島の毒ガスは毒ガスとしての効力は失われ問題ない。」と言うだけで、国は未だに国民に対して大久野島の安全宣言は出していない。

D中国の遺棄毒ガス弾は処理するのになぜ国内のは処理しないのか

化学兵器禁止条約の発効で日本政府は国外に遺棄した毒ガス兵器の処理を義務づけられている。しかし、国内に遺棄した分については1985年以前に遺棄されたものであれば処理義務が生じないことが条約に規定してある。国はこの規定や、1973年以降、人身事故の報告がないことを理由に「国内分の再調査や処理は考えていない。問題が起きれば個別に対応する」(官房総務課)と話すのみだ。これは 国民の安全を第一に考えない国の環境行政の現れである。 大久野島に約65万本埋没されている赤筒と同じ赤筒も中国では処理される予定である。外国では処理すべきものが、国内ではなぜ、処理されなくて良いのか大きな疑問である。

E 大久野島以外に、日本国内に捨てられた毒ガス処理はどうなるのか。

日本軍は敗戦当時大久野島を含め国内18カ所に保管していた。そして、GHQの命令で焼却したり、国内8カ所の海域に無毒化されないまま海洋投棄されたことが解っている。

戦前から戦中にかけて、国内のあちこちで毒ガス実験が行われていることから考えても毒ガスは全国に配備されていたと考えられる。敗戦時どのように遺棄されたかは、はっきりしていない。しかし、北海道の屈斜路湖に猛毒のイペリットガスが捨てられていたり、沖縄の壕から青酸入り毒ガス弾が発見されたことなどからも国内のあちこちに棄てられていると考えられる。それらの有害戦争廃棄物は、やがて環境汚染を引き起こすのも間違いないことである。

6・大久野島の歴史と環境問題年表

1877年 (明10):島内大江谷及び長浦地区はほとんどが田畑で官有地が点在していた。

 数軒の家族が。半農半漁で平和に暮らしていた。

1902年(明35):日露戦争に備え芸予要塞がつくられ大砲16門が設置された。

1922年(大11):大正末期、軍縮のため芸予要塞施設は整理され、軍事上の要地としての立場を失い、不況も重なって忠海町も沈滞していった。

1927年(昭2): 全国35カ所の候補地の中から毒ガス工場(東京陸軍造兵廠忠海製造所)設置が決まった。町の沈滞を払拭するためにも町民は陸軍の軍需工場の誘致に力を入れた。何が製造されるかは知らなかった。   

1929年(昭4):東京陸軍造兵廠火工廠忠海製造所(毒ガス工場)が完成、毒ガスの製造が始まった。当初、従業員は80人で専用の船便で大久野島に渡った。

1932年(昭7):大日本帝国陸地測量部編纂の地図から大久野島が消された。

1933年(昭8):満州事変も始まり、製造所の拡張工事も行われた。この年、最初の毒ガス犠牲者が出た。毒ガス製造中の事故だった。           1937年(昭12):日中戦争が始まり、毒ガス製造に拍車がかかり、毒ガスの生産量も急           上昇、中国大陸での日本軍の毒ガス使用が本格化した。

1940年(昭15):日中戦争の拡大期となり、毒ガス工場は「東京第二陸軍造兵廠忠海製造所」と改称、従業員も急増した。軍兵廠技能者養成所を設置。 

1941年(昭16):太平洋戦争が始まり、毒ガスの生産量もピ−クに達した。県内より青年が徴用されるようになった。

1942年(昭17): ル−ズベルト大統領声明出る。

「日本軍がアメリカ軍に対して毒ガスを使用したらアメリカも報復のため、毒ガスを使用する」ことを声明。

1943年(昭18): 学徒戦時動員体制確立要綱により勤労動員令がだされ、高等女学校をはじめ9校、1156人の女学生・小中学生が大久野島に動員され、空壕の穴掘りや毒物の入ったドラム缶の運搬、発煙筒や風船爆弾の気球造りに従事させられた。

1944年(昭19):7月に毒物の製造を中止、設備転換を行った。発煙筒、爆薬、 風船爆弾などが主要に造られるようになった。

1945年(昭20):8月15日大久野島の全工場の機能を停止。陸軍造兵廠は秘密を守るため、毒ガス患者カルテや写真、関係書類など一切の機密文書をこと           ごとく焼却した。

1946年(昭21): 毒ガス処理と毒ガス工場・施設の解体を帝国人絹三原工場が請け負う。英連邦軍(オ−ストラリア軍)が大久野島の毒物と施設の処理の担当であったが、化学兵器専門の将校が配属されていなかった。  

1946年(昭21):8月28日クシャミ剤のような有毒姻剤が大量に残存していたものを島内の壕内に埋没し、コンクリ−トで堰堤を造って密閉し、海水と晒粉の混合物を注入して9月18日その作業を終わった。      

1947年(昭22): 発電場・貯蔵庫の一部を残して除毒処理作業終了。連合軍司令部から大久野島を日本政府に返還。

1947年:6月に県立広島医科大学(現広島大医学部)生物学教室の松本邦夫教授が大久野島の生物生態系を調査。島の西側海岸には生物が生息していないことが解った。

1951年:1950年の朝鮮戦争勃発にともない、日米安保条約により、再び大久野島は米軍の弾薬庫として接収された。

1952年:広島大学の松本邦夫教授が大久野島の生物生態を調査、戦後7年経った今でも毒ガス工場のあった西側海岸には貝類が棲まないことが解った。

1953年:朝鮮戦争は終ったが、弾薬解体処理場として米軍が管理。

1958年:三原市内のスクラップ業者が大久野島沖で引き揚げたボンベイの解体中、青酸ガスにより、作業員と付近の住民が死亡、27名が傷害を受ける事故発生。

1963年:大久野島は国民休暇村としてオ−プン、人々の憩いの島と なり観光客が訪れるようになる。

1969年: キャンプ場の近くの防空壕で赤筒を発見、厚生省が陸上自衛隊の協力の下に調査した結果、いくつかの防空壕から毒ガスを発見、壕内にあった毒ガスを検査した結果、毒ガスとしての効力は無いと判断、再び壕内に入れ密閉。

1970年:厚生省は陸上自衛隊の協力のもとに1970年1月13日から3日間、大久野島の島内防空壕内の調査を行った。7カ所の壕内を調査した結果、大赤筒22個、      中小赤筒630個、発煙筒1000個が見つかった。            

1970年:厚生省は1970年3月5日より、見つかった毒ガス(赤筒)は毒ガスの効力は無いとして、再び埋没し、見つかった壕などの密封工事を行った。

1970年: 大久野島南沖でエビ漁をしていた漁民が毒ガスボンベを 網にかけ、中毒症状になった。このころから、度々、漁業の網に毒ガス容器がかかるようになった。

1971年:陸上自衛隊が島内に残存する旧施設爆破。作業は40日間で、自衛隊の演習も兼ねて行われた。

1972年:北部海水浴場建設工事中に毒ガス容器(腐食)二個発見。 竹原市議会が「毒ガス完全防除と毒ガス障害者援護対策の充実」を決議。市議会代表が政府に島内       一斉点検と安全宣言を出すように要請。

1973年:環境庁、防衛庁など七省で「大久野島毒ガス問題関係各省庁連絡会議」を設置全国の毒ガス処理状況調査、埋没18カ所、海洋投棄8カ所を調査した。

1984年:市会議員が資料館設立を竹原市議会で提案

1985年:大久野島毒ガス障害者慰霊碑建立

1988年:大久野島毒ガス資料館竣工

1990年:遺跡保存のための署名運動により発電場が保存されることになった。

1995年:広島市南区の出島東公園でかって 広島県が埋設した旧陸軍の毒ガス原料によ       る土壌汚染が明るみに出た。これは、広島県が1973年に埋没していたもの       で18年経って、土壌汚染を引き起こしていることが明らかになった。広島県の      責任で処理された。処理費用は実に36億5千万円、残る低濃度の汚染9千5百      トンの処理方法は決まらなかった。

1995年3月:環境庁による大久野島の砒素濃度調査始まる。

1996年7月:環境庁が大久野島の砒素濃度調査の結果を公表。土壌は島内30カ所を調査し10カ所あまりで環境基準を上回る砒素を確認した。         

1997年4月:大久野島の北部海岸で、毒ガス兵器の一種の「発射赤筒」と発煙筒の燃え残りとみられる35個の筒状のものが見つかった。環境庁山陽四国地区国立公園・野生生物事務所が分析した1個からは環境基準の36倍の砒素が検出された。

1998年10月: 環境庁の高濃度砒素汚染土壌の掘削、撤去工事始まる。

1999年3月:砒素除去工事中、国民宿舎前の防空壕跡で9個の大赤筒発見される。

1999年4月:環境庁は砒素汚染土壌の島外搬出工事の概要を説明したパンフレット「瀬戸内海国立公園大久野島感興保全対策」を作製し国民休暇村で配布を始めた。

1999年8月:北部の砂浜で市民が3個の中赤筒を発見。検査してみると、高濃度の砒素がその中に含まれているのが解った。

1999年10月:検査結果が明らかになり、市民団体が市・県・国(環境庁)に対して、島内の防空壕の徹底調査と島内の毒ガスの完全処理を求めている

7・「大久野島の環境汚染についての教材化」

テーマ:大久野島の毒ガスの歴史と環境汚染の学習

大久野島の毒ガス製造工場の歴史と毒ガス使用の歴史を学習し、現在問題になっている大久野島の土壌汚染がなぜ起こっているかについて考えさせる。

授業内容

「毒ガス島の歴史の」

「毒ガスは中国でどのように使用されたか」

「大久野島の砒素汚染問題」

実践例〔大久野島の砒素汚染問題〕

導入:VTR視聴「今よみがえる毒ガスの恐怖」テレビ朝日放送 約23分を視聴

展開:大久野島の砒素問題を取り上げた新聞記事の切り抜きを配布し、

今、大久野島の環境問題では何が問題になっているかについて説明をする。

@大久野島の毒ガスの戦後処理はどのような方法で行われたか説明。

・土佐沖などへの海洋投棄 ・島内での焼却処理 ・島内の防空壕への埋没

A 島内に埋没されている毒ガスについて学習

資料プリント:「敗戦と毒ガス処理」平和教育教材(広教組竹原支区平和教育部会編)利用。

まとめ

・大久野島の環境汚染は島内の防空壕に埋没されている毒ガスに関係があるか歴史的事実から考えてみよう。

・大久野島に一度・二度行ったといってたちまち害が及ぶことはない。砒素は長い時間をかけて徐々に人体に害を及ぼすものである。

・大久野島には今でも島内の防空壕に毒ガスが埋没されている可能性があることを考えた時大久野島の環境はどのようにすれば守れるか考えてみよう。

8・終わりに

 以上のように、大久野島は、今後も砒素汚染など環境問題が生じてくる可能性はきわめて高い。戦後の毒ガス処理の方法、1970年の処理の方法、そして1998年の砒素汚染土壌の除去作業、どれも、安全な処理が行われているとはいえない。国は心配ないと説明してきたにもかかわらず大久野島の毒ガスと環境汚染の問題は何度も発生してきた。そして、これからも環境汚染が発生する可能性を多分に持っている。

大久野島は、国民休暇村として全国から多くの観光客が訪れ、平和学習の場として、修学旅行生や遠足で多くの子どもたちが訪れる島である。その大久野島が砒素など毒物によって環境汚染されているとしたら大変なことである。

 国は「国民に安全である」と説明するが、その安全性がいかに根拠の薄い、不完全なものかは最近起こった東海村臨界事故の例をみるまでもない。原子力発電の反対運動に対し、国や電力会社は、いかに、その安全性を強調しているか。でも、現実に起こるはずのない重大な原子力事故がたびたび起こっている。それは、起こるべくして起こっているのである。

 今回の東海臨海事故には大久野島の毒ガスの戦後処理の事故といくつかの類似点もある。それは、作業する人がその危険性を十分認識しないまま作業し、事故に遭っている点である。そして危険な作業にもかかわらず専門家による慎重な作業が行われていない。さらに、その危険性を周りの住民にちゃんと知らされていない、などである。

 環境汚染をもたらす原因が島内に埋もれている以上、それは、いつか人間生活に被害をもたらすことは、はっきりしている。だからこそ、環境汚染の原因となる有害戦争廃棄物である毒ガス弾を島内から撤去し、完全処理し安全で平和な島にすべきである。

 また、このような大久野島の歴史的事実や環境問題については子どもたちには伝えていかなくてはならない。