「2002年度毒ガス島歴史研究所記念講演」より
      

日本軍が遺棄した毒ガス及び中国人民に与えた傷害
  

            中国黒龍江省社会科学院歴史研究所 副研究員  高 暁燕

   高 暁燕 女士 
 みなさん、こんにちは、私は中国黒龍江省社会科学院歴史研究所出身の高暁燕と申します。主な研究分野は中国東北地方史と日中関係です。こんにち、日本「毒ガス島歴史研究所」の新中正晴氏の協カの下で、当時日本が毒ガスを製造していた大久野島にきて、皆様方とご―緒にこの問題を考えることができるのは、非常にうれしく思っています。

一、日本軍が毒ガス弾を遺棄した証拠は明らかです。
わたくしが初めて毒ガス弾を見たのは1992年で、私たち黒龍江省社会科学院の組織した日本軍侵略遺跡視察団は黒龍江省各地に沿って調査を行い、北部の孫呉県にある小さな丘陵で、わたくしはあたり一面に錆だらけの砲弾が散在しているのを見ました。ガイドさんから私達に「この中に毒ガス弾があります」と告げられた時、わたくしは非常に驚き、そして恐怖に変わり、この場所にいることさえも「危険だ!」と思いました。しかし吉林省敦化市の吟爾巴嶺には更に大規模集中的に埋没された化学砲弾の場所がありました。1993年1月19日、わたくしは中日両国の研究者によって構成された視察団に参加し、吉林省敦化市の吟爾巴嶺にある日本軍の毒ガス弾埋没地で調査をしました。毒ガス弾が埋没してある穴の側に「日遺毒弾埋蔵処」という石碑が建てありました。スコップで積雪をかき分けてから、そこに不揃いの形で無造作に転がっている何十本もの砲弾が現われ、砲弾は何十年も雨と風に浸蝕されて、元の鉄の色はなくなり、茶色の錆に覆われていました。しかし―部の砲弾の表面には依然として薄い灰色のワ二スが残留していて、その上に「ぴ爛性毒ガス弾」だとはっきり見ることができる黄色い標識がありました。
これらの毒ガス弾を見ると身震いする程に恐怖を感じ、その時私は大地の母 の苦しみとうめきと憤りと抗議の声が聞こえてきたようです。地元の話では、昔、山々に生息していた野性獣は、毒ガス弾が埋没されていることが原因で、段々と少なくなっていき、小動物しか残っていないそうです。この未開拓地はこうして人々がその噂をしただけで顔色が変わる死の谷となりました。
この外に、たくさんの日本軍が捨てた毒剤、毒ガス弾は地下や川の底に密かに埋没されており、情報によると日本軍が遺棄した化学兵器の場所は黒龍江省だけでも孫呉富錦、尚末、牡丹江、チチハル、ハルビン、巴彦等の地があります。例えば、元の516部隊の高橋正治と若生重作の回想の中に言及したチチハル大橋から嫩江に日本軍が密かに毒ガス弾を投げ捨てる状況は以下のとおりです。
"516部隊は秘密部隊だから、終戦前にチチハルから撤退しなければならない"・・・我々は先行部隊だから、13日の朝から毒ガス弾などをすべて嫩江と呼ばれる大きな川に投げ込み始めた・・・。私の任務は書籍などを車に積み込むことで、毒ガス弾を捨てるのには―度しか行きませんでした。橋の上から落とすのであります。" 「8月13日午前9時に命令がきました。それは、516部隊舎から車で10分ぐらいの建築班に行って、そこに弾薬庫があり、そのガス弾を車に積み込ん嫩江で妓江の橋まで運んで橋の上から落としました・・・・」
こうして密かに化学兵器を処分する方法は、降伏前の日本軍の中に普遍的に行われたやり方で、その目的は国際条約に違反した罪を最後まで必死に隠そうとする以外にありません。もう―人の元関東軍化学部訓練隊526部隊の隊員、金子時二も同様のやり方を証言しました。彼の回想によると、「部隊が撤退する直前に、私は「毒ガス弾を地下に埋めろ」という命令を受けました。私は兵士たちと―緒に大きな穴を掘った。その穴は地下7〜8メートルの深さで、かなりの重労働の作業でした。穴を掘り終わってから、私たちは毒ガス弾を次から次へと穴に投げこんで行きました。全部でどのくらいあったか分からないが二百個前後あったと思います。全部穴に投げこんだ後、土を少しずつ毒ガス弾の上にきちんとかぶせておいてから、私たちは撤退しました。」
 民間に散らばる毒ガス弾は何処にでもあります。皆さんは1995年夏にハルピン郊外で発生した砲弾爆発事件はまだ記憶に新しいことと思います。それはちょうど、皆で(全員で)「抗日戦争勝利から五十周年」を祝う準備をする真っ最中に、ハルピン市郊外で発生した日本軍の砲弾爆発事件であり,この事件によって斎広躍、斎広寺兄弟は1名死亡1名負傷となりました。
 今年春 (3月29日)私は"日本平和友好協会"の山辺悠喜子さんとともに、ハルピン市郊外にある周家鎮、三家子村で調査を行い、斎さんの家の裏の庭では、10本余りの古い砲弾がありました。村の人達はそれを手でさわりながら、「これが毒ガス弾だ、中から水音が聞こえる」と言いました。実に恐ろしい光景だ!私たちは村民たちに安全に注意するように言った。しかし彼らは「慣れっこになった。畑で作業する時、よく砲弾を掘り出すくらいだから」 私たちは、去年政府が多方面の力をまとめてハルピン市付近の日本軍が置き去りにした廃毒ガス弾の処理を行ったことを知り、地下に埋没されているこれらの殺人武器は絶えず人々の生命安全を脅かしています。

二、中国人民は無差別に被害を受け、虐げをいやという程に受けた。
わたくしは1992年から戦後に東北地方(黒龍江省を主に)で置き去りにされた毒ガス武器による傷害調査を行いました。主に11回の毒ガス傷害事件を調査し、被害者は数十人にまで及び、しかし、これはただ戦後発生した残置化学武器による傷害事件のごく―部であります。これらの毒ガスによる被害事件について、わたくしは本の中に詳細に紹介しています。ここで幾つかの問題にまとめておきます。

 1、日本軍は中国から撤退した時、中国の人民は毒ガスの恐ろしい危険性を 知らなくて多くの誤傷をもたらした。
黒龍江省河上馬場日本軍倉庫に遺棄された毒ガス弾を現地の農民が殺虫剤と勘違い使用し、何長安―家死亡、多数の負傷者を出した。
チチハル市郊外、長春地房子に旧日本軍の兵舎があり、遺棄された毒ガス弾は灯りをともす「油」と思われて各家に配られ、毒の煙りでいぶされて、(燻す)死んでしまったり、その結果皮膚に付着するとけが(傷)や傷害が残りました。 1950年8月、黒龍江省第―師範学校(チチハルにある)が校舎を建て直す時土台を掘る時に毒剤が入っている缶が2個発見されました。ある労働者はお酒だと思い、なんと―口飲んでしまい、死亡してしまいました。その後その毒剤を鑑定した時、何人かの先生が毒液に触れてしまい、ハルピン師範大学の崔教授はその被害者の―人で、今でもなお病気の苦痛に苦しめられています。私のインタピューを受ける時、彼はこのように話しました。「当時、全部で8人がけがを負った。その中で毒液を飲んだ人は口の中と舌に水泡がいっぱいに散らばり、口をあけて、大きくあえいでいた。苦痛に耐えかね、見るに忍びない程であった。その人は無残にもその日亡くなりました。」1946年、吉林省敦化地区の辺地の山の中に日本軍が捨てた砲弾はたくさんありました。黄春勝さんは山で草刈りをする時、足で地面の砲弾を蹴ってみたが、予期しないことが発生し、砲弾の先端から出てきた液体が彼の足にかかりました。川で洗っていた時に感染部は広がり、帰宅後足と背中に水泡ができ、それからただれ始めました。彼は「あの時誰もこれは何の病気かを知らなくて治療にあたる医師は―人もいませんでした。その後元日本開拓団の医者を見つけて、最後には家のほとんど全ての物を売ってお金に換え、ようやくこの命を守れた」と語りました。

2、国家建設期に人々は毒ガスの被害を受けた1970年代始め、黒龍江省にある依安、拝泉2つの県には、かって「鉄匠炉」で集めた砲弾で農作器具を作り、―人死亡、十何人もの負傷者が出たという悲惨な事件が発生しました。松花江にも毒ガス弾があり、黒龍江省航運局の河川エ事を担当する船員達はたびたび松花江から毒ガス弾を引き上げた。処理する能カがなかったから、再び河に投げるしかありませんでした。1974年10月30日に、黒龍江省航路管理局の浚渫船、紅旗09号は佳木斯市付近で河川の流れをよくするための作業を行う時、ドレッジポンプが何かの異物に塞がれて機械が停止し、故障を治すとき、既にぶつかって壊れた毒ガス弾に何人かが触れてしまい、すべての船員に程度の差はあるが中毒をもたらしました。その中で症状が比較的重い肖さん、李臣さん劉振起さんらは体に何か所も毒に感染され、皮膚に水泡、潰瘍など症状が出ました。数回の入院治療を受けたが回復するには至りませんでした。1982年7月17日、黒龍江省牡丹江市政工程処は市の光華通りで排水溝を建設(掘る)する時、地上から2,5メートル掘り下げた所に、4つの鉄製の丸い筒が見えてきて、上部はネジで閉められている開口部がついています。労働者の包培忠さんは上のネジを回した所、突然開口部から3メートル高さに液体が吹き上がり、彼の頭や顔にとび散ったり、周りにいた4名の労働者が後ろにいた時に毒液を浴びてしまい、「芥子中毒」と認定され、今日尚、重い後遺症が残っています。専門家の検査を経て毒剤筒の上の標識から日本軍が残した物だとわかりました。
1987年10月チチハル市は建設工事をする時、毒剤容器を掘り出したが検査に関与した10人余りの人が毒剤の影響を受けていました。中毒が重かった王若松、盛淑琴らは長期間治療をしたが治らなく、身も心も癒し難い傷を残しました。

3、被害者は長い間病気や苦難を耐え続けている。中国では特に農村部における農民の生活は元々裕福ではありません。もしも病気や労働力を失うようなことになると、日常の生活ができなくなります。
中国政府の各部門はできるだけ援助を与えているが、しかし彼らは永遠に健康な人々と同じように普通で楽しい生活をエンジョイする事ができません。曾て大久野島に来ていた李国強さんは1つの例です。しかし1987年の事件で重い負傷になった王岩松、盛淑琴等もそうです。拝泉県中興郷毒ガス弾の漏れにより被害を受けた李平順は、1970年5月に、砲弾を使って農具を加工する時、砲弾の中から流れ出てくる黒い毒液が彼の足にかかり水泡ができるなどの痛みが増してきました。この時そばにいた張岩、張維安らもうっかり毒液が付着してしまいました。その後北京の307病院から医者が派遣されてきました。1ケ月の治療をしてようやく好転の兆しが見え始めました。インタピューの最中李平順の右足の上に残っている傷痕を見かけました。彼に自分の被害に関してどのように思っているか、また日本政府に対して何か要求があるかについて聞いた時、彼は「日本に賠償を要求しても、私たちの思いが日本政府に届かないだろう」と深いあきらめと遺恨の表情が顔に現れていました。彼は晩年の健康状態はとても悪く、既に亡くなられましたが、周囲の人達は彼の死が1970年5月の毒ガス弾事件に関係あると思っています。もし、李平順は張岩氏がこの事件を代表として日本で賠償の告訴を行うことを知っていたら、きっと喜ばれるはずだと思います。
5月に東京に行って証言した李臣氏は被害を受けた彼は、青春時代に―生を左右される運命となり、被害を受けてから終始病気の試練との闘いでした。彼は法廷で悲しみのあまり、声にならない鳴咽の連続でした。

4、毒ガス被害事件を調査する作業は極めて困難である
現在では中国の普通の農民の生活水準はそれほど高くはないために、少々病気になっても病院へ通わないのです。従ってこの調査の事例を探すのに困難を要しました。毎回、偶然牲を伴っていました。例えば1995年に私たちは毒ガス被害者がハルビン医科大学付属病院で治療を受けていたと分かった時、私は毒ガス既往症状を出した患者あるいは被害患者のカルテがあるのではないかという気持ちで調べました。事件は1974年に発生したので、かなりの時間を経過しています。しかもカルテは昔の音声表記で書かれているので、今はもう使われていません。私は音声表記の解る人に聞いたり、また勉強したりして、調査した結果、李臣民、劉振起氏らが毒ガス被害者であることをカルテから知ることができました。この時、彼らは十何年も病気の苦しみと闘い、頑張り通してきました.自分のこの研究は「実に遅かった」という事がこの度の調査で分かり無念に思っています。この外の中毒事件は北京307病院からも分かったのです。1995年10月、私は日本千葉西病院長00令ニ先生とご―緒に、北京307病院に中毒学専門家黄韶清先生を訪ねました。その時、依安県、拝泉県の農民は廃棄された砲弾を再利用して農具を作って中毒した事件等がやっと分かるようになりました。 黒龍江省東寧県で1976年に毒剤で負傷する事件が発生し、私たちは2000年7月に事件の全容が解明されました。この事件は本に書かなかったので、ここに簡単に紹介いたします。1976年4月、東寧県の自動車会社の徐景飛氏と謝樹春氏は魚釣りが好きで、人々が山からある鉄の筒を運んできた(筒の中にlセンチ厚さの柔らかい鉛があり、熔かして釣り用の道具を作れます)鉄の筒は1メートルくらいの高さで中には1周ネジがついたのがありました。彼らはネジを取り、中の液体を出して、火で下からその筒を温め、中の鉛を取り出しました。もう1個の筒はネジがついていません。3つの大きな蓋がついていて、彼らは熔接ガンで割ろうとしました。謝樹春氏は熔接ガンで割った時、ほんの―瞬火花が出てすぐに3つの穴から3メートル以上の高さに液体が噴き出し、大きな音をたて、液体は彼の頭部と顔全体にふりかかってしまいました。油のように粘々していたので、水道水で洗っていた時目にしみこんで、彼は痛くてわめき続けた。徐景飛氏は洗ってあげた時に、手に毒が感染し、感染部に小さい水泡ができました。液体は綬陽に駐在する化学防止部隊に届け、芥子ガス毒剤と鑑定されました。
謝さんは入院後、高熱が続いて頭部は大きく腫れ上がり、鼻も唇も形が判らないくらいに膨れ、毛髪や眉毛も抜け落ちてしまい、手は腫れて分厚くなり、炎症が何日も続き体内の分泌液が滲み出して、高熱と40日余りも闘いもがき苦しんでようやく熟が下がり、入院は4ケ月の長期になりました。元々トラックの運転をしていました。今回の事件でトラック運転ができなくなり、上司は彼に乗客用車の運転をさせました。その後体の状態は日増しに悪くなる―方で、病気がちになり、乗客用車の運転もできなくなり、その後事務の仕事に配転されたが、ついに仕事ができない状態になり、50オそこそこの年齢で1993年に亡くなりました。 私は調査したのが幾つかの元日本軍遺棄毒ガス弾被害者の例だけでしたが、しかし、一連の事件の調査を通して、―人―人の苦しみから、日本軍が遺棄した化学兵器は常に中国の人々を脅かして、戦争からの災難は現在も人々から遠ざかっていないような気がします。日本軍が遺棄した化学兵器い影のように中国の大地を覆い、もし徹底的な調査と廃棄をしないと、我々に被害がつきまとい、危険におちいります。
1993年1月13日中国、日本を含める115の国はパリで「化学兵器禁止条約」に調印し、条約には10年以内に本国そして他国に捨てた化学兵器を廃棄するようにと規定しました。日本政府は近年化学兵器を遺棄した責任を認めるようになり、そして何度も謂査団を中国に派遣し調査を行い、我々はこの問題の早期解決を日本政府に期待しています。

三、感想を申し上げます
初めて大久野島に来ていますが、今回の心境は複雑です。以前人々が原爆で広島のことを知るようになった時と同じく、今日多くの中国人も毒ガス弾で、大久野島を知るようになりました。人々が巨大な毒ガス工場の排気塔の写真、隠されている毒ガスの蓄蔵地を見た時、怒りがこみあがり「これは正に毒の悪魔の誕生地であり、それらの人の命を奪う毒ガスはここから中国に運ばれて、多くの中国人民の生霊が悲惨な境遇に陥ったことをもたらしました。 私は日本の化学兵器を研究し始めた頃からこの島を知るようになり、まず、様々な資料からこの島が「大苦之島」とされ、軍事拠点から毒ガス工場までの歴史を読み取ることができた。大久野島に対する認識は村上先生の本と岡田氏(女士)の画及び歩平院長がこの島を訪れて帰ってから、私に話したこの島のイメージと感想からでした。特に毒ガス島島歴史研究所の旅行視察団が中国を訪れた時、中国人民と直接の交流を行うことによって、お互い心を通わすことができました。2001年8月21日、私は山内正之ご夫妻、新中正晴氏、松田宏明氏等ご―行と―緒にハルピンでお会いしました。最も印象に残ったのは、初めてお目にかかるのに旧知の友人のように心が交い合いました。―部の歴史問題に関する認識も共通点があり、話がはずみました。私たちが―緒に「大久野島の唄」を歌い出す時、皆さんの心は―気に固く結ばれました。別れを告げる時、名残り惜しい気持ちになりました。これはきっと私たちが共通の目的のためにがんばって、お互いが相手の支持を得ることによって、更に勇気づけられたからだと思います。
今日において、戦争の火薬の煙はすでに半世紀を散り去ったが、しかしこの戦争は中国の人々に数え切れない苦しみを与えただけではなく、日本の人々にも災難を与えた訳で、この戦争をいかに正しく認識するかは中国と日本の人々にとって重要な課題だと思います。特に私たちのような平和な時代に育てられてきた人間にとって、昔、教科書で歴史知識を習うだけでそれほど深い感性的な認識を持っていません。(日本の教科書は歴史事実を歪曲した表現であると思います)私は20何年間、中国近代史である日本の中国侵略史を研究する内に深々と認識していることがあります。それは中国人にとってこの歴史を記憶に留めるべきだということです。中国人は抗日戦争から沸き立たせた愛国精神を常にいだき、中国の経済建設が加速し、人々に裕福をもたらすことが国の理想として描かれると思います。国家が努力することで、世界情勢がどのように大きく変化しても落ち着いて対応でき、世界のあらゆる民族のなかで自立していけると願っています。日本の人にとって最も大切なことは歴史事実を正視しなければいけないことだと思います。近代において日本は中国への侵略戦争を起こし、そして自国民にも悲惨な敗戦状況に陥らせた歴史から教訓をくみとり、アジア各国と平和共存のつながりを作りあげることが中日両国に永久平和が保証される。人々の癒しとなるのは、日本の心ある人々がこのことに対して努カし続け、大久野島では歴史研究所の先生方を始めとして、戦争のもたらす傷に深い悲しみを持ち、戦争の苦しみをいやというほど被った中国人民に対して限り無く、その苦悩をともに感じ、中日両国民の友好交流に努カしていることは人々に安らぎを与える。歴史はこの島に重い過去と、島の人々に苛酷な苦しみをもたらし、戦争のひき起こす血生臭さと残酷さとを人々に深く認識させた、島にある資料館は歴史の証人として正しく見つめることができるものであり、とりわけ 陳列の中に加害者としての展示があることは勇気のあることで、大久野島の人々は歴史問題の認識を寛く大きい心でとらえていると思います。大久野島にとってもっと輝かしい平和な未来が待っているはずだと信じております。
  最後に唄でこの講演を終わりたいと思います。昨年ハルピンで毒ガス島歴史研究所一行と楽しく集うた時に「大久野島の唄」を歌いました。あの時作詞者は、私に「唄を書いた時は中国にあんなに被害者がいるとは知らなかったので、歌詞には中国に関する内容を書かなかった、今度きちんと書き直します」と言いました。私はその時、このことは私たちが共同でするべきことだと考え、私は研究結果によって、日本軍の毒ガス弾が中国、特に東北の人に与えた被害を書きました。私は作詞家ではないので、必ずしも適切な歌詞とは言えませんが、単に参考までにしてください。     
 
       罪悪的な毒ガスと大久野島の歌

かって歴史の先生が言うのを聞いた
深々と記憶の中に残されている。
第二次世界大戦まる十五年、
東北の人々は日本の奴隷のように酷使され尽くした。

日本軍の中国に対する侵略戦争の時、
なんと禁止されたはずの毒ガス弾を使った。
大久野島から密かに運ばれ、
神秘的な516部隊により武器に変身された。

あおくつやつやとした緑色の作物は突如枯れはてて、
生き生きとした農夫も訳もわからずに死んでいく。
無数の同胞が毒害に悲惨なめに会い、
罪悪の源はすべて化学兵器の「演習」からである。

戦後のこの平和の時代の中で、
毒の悪魔の亡霊は未だに去っていない。
河川の作業中に毒ガス弾にあたり、
建設現場で毒剤を掘り出した。

悲惨な殺傷事件が次から次ぎへと起きていき、
無罪な人々が悲しく泣いている。
若い命が欲しいままに危害を加えられ、
幸せな生活が毒ガス弾によって凡て失った。

平和を愛する人々は全一致団結して、
侵略戦争に対し、正義を求める。
控訴はいかなる困難があっても、
全世界の人々に忘れないことである。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          

        記念講演会で講演する高 暁燕先生 2002年6月9日