旧日本軍の山西省における毒ガス戦の罪悪についての

現地調査記録

黒龍江省社会科学院課題組整理

 

 一、

日付:1999年8月20日11時15分

場所:山西省定襄県白村鎮上零山村

被取材人:張亮宝  男性  77歳

     趙引根  女性  77歳

     梁金枝  女性  76歳

     張 生  男性  70歳

張亮宝の述べたこと:

  私が上零山村にいる一人の農家で張亮宝と申します、今年で77歳です。私が19歳の時のことです、当時の村の民団隊(民兵)の隊長を担当しました。1941年農暦の正月の十一日、朝食を食べたばかりで、ごく少ない村民しかまだ食事がすまないうちに、村のあちこちに銃声が響き広がって来て、村の村民のほとんどが皆、東と南のほうへ逃げまた。少し逃げ遅れた村民はすでに村に入った敵に見られたので、逃げてしまうと敵の発砲を恐れまして、逃げるのを止めて、停まりました。村に入ったのは日本鬼子3人と傀儡軍40人あまりで、傀儡軍の半分は村のあちこちで物を物色して奪いました。残っている半分は村の小学校(今は村の役場に変わる)に入り、会議を開くという名目で村の逃げ遅れた男女を小学校の教室に押し集めました。中には70,80歳ぐらいの老人もいるし10何歳の子供もいます、合わせて80人ぐらいです。二人の日本軍が防毒マスクを被っていて、一人の日本軍が機関銃を持っていました。教室の面積は幅一丈5、6(計量単位で、3,5メートルで)ぐらいで、長さが7,8メートルぐらいで、奥までの距離が3メートル、奥には高さ2尺(計量単位、0,63メートル)ぐらいのオンドルがあり、男性がオンドルの上に追い押されました。そして日本軍は銃剣を村民の前で振って、皆をぎりぎりまで押し詰めさせました。次に女が押し集められました、床にぎっしり詰まりました。傀儡軍たちが防毒マスクを被らないままに皆、外の空き地に(今の村役場)立っていた。学校の庭にいる三人の日本軍の一人が機関銃で南へ乱射した。防毒マスクを被った二人の日本軍のうち一人はこれぐらい高さ、これぐらい太さ(長さ1尺ぐらい、小さい茶碗の太さ)の円筒状のものを上から抉じ開けて火をつけました。それは現在使っている砲弾のようなものでした。開け口があり、円筒の色は灰色で白っぽく見えました。火をつけてしばらくして、二つのちょっと大きい部屋から黒い煙が立ち昇り、天井までまた沈んできて、すぐに、天地共に暗くなり人々がぎっしり抱きつめて、互いにも見えなくなったり、毒ガスの煙で喉が詰まったり咳したりくしゃみが出たりしました。日本軍が門を閉め、外で守っていました。しばらくすると中の人々が我慢できなくて、オンドルにいた窓の手前に立った三毛という老人が年よりで、窓から外の新鮮空気を吸おうとしたところ、二人の日本軍が銃剣で左右に差し込んで、老人は怖くて、頭を引っ込めました。時間の立つにつれて中の人々が煙に我慢できなくなって、押し合い圧し合いをしたため、窓が壊れ、一部分の人は壁が倒れるように窓の外によろめきながら転げ出ました。中の張二万という昔に旧制中学校に通ったことのある人が傀儡軍隊長に「馬鹿な張存根!われわれを煙毒で殺したいか!」と言うと、傀儡軍隊長の張存根が前へ出て、張二万の腰を銃剣で刺し込んだ。村の初めての犠牲者は張二万です。その日から3,5日内にわれわれの400人近くの村にはその事件で46人が死亡した、二人が捕まえられて、頭を斬られた。張銀根という人も当時この部屋に追い押されて煙にやられて、この窓からよろめき出ました。西側の棟を下へ行くと薪ぎを置くところで、そこに40人の傀儡軍の立っているのを見て、張さんは逆に南西のほうへ逃げて、後ろの傀儡軍たちが銃でパンパン乱射したが、当たらなかったのです。学校から降りた日本軍の射撃で張さんの右腕に銃弾が三個当たり、転んで倒れた。一人の傀儡軍が前に来て確認して‘もう死んでしまった’と言ったため、張さんが命を拾った。一人の日本軍が一匹のロバを射撃したあと、また犬を乱射した、銃の中の銃弾を空に発射した。そのあとは彼は敵をつれて北のほうへ行った。話によると、彼は班長で北村と言います。大体の経過は以上です。当時の風俗で、正月にはよく親戚回りします。教室に押し詰められた80人の村民の中には外の村から親族を訪ねた人もいます。燻されて殺された村民は46人ぐらいで、抓られて殺されたのは二人で、梁金枝さんの旦那さんは其の中の一人でした。梁金枝さん自身も毒の煙に燻されました。日本軍がこの村で毒ガスを施した理由は多分、県の抗日中隊が本村で二泊泊まったからだろうと考えられます。だから今度の暴行は報復です、村から18里(9キロ)には日本軍の拠点があります。

梁金枝の述べたこと:

 日本人が来たら、一戸一戸を捜査します。当時私のうちは五人家族で、父は朝早く娘のところへ遊びに行きました。旦那は張万歳と言います。23歳で、良民証明書を持たないため(当時、良民証は十銭で買えますが、張万歳は貧乏で、買えない)八路軍ではないかの容疑で日本軍に捕まりました。母は救おうとしましたが、殴られたり刺されたりして、自分の母を助けるために隣のドアを叩き人を呼びまました。そのあと、私と姑(名前は薬枝と言います)と母が教室に押し詰められました。会議と言われて子供を連れた人は入れません、ドアを閉めた時には二人の村民が自分の子供を捨てて入りました。私が中に入った時にはもう人がいっぱい、80人ぐらいで、傀儡軍が銃を持って銃剣で村民を奥に詰めました。準備が終わると二人の日本軍は防毒マスクを被って、砲弾みたいな丸い筒を回りに撒き始めました。しばらくして、三つの煙の柱が昇りあがって天地ともに暗くなっていて何も見えなくなった。オンドルに立った人が泣き始めた。私は小さいベットに座ったため小袖で口に防いだ。我慢できない人は自分の着物、ズボンなどを脱いで頭を蒙り、「これは毒だ」と誰がいったのか覚えていないが、オンドルの上にいる人は倒れたひとが出て、倒れ重ねて前の人が一生懸命に出ようとしたが、敵の銃剣が目の前に舞っていて出られません。その時の私の胸には針に刺されるような感じで、早く死んだほうが良いという苦しみです。たくさんの人が倒れたのを見た日本軍は、皆、死んだと思って、撤退しました。倒れた人の中で意識のある人が教室を出て、水がめを見つけ、水汲む容器がないから、みんな手で、顔と頭に塗った。私の妹は出て一口血を吐いてからすぐに亡くなった。私は教室から這って出て、汚物をたくさん吐きました。血も吐いた。その時から二ヶ月ぐらい話せませんでした。三年間、石炭タールの匂いは嗅げませんでした。旦那は県の中隊に運んだ後十何日も審問されて殺されました。今度の事件は、私の家への傷害は一番大きかったです

 張宝亮の述べたこと: 其の日、日本人がやったのは窒素ガスです。その時には催涙ガス、くしゃみガス、中毒ガス、窒素ガス、糜爛ガスなどがあります。糜爛ガスを防ぐには服しか蒙らないです。今度やったのは窒素ガスです、その時に石雲(人の名前)の二人の御兄さんが被毒された途端に倒れたままでは呼吸できますが、座らせると息切れがしました。

 張 生の述べたこと: 元の学校はもう20年前には壊したのです。もともとの構造は東の部屋は6棟で、正面の部屋は5棟で、西側には3棟があります。当時私が12歳で、みずから体験したのです窒素ガスで、私のおばあさん、叔父、叔母は教室の中で亡くなったのです。

 趙引根の述べたこと: 私の家族7人が被毒しました。だんな、叔母、妹、兄二人、二人の兄嫁、酷かったのは男性のほうで、旦那は洗面器四杯ぐらいの黒い血を吐いた。

 ニ、

日付:1999年8月20日16時50分

場所:山西省定襄県城郊王進村131号

被取材人:李書林  男性  83歳

李書林の述べたこと:

 1937年に日本人が定襄県城を占領した、王進村には住めなかった、定襄県城の城壁に大砲を築いただけで、興県というところに駐屯した。(閻錫山)の新ニ師が師走には私たちの村に来た。一つの営隊に当たり五六百人ぐらいです。翌年の四月五日[農暦]に、村に一群の日本人が焼き尽くしたり殺したりしに来た。七日に村に入ったときには崔家堡というところの保安隊の抵抗があって、日本人は村ごとに焼き尽くし始めた。四五百棟の建物が焼かれた。50人が殺された。北西梁に着くと村の奥には新ニ師が北西部に竜門村から(南)崔家荘[北]まで一本の塹壕を掘った。夜に掘った物で、人手が足りないため、五台家というところの人も呼んで来た。日本人が来た前には村に泊まって掘ったのです。塹壕の底幅は4.5メートルで、うえには6メートルぐらいで、深さは3メートルぐらいで、長さは20キロぐらいです。中には隠蔽部があり、底にも刺す機関を設計した。8月七日(農暦)日本の飛行機が五台のほうから飛んできた。空中で一日偵察した。翌日(西暦10月1日)未明に日本人がやって来た、遠くで閻錫山の新ニ軍と戦った、銃弾の音が遠くから伝えて激しかったらしい。営隊の本部は村の役場には設けて、機関銃などがあって、援助隊がいないらしいです。日本人は攻め込めなかったため、撤退した。しばらくして日本人がまた攻撃を始めた。もう太陽が上がった時で、農家の私たちは怖くて逃げてしまった。父と村はずれに逃げ出ると一人の村民に会った。毒ガスを撒き、嗅ぐとたいへんで、方法としては早く排尿して男女問わずに頭を尿の中に浸っていると死なないと教えてくれました。まもなく(爆弾が爆発して出た灰色の煙)雲みたいな煙が漂ってきました。臭いを嗅ぐと唐辛子のような匂いで辛くて、嘔吐し吐いたのは 黄色い汚物でした。話によるとそれは唐辛子のガスで、実際は毒ガスでした。新ニ軍が宣伝したようにその辛くてぴりぴりとする泪が出てくしゃみのでる煙は毒ガスで、尿で衣類を湿させ口と鼻を塞ぎ防毒します。煙の色は灰色で、面積は大きかった。王進村の上空を蒙り、新ニ軍の死傷が酷かった。兵士は中毒されて戦闘力を失い、日本軍に活きたままに刺されて死亡した人は多かった。村は日本軍に占領された、村民の大半が早々逃げてしまったため、死んだ村民は少ない。李善義という60歳の村民が中毒して亡くなった。毒煙は二時間ぐらい持続して散った。中毒した人は黄色い水をたくさん吐きました。翌年、村にある木は芽生えできなかった。(資料記載によるとこのむらの作戦は八路軍と日本軍です、李書林さんの話しによると八路軍が来たことはない、そして陣地戦もしない)

 三、

日付:1999年8月21日午前

場所:山西省楡社県第8中学校旧跡考察

1940年に百団作戦際には八路軍と日本軍がこの辺りで激戦があり、日本軍が毒ガスを使った。

 

四、

日付:1999年8月21日午前

場所:山西省楡社県河峪鎮輝教村

被取材人:孟明全  男性  75歳

     白守銀  男性  71歳

     何潤四  男性  72歳

     石友傑  男性  71歳(元の村共産党支部書紀)

     石新華  男性  65歳

以上の五人の話を総括して纏めます:

 1938年に日本軍が飛行機で小村へ毒を撒いたことがあります。200人が中毒されて、その数は村の人口の半分を占めています。以下は上記5人の話しを纏めたものです。当時の輝教村には人口が400人ぐらいで、90戸(棟)です。日本軍が中国に侵略してから、日本人が毎年、何回も来る。普通は夏、秋、年末頃に来ます。多い時は一つの営隊で、少ない時は一つの連隊です。来るたびに三光政策を実施し、村には20人ぐらいが殺された。建物は一棟しか残っていない。ある日、日本軍が北から村に発砲する、山崗に望んでから村へ3発発砲した、第一発は村の芝居の舞台に当たり、二発は山越にある門を壊した、八路軍が東側にいて皆蹲って爆弾が爆発すると這って隠蔽します。爆弾の鉄かけらは空中に飛び跳ねて地上の埃を巻き込まれた。発砲した後、なんの動きもないことを見て、日本軍は帰った。われわれは当時みんな逃げてしまって日本人が去って行った後に戻ったのです。 1938年の秋には日本軍の飛行機が飛んできた。そのときに雨が降ったと村民が思った。その後(7〜8日間)村の村民の中に症状が出た。小さい水泡が出て痒くて痛み、水泡から黄色い農水が流れた。200人が中毒して村の半分を占めています。八路軍が村と村はずれの山頂に泊まったことがあったため、日本軍が飛行機で毒を撒いたと思います。飛行機は太谷のほうから飛んできたのです。時間は正午前後で、三機で低く飛行した、ジェト機みたいなやり方で、霧が立ちこむ感じで雨が降ったように見えますが、雨ではなくて煙で何かの匂いが伴って噎せた。当時嗅いだがあまり感じなかったが飛行機が行ってから、二人の中毒のもっとも酷い人に症状が出た。一人は腫れ物みたいなできものが出て、一人は癩病みたいな節が出た。当時この二種類の症状で、中毒された人が多かった。十人の中に八、九人がかかった。それに伝染します、症状のない人はある人とちょっと接触したら伝染される。初期には赤色でしばらく黒色に変わり、指でほじくると農水が出て、腫れます。農薬中毒らしいです、われわれは皆かかったことがあります、村全体は300人ぐらいかかった、一家全員がかかったこともあります。あまり治療しないで、治るまでに我慢している、それで死んだ人がいるかどうかはわかりませんでした、死んでもなんの病気で亡くなるのは知らないから、李眉成という人が水疱が出て動けなくなる、日本人が来て、八路軍として生きたままに殺された。水疱が出て一番酷いのは糜爛で鼻がなくなった。纏めて見ますと輝教村は共産党が指導している根拠地で、維持村ではなくて、村には民兵組織もあります。そのため日本人が始めて来てから毎年3回来る、正月などの祝日にはよく奪いに来ます。日本人が来る時には挙げた札、叫ぶスローガン、たとえば三光政策など幼いときからよく分かります。日本軍が最後に来たのは1939年か1940年かはっきり覚えていないが春にちがいないです。村の牛と羊を奪い尽くし太谷城に運びました。(山西省史志研究院の趙健先生が村民の話しを少し説明した、彼は私の目で見れば、二種類の状況が混じっている。飛行機で毒を撒いた、その毒が村民の衣類についた。夜着物を脱いだ時に身体についたため、慢性中毒した。瘡をかくというのはそれは不衛生で起こしたで、発砲したときは進攻と毒を施すのではない。飛行機が去ってから霧みたいなものは多分毒剤でしょうと述べました。

 五、

日付:1999年8月22日午前10時50分

場所:山西省武郷県漆樹坡村

被取材人:武来水  男性  77歳

     李晋仙  女性  74歳

武来水が述べたこと:

 1943年農暦6月15日未明、日本軍が漆樹坡を襲った。当時私は16歳で、村の民兵でもあり、私の村のあたりには古い根拠地で、日本軍がよく掃討作戦に来ます。八路軍の路南事務所は村に駐屯します。姜一という人が政治委員を担当し(後の湖北省委員会書紀)、私が軍に入ったときにも彼と一緒でした。私が1945年の正月に解放軍に入ったのです。1956年に村に戻り、軍の生涯は11年間でした。漆樹坡の洞窟保護作戦のことを覚えています。私たちのやり方は雀作戦ということですなわちすこし戦ってまた場所を変わります、敵がここにいれば、わたしたちはあそこへ移動します。鬼ごっこみたいなゲリラ作戦です。洞穴保護作戦の日には東側にある洞穴に60人ぐらいの捕虜(スパイ、傀儡軍)を拘禁したため、彼らを転移しなければならない、上級の命令で西側には敵の進攻を引き伸ばすため、西側の洞穴を必死に守らなければならないということとなります。守る洞窟の大きさは四、五十人が入れるぐらいで、私のいる組は12人です。日本人が来たと分かれば、皆洞穴に潜り、日本軍は洞窟に入れないため、穴の外で待ち、間に合わない時は布団などに火をつけて燃えさせた。その煙を洞窟の中へ煽り立てる。洞窟の中のわたしたちは噎せて我慢できなくて、穴の連結通路を経て隣の洞窟に入った。その通路をフェルトで防いで土をまいて隔てた。日本軍がそれを見つけて洞窟の対面にある小山には大砲を二つ築き、十二、三発発砲した、洞窟の入り口は崩れされて土が落ちた、中に生き埋めにされた。わたしたちは意識を失い、窒息した。後で洞窟の入り口は整理され、空気が入って、ようやく意識が戻った。日本軍はわれわれを中からひっぱって壁下に置いた。村民が皆あそこに座り込んで、ひっぱられた人が何もわからないままに七人が殺された。残っている3人は沁県へ捕まえられた。途中で南庁で一人を殺した。もう一人は中毒が酷くて眼が覚めなかった、私は敵の不注意で逃げた。靴を履く暇もないため、足をあらわにして、刺すにも感じなかった。見張りの民兵は日本軍の爆弾で崩された洞窟の土に埋められて死んだ、彼の母は穴を出て日本軍に願いして息子を救おうとしたが、爆発されて死んだ。その民兵の妻は三日前に出産したばかりで、身体がだるくて砲弾の煙で燻かれて死んだ。

 六、

日付:1999年8月22日午後

場所:山西省襄垣県西営鎮(1938年から1942年までの日本軍が西営における毒ガス作戦の状況を了解した)

被取材人:任国宝(任さんの父は1954年に行われた日本戦犯を裁判した際には出て証言した)

任国宝の述べたこと:

 当時、日本軍の侵略を避けるために、村の村民は皆、地下洞窟を掘ります。何戸合作して掘るとかいろんな種類があります。自分の家の庭に掘る人もいるし井戸の下で掘る人もいます。私の家の地洞は父が元の窯を利用して掘ったもので、隠れたのは家族と親戚だけです。韓柄生という村の人が捕虜となって案内して見つかったのです。日本軍は洞窟へ毒ガスを放った。洞窟は二階に分けて、上への通路は防がれたため、上にいる人は燻されなかった。下にいる人はたくさん死んだ。中には私の兄である任光宝(二歳)、姉である任小愛(一歳)もいます。兄と姉が死んだあとに私が生まれたのです。話しによると当時に被毒した人はふらふらとよろめく、頭を下げて黄色い水を吐く、子供は即時、死亡した。案内の韓さんが洞窟に入ると燻されて死んだ。毒ガスのことをたくさん聴きましたが、詳しいことは分かりません。

  1954年に政府の最高裁判所の人が調査に来た時には父は証言した。

 七、

日付:1999年8月23日9時45分

場所:山西省左権県桐峪鎮武軍寺村

被取材人:李海寛  男性  70歳

     王金永  男性  70歳

     趙乃雲  男性  75歳

     王恩換  男性  62歳

皆さんの述べたこと:

  抗日戦争の時には武軍寺は八路軍本部の所在地で、膨徳懐さんがここに泊まった事があります。そのため日本人がよく掃討作戦に来ます、年間3回ぐらいで、夏、秋、師走頃。敵が強いから日本軍が来ると八路軍が撤退する。何年のことかもう忘れたが自分が十五、六歳の時に(李海寛さんの記憶で)ちょうど農暦師走頃にあたり、日本軍が来た、八路軍が撤退した、村民は皆、山奥へ逃げてしまった、何の収穫もない日本軍は村民が栽培している麻を燃やした。燃えない分には毒を撒いた。村民が村に戻ると毒を撒いたものに手を付くと水疱が出ます。しばらくして腫れます。糜爛性と言います。十何人が被毒した。ニ猪(本名:趙柄成)、姜小蛋、小P(本名:王喜来)などがいます。大人が先に村に戻ったのです、子供は後にもどった。八路軍が戻った時には毒のついたものを焼却したり消毒したりした。毒ガスをやったのは1942年の農暦師走ごろで、日本軍が村民によい正月を過ごさせないつもりで、毒ガスを撒いた。被毒した人の手と腕と腹には水疱が出て腫れて糜爛面も大きかった。八路軍が戻ると防毒マスクを被って焼却して消毒します。八路軍の衛生隊が村に駐屯したため、村民がそれは糜爛性毒ガスであることを知った。八路軍のお陰で適当に手当てを受けたため、死亡者が出てこない、中毒者は一、二ヶ月あとに治された、傷跡が残した。村の当時の人口は400人ぐらいで、中毒して水疱が出たのは十なん人ぐらいで、八路軍が村に戻るとそれを見て毒のついたものを触れない措置を取った。多分日本軍が村の中幾つかの良い建物、寺には八路軍のリーダが住めるところで、かれらを毒したい企図だと思います。膨徳懐司令はその時に私の家に泊まった。生活用具に毒を撒いたが、先に戻ったのは村民たちで、食事する時などには被毒した。膨徳懐司令が村に戻った時には部隊がすでに消毒した。部隊の中には中毒したことも二回ぐらいあった。井戸の中に毒を撒いたのも見つかった。日本軍が来た。わたしたちが山の上に逃げた、山穴に住めないで林の中に泊まります。日本軍も山に上がったこともあります。ある日、山の溝に日本軍が入った、山頂の辺りで一人が見つかり、二戸の村民を探した。10人ぐらいはいずれも殺された。日本軍が来た時にはなにも分からない子供がたくさん死んだ。大人のことはわかりませんから、泣きます。泣き声は日本軍を招くことを心配して子供を自分の懐中に押さえます、日本軍を招くよりむしろ自分の子供を死ぬまで覆う。われわれは年間3、4回山奥へ逃げます、抗日八年間だと24回ぐらいになります。日本軍が年間何回も来たこともあります、5月には小麦の収穫や秋の収穫など祝日はもっと酷い、いい正月を過ごさせないですよ、奪い尽してから運べないものを焼いたり殺したりして、村民はそのことを言うと今も憎みます。民兵たちが土製の銃で日本軍を射た、日本人が逆に村民を捕まえて殴ったり殺したりします。この村には八路軍の一つの団が駐屯していて、八路軍の戦略は敵が進攻するとわれわれが後退するということで、抵抗できない時には山へ隠れる、村民たちは酷い目にあった。私の叔父の趙五四が日本人も人間でなぜわたしたちを虐めたという文句を言っただけで、日本軍に捕まえられて黎城で殺された。彼は趙乃雲と言います。いまは耳が遠くて聞こえない、18,9歳の際には民兵に参加した、日本人に捕まえられて殴られて銃剣で刺された。その人は趙柄元と言います。当時日本軍に後ろから銃剣の練習にされて、うまを飼う水池に落とされたが、民兵が見つけてくれたので死ななかった。

 八、

日付:1999年8月24日午前

場所:山西省黎城県東涯底鎮

被取材人:粟京徳  男性  68歳

粟さんの述べたこと:

  私はもともと黄涯洞の辺りに住でいます。この辺りは古い根拠地で、柳溝、黄煙洞、蘇姑屯は八路軍の秘密の兵器製作所でした、八路軍が上記の所で武器を製造します。柳溝は主に手榴弾を、黄煙洞は何でも作る。生産した銃は朱徳造と言います、その時の工芸過程というとまず黄煙洞で手榴弾、砲弾を取り外して、柳溝で組立てて、蘇姑屯では品質審査をして終わり、主に取り外すのは迫撃砲弾です。当時、日本軍が路城県、左権県に駐屯して年間3回掃討に来ます。日本軍が黄涯洞を攻め込む際にはわたしがまだ小さくて山の上にいますが民兵に入る資格はありません。叔父は民兵です、日本軍が黄煙洞を攻め込んで占領したのは40日間後のことで、日本軍が使う武器は迫撃砲です。日軍が黎城を避けて西京から武郷によって、左輝という邪道から攻め込んだ。その坂には一つのトチカンがあったが、守らずに敵に後ろから攻め入った。この辺りの山は絶壁で攻め込んだ敵との戦いで犠牲者がたくさん出た。ここの記念碑は最後まで戦った降伏しないで山から飛び降りた兵士の慰霊碑です。発砲の時には灰色の煙が上がり、黄涯洞の入り口まで届ける、洞窟の口が小さいから砲弾が回りの岩に当たった。遠くで匂いが嗅げない。南陌村という所には18人が窯の中に燻されて亡くなったことを聴いたことがあります。臭い砲を聞いたことが有る。日本軍が来ると臭い砲を発射するそうです。

 九、

日付:1999年8月24日午前

場所:山西省黎城県東涯底鎮下赤峪村

被取材人:張書香  男性  76歳

張書香さんの述べたこと:

  我家は子々孫々が山奥に住む山民で、当時の砲兵本部は山の上にあります。団長は朝鮮人で、武亭といいます。八路軍は1939年から黄涯洞にて兵器製作所を設けたのです。当時の共産党の六回目の大会では策定した抗日根拠地に小形の兵器製作所を作ろうという呼びかけに応じたものです。われわれ解放区で小さい鉄の砲、馬の尾という弾、程子堅造などの武器を製造します。従業員は1000人ぐらいで、黄涯洞で一年生産した武器は16の団を装備できます。日本軍が黄涯洞を攻め込む際には、私は18歳で民兵でした。第一回目の進攻は1940年農暦9月24日で、日本軍が2000人ぐらい来ました。十五夜が過ぎると8月16日の午後四時ごろに飛行機がやって来て、製作所のうえに反動宣伝のビラを撒きました。当時は百団作戦が熱狂していて、作戦能力のある部隊が皆、百団作戦に参加しました。黄涯洞への関は敵に攻め破れ、日本軍が工場を焼きました。そのあとにはまた製作所を作り、武器の製造も回復しました。1941年農暦9月23日に5000人ぐらいの日本軍がまた黄涯洞を攻めに来ました。今度は飛行機がない、八路軍兵士が山の上から馬の尾の弾を投げ出して、日本軍は後退して、地雷区域に誘導されて、200人が死にました。今度の作戦を讃える歌を今も覚えています。歌詞は下記の通りです。太行山には八路軍がいり日本鬼子を滅びるため日本鬼子の掃討作戦に地雷で200人を爆発し侵略者が方向なし逃げた。東洋鬼子が掃討に来てあちこち八路軍に敗れ  八路と民兵の大勝利で鬼子が路城鎮に怖くて閉じ恐れ第二回の戦いには私がいた、まず地雷で日本軍を200人ぐらい爆発した。当時の連長は膨志海といいます。とても勇敢な人です。敵がなかなか攻め込めないで、大砲で射撃して、われわれが山口の中へ後退しながら山の峰から馬の尾の弾を投げます。日本軍が14個の山砲(迫撃砲)を下の山塞に架けて、桃花寨を砲撃する、最後には山砲で噴火器や焼夷弾や毒ガス弾を発射した。それが私は自ら見えた。特に噴火器というものは燃える様子が遠くに見える。毒ガス弾の場合には尿でタオルを浸って口に防ぐ。噴火の防ぐは転がるしかないみたいです。けがした兵士を見た。様子が見えないほど焼かれた。日本軍が桃花寨を占めた後に北西へ猛攻して、営の本部を破った、われわれがやむ得ずに撤退した、今度の作戦はとても悲壮でした。毒ガスについては当時でも知っています。武郷の栓馬というところには当時臨時病院が設けて、1942年あそこへ傷員を運んだことがあります、一人の傷員の身体には黒いと黄色い傷物があったのを見た。黄煙洞窟を守る団長である欧子富さん(広西ちわん族)は一日中に二回被毒されたそうです。 

 十、

日付:1999年8月25日午後

場所:山西省沁源県城関北石渠村

被取材人:任明水  男性 

任明水さんの述べたこと:

 1942年、私が13歳のことでした。日本軍が来るそうで、村の村民が皆、隠れに行った、我家も村から一里(0,5キロ)の南にある木炭溝の隠蔽の天然洞窟に逃げた。洞窟の口は地面から3メートルぐらいで、大きさは一人が潜れる幅です。農暦9月13日、日本軍が来てから帰らないで、城関、交口、に駐屯した。城関は村から十キロぐらいで、日本軍が連続四日間で掃討にきます、昨年、日本軍の掃討には叔父が捕まえられて戻らなかった。父はお爺、叔母、叔父の家の妹二人、私などの世話して逃げられないで、日本軍が2、3日しか駐屯しないと聴いて、ちょっと隠れて日本人が去るとすぐ戻るというつもりです。われわれは全部で14人で、この日、昼食を食べるため、5人が出た、残っているのは9人です、午後4時頃、日が沈んでいる時に4,5人の日本軍が来た。銃剣を持って同じ服を着て日本語を話す、来ると無目標で発射して、洞窟の下につないでいる驢馬がそれで鳴いた、洞窟は日本軍に見つかった。穴の口は地面に3メートルだから、梯子でないと登れないで、銃弾ニ発、後に驢馬が死んだらしい鳴かなくなった。洞窟の中にいるわたしたちは外が見えない、その途端に煙が揚がり洞窟に入ってきた。息切れされて泪が流れ、咳をかく、噎せて我慢できなくなり、お爺は年寄りで噎せられて先に飛び出て、母と叔母は次々に出て、私と姑も出た。8歳と14歳の従姉妹は父にベルト(帯革)で吊ってもらって降りられた、降りてから家族の大半は横になるままに起きられなかった。お爺はずっと這ったままです。その時、日本軍が傍にいなかったが、父と叔父が梯子を置き、降りようとしている時には日本軍が戻った。父は梯子を洞窟に収めた、日本軍が早く降りろと命令したが、父と叔父が怖くて出なかった。母が下で降りてくださいと呼んため、父が梯子を出して置く時に梯子が倒れて日本軍にぶつかった、日本軍が(マスクを被らないまま)洞窟に二つの白い円筒のものを入れた、毒ガスで燻すつもりでした。始めの時にはお爺は布団で頭を蒙って噎せられて我慢できなくて洞窟から出た。今度は、父と叔父の息の声がだんだん切れて後には何も聞こえなかった。その時、日本軍とわたしたちが下に立っっていた。日本軍が銃剣を舞いながら八路で八路でと叫ぶ、われわれが手を振って良民良民ですと答え、われわれは殺されなかった。夜9時頃に日本軍が去った。母は洞窟に上がって日本軍が離れた、降りてくださいと呼びますが、中には応じなかった。死んだと皆、予想して村に帰った。お爺は毒煙でその日まもなく死んだ。父は任新勝と言います、当時に37歳です、叔父は崔長関と言います、35歳です。その洞窟の中の匂いがなかなか散らないで一ヶ月後も人が入れないです、翌年の清明にわれわれが父と叔父の死体を整理に行きました、死体はもう腐っっていた。

 

十一、

日付:1999年8月26日午前

場所:山西省沁源県韓洪鎮韓洪村

被取材人:段世昌  男性  79歳(前村の共産党支部書紀)

     楊金生  男性  82歳

述べたこと:

 1941年秋に日本軍が廃棄した炭坑の中へ毒ガスをやった。韓洪村の180人の抗日民衆が犠牲になった。それを記念する永志亭が建てられた。百団作戦の時には日本軍が太行山に大掃討作戦を行い、1941年農暦8月17日に八路軍に帰属する煤窯溝で八路軍太行指揮部(38団)が廃棄した炭坑に綿、干し唐辛子などを預けている。日本軍が来た時、村民と抗日幹部が隠れるところがないため、廃棄した炭坑に入った。日本軍がまだ運ばない綿と唐辛子を燃えさせて炭坑の中へ煙を煽り立てる、炭坑の前にいる人がほとんど死んだ。炭坑の奥にいる人が生きているのもいます、200人あまり入ったが生き出たのは70〜80人ぐらいです。いま生きている楊愛生という人がいます、身体がもう駄目で半身不遂です。私がその時には別のところに住みます、話しによろと張成江という人はかれの息子がもと村長でした、当時燻されて死んでいない、日本軍が去ってから炭坑の中にある馬屁泡というものを(キノコの一種類で、薬用止血に効く)盗もうとしたため、見つかって銃殺された。1948年には私は村の共産党支部書紀でした。1941年農暦10月に日本軍が進攻して来た。韓洪村の外れにある山に十何日駐屯した。毎日山中へ入って人を探す、村に一キロにある桃卜寨に来た時には1個古い炭坑が見つけた。炭坑の中には村の村民40人ぐらい、民兵3人、洪兆部隊の兵士3人が中に隠れていました。朝7,8時ごろ七人の日本軍が来た。彼らは片方のてで手で照明の蝋燭を持ちながら片方の手で銃剣を持ち、出て行け、恐れないでと叫び風向口の所から炭坑に入った。石炭を輸送する通路に隠れた村民たちが40人出ました。わたしたち3人の民兵と洪兆部隊の兵士が一番奥に隠れて、着るものも村民と違い、手榴弾を早く埋めて通風口に隠れて出なかった。炭坑の入り口にいた日本軍は恐れて入らないで、臭い砲弾を発射した。当時には哀しくて死ねない、生きられない感じで、鼻汁をたらし泪が流れ30分間ぐらい意識があった、その時に人が死んでいない。夜は塔金寺で二日間泊まり、昼間には日本軍が山のあちこちへ人を捕まえ、3人の兵士は韓洪へ戻った。われわれ民兵3人は山瀬に昼食を食べる。ある日、日本軍が来た、老人とこどもを放った、若者だけを捕まえた、中の二人が焼かれて死んだ。一人は宋麻子という人でもう一人は韓来鎖と言います。ガソリンを二人の身体に撒いて燃やしたのです。二人の子供は一人が指導員で、一人が民兵隊長です。

                           −終わりー