遺棄毒ガス被害現場を訪ねる


フラルギのガス会社にて曹志勃先生の話

1987年10月16日、フラルギのガス会社が、建物の基礎を掘ると、地下から釜を掘り出した。高さは80センチぐらい、直径は40センチぐらいあった。

遺棄毒ガス缶が掘り出された現場

この建物の下から掘り出された。

その釜は南京で発見されたのとはやや違っていた。この建物の場所はもともと日本軍の守備隊だった。日本軍は撤退するときに化学兵器の毒ガスを地下に埋めた。発見した当時、工事現場の人たちは、それが何であるか分からなかった。放射能ではないかと思っていた。そこで、チチハルの第一中型機器工場付属病院の、いわゆる職業科の医者さんに鑑定してもらうことになった。李国強さん、ていさん、職業科の女の子、と4人がやってきた。その釜は密閉状態がよくて、どうしても開けられなかった。鋼を切るもので切ってサンプルを取り出した。サンプルをとっても何であるか分からなかった。工場のものではなかった。そこで、ガラスの瓶に入れて、新聞紙で包んで工場の燃料科に持ち帰った。このとき4人は毒ガスが手についた。燃料科の課長だった、王岩松さんが、鼻でかいだけど何のにおいもしなかった。燃やしたら何か分かるかと思って、新聞紙につけて燃やした。燃やしてからすぐ建物中にガスが発散してしまった。においが強く、くさくて窓から逃げる人、ドアから逃げる人もいた。掃除をする人は、火を消してトイレに置いた。手でつかんで、持っていった。その部屋にいた人たちは青が黒くなった。涙も出るし、咳も出る。呼吸もしにくかった。工場の方は被害のひどかった10数名の人を病院に行かせた。後はチチハルに駐在している解放軍防化連に引き取ってもらって鑑定してもらった。イペリットだと鑑定された。被害にあった人たちは、北京の301病院に転院して、イペリット中毒だと確かめられた。王岩松さんの被害が一番ひどかった。被毒してから彼女は働けなくなってしまった。彼女は、共産党の幹部であり、優れた労働者で、労働模範であった。優秀な労働者であった。工場に迷惑をかけないようにがんばっていた。4年前に退職願を出し、今は上海の病院にいる。工場の人の話によると、彼女の身体はもうだめになっているということだ。つぎにひどかったのは、掃除をする人だった。彼女は早くに死んでしまった。この事件はチチハルで87年に報道された。100名いじょうに被害者が出ていたが、工場は責任があるから、被毒したことが拡大されないように10数名と報道した。

李国強先生が被害を受けた中国第一重型機械集団公司の事務所にて証言を聞く

曹先生が案内して、一つの部屋に入って、被毒の状況を話そうとしたとき、一人の女性が入ってきて、「ここではない。向かいの部屋だ。」と案内してくれた。 その女性は、祖暁慧さん(45才)であった。祖さんは当時最初の部屋で仕事をしていた。

中国第一重型機械集団公司の事務所

 【 祖暁慧さんの証言 】

当時のことで知っていることを話します。

当時、この部屋は隔たりがありませんでした。窓側に机がありました。王さんが鑑定するためにこちらまで持ってきました。油か燃料か分からないから、しょうがなく、新聞紙につけて燃やしました。突然たくさんの煙がでました。濃度が濃いかった。部屋にいた人は、石さん、王さん、呉さん、李さんです。煙が出たとき、4人は部屋の外に出ました。外にいた人は、たくさんの煙で火事だと思って駆け込んできました。煙を吸い込んで、石さんと王さんが多く被毒しました。つぎの日に病院へ行きました。顔を真っ赤にして、赤いけど黒い顔でした。他の人も咳をしました。咳をしようと思っても咳が出ない、非常に苦しい感じがしていました。廊下にいた人は20名あまりでした。みんな被毒し、翌日、病院に行きました。王岩松さんは、上海の病院にいます。手先が割れています。陳さんは、食道がんで、今命が危ないです。毎日点滴をしています。石さんは、皮膚病にかかって、顔もびらんしました。呉さんは93年に肝臓がんでなくなりました。私は当時向かいの部屋で仕事をしていました。今は別のところに場所を移して仕事をしています。毒ガス弾について調べる人が来ると知ってやってきました。当時この建物で働いていた人たちはみんな被毒しました。みんな病弱で、よく病院に行きます。高い薬代もかかります。喉をやられています。今も喉の薬を飲んでいます。煙を吸った人は咳が出ます。非常にこわかったです。どんな毒ガスか知りませんでした。病院では薬がなく治療法もありませんでした。

 

 

祖さん証言はここで終わりました。立ち話で、もっとゆっくり話を聞ければよかったのですが、仕事を途中で抜けてきてまで話してくれた、祖さんに感謝するばかりです。彼女の、わざわざ、現場にまで足を運んで、私たちに当時の状況を話してくれた、祖さんの気持ちが伝わってきました。彼女をこのように苦しめる遺棄毒ガスの被害をきっと日本人に訴えたかったのだと思います。彼女も日本軍の遺棄毒ガスの被害者なのです。彼女の思いを私たちは厳しく受け止めなくてはならないと思いました。当 時この建物にいてひどく被毒した人たちの名前を教えてくれました。たくさんの人が被害を受けているとことで。廊下には、当時いっしょに働いていた人たち、今、働いている人たちでいっぱいでした。みんな祖さんの証言に熱心に聞き入っていました。前回来て李さんたちに証言を聞かせて貰った時、他にもたくさんの被害者がいるとは聞いていましたが、改めて被害の大きかったことが解りました。祖暁慧さんも日本軍の遺棄毒ガス弾の被害者です。被害現場となった事務所の建物はあまり広くない廊下を挟んで両側に部屋が並んで作られていました。おそらく、毒ガスのついた新聞紙を燃やし、煙が出た時、この狭い廊下が煙突のような役割を果たしたのでしょう、祖さんは煙を見て火事かと想ったと言っています。かなりの毒ガスの煙が出たと想像できます。前回証言を聞いた時、たくさんの人が煙を見て事務所から飛び出した。というのを聞きましたが、今回、現場を訪れてみると状況がより、はっきりと解りました。

中国第一重型機械集団公司の事務所の廊下