日本軍による平頂山虐殺事件

    平頂山惨案跡地紀念館   案内  金 花順 女士

 

  〜2000年9月 撫順戦犯管理所開設五十周年記念友好訪中団の旅より〜          

平頂山村殉難同胞遺骨記念館です。

 1932916日に,日本軍国主義者がすすんでおこなった平頂山虐殺現場です。そして,現在記念館が建っているところが当時の虐殺現場です。その時,日本兵隊は,平頂山村の人々を全部この虐殺現場で殺した後,死体を全部埋めたのでした。そして,この記念館は,当時の虐殺現場から遺骨を発掘した後,遺骨をそのままにしておいて,その上で記念館を建てたのです。そして,中のところが当時の虐殺現場です。やはりこれは,そのときの平頂山村の模型ですが,看板の立っているところが今の記念館が建っているところです。虐殺現場です。この山(模型の山を指差して)は,前のあの山(実際の今の山を指差して)です。 その時,この詳解によると,この虐殺現場を見ると西側はまわりは全部高い山でした。その時,日本兵隊が山を崩して死体を埋めたので,今のようにこの山が低くなったそうです。その時はこの山は,高い山だったそうです。北側,つまり記念館の後ろのところは,日本人宿泊所があって鉄条網がはってありました。東側と南側に日本の兵隊が全部機関銃をおいていて,村の人々はその時どこからも逃げるすきがなかったそうです。その時,平頂山村はこの記念館の東側に位置していました。やはりこの記念館の東側ですが,記念館からこの村までの距離は100mほどで近いです。あとでこの山の上で見るとはっきり見えます。今は工場が建っています。その時,この平頂山村にだいたい800件ほどの家があって,500世帯3000人ほどの人口が住んでいました。中のだいぶんは炭鉱で働いている炭鉱労働者か,また炭鉱労働者の家族の農民がだいぶぶんでした。もちろん村の人たちのそのときの生活水準は低いけれど,村の人たちも家族一緒で家族の愛もある一緒の生活を過ごしていました。もちろん私たちと同じように幸せな生活を作ろうとして,一生懸命に働いていました。でもこのような権利もその時日本軍によって奪われたのでした。この事件が起こった時間は柳条湖事件の一周年の頃です。やっぱり満州事変の1周年の頃で,1932916日です。この事件の経由は,毎年1周年に合わせて撫順地方を日本軍の手から奪い返すとの目的で,我が東北地方の李しゅんじゅんが率いる民主抗日自衛隊が,この1周年に合わせてこの8月・9月に入ってから撫順地方に担拠している日本軍に対して,全面的な攻撃をおこなったのでした。また,9月中旬に入って抗日義勇軍の主力軍が撫順地方の日本軍に対して,主な攻撃をおこなうとの情報を日本軍が頻繁に受けたのでした。そして,日本軍は9月中旬に入って,前からこの炭鉱の周りの村の人たちに,抗日義勇軍の行動を知っている人は前もって日本軍に報告するものだと何回も知らせたのでした。

 915日,毛暦819日の夜,抗日義勇軍の主力軍が南から侵攻しました。途中で,平頂山村を経由して,今の露天堀のところに位置している日本人が経営している炭鉱所を襲撃して炭鉱所所長を始めとする日本人を5人殺していくつもの炭鉱所の設備を壊して,製品を造ることがことができない程大きな損害を与えた後,翌日の朝,抗日義勇軍は撤退した。そして,今度の攻撃を受けた日本軍は,この事件に報復するためその時中国人民の抗日運動を弾圧するために,義勇軍が撤退した後に撫順地方の日本守備隊隊長,憲兵隊隊長を始めとしてすぐに緊急秘密会議を開いて「夕べ平頂山村の人々が,抗日義勇軍をかくまった。村の人たちは前もって抗日義勇軍の行動することを知っているのに,一人もこの事件を日本軍に報告しなかった。ということは,村の人々が抗日義勇軍と通じている。」このような汚名を着せて,周りの村に対して見せしめるために、この会議で平頂山村の人を虐殺する計画を立てたのでした。そして会議の後で撫順地方の日本守備隊,憲兵隊,警察など出頭して朝から平頂山村を包囲しました。詳解によると,日本兵隊は先ず平頂山村の人たちに「全部の記念写真をとってあげますから,村の人たちは全部ここに集めてください。周りでたくさんの演習がありますから村の人たちは全部ここに集めてください。」とのいろいろな名目で人々を集めました。でもこのような名目で3000人くらいの人々を自分で決めた時間のうちの中で集めることができなかったので,後は全部武装した日本軍兵士が出頭して村の家を一つひとつ検査して村の人たちをついに追い詰めたのでした。 詳解によると,その時、早く行くことができない老人や病気で起きることができない人は途中で殺されたそうです。その時にも村の人たちは,日本軍が虐殺するなんてことは全然思っていなかったそうです。村の人たちはとてもよくないことに気がついたので,家から大切だと思っているものを持って,着物とか布団・お金を持って大切だと思っているものをたくさん持って,家族一緒にこの虐殺現場に集まっていました。 

 詳解によると,その時周りで日本軍兵隊が機関銃を置いていましたが,機関銃の上を日本の兵隊が黒い布でかぶしていたので,村の人たちの大半は機関銃を見たことがなかったので,これが撮影機ではないかと思っていたそうです。この時,全部ここへ集めた後,日本の兵隊が先ず村の家に火をつけ始めた時,気がついた村の人たちが騒いでいました。包囲を突破しようとしている人もいました。その時  一人の日本軍指導者が手で一声の命令と一緒に黒い布が取られて持ち出した機関銃で射撃を始めたのです。この機関銃の連射は1時間ほど続いた後,村の人たちは全部この虐殺現場で倒れたのですが,詳解によるとその時もまだたくさんの人が生き残っていたそうです。そうして村の人たちが全部家族一緒にここに集まってきたので,この機関銃の掃射が始まるとき,たくさんの大人は自分の体で自分の家族や子どもを下でかばっていました。そして,下でかばっているたくさんの人がまだ生き残っていました。日本兵隊は,この生き残っている人を発見した後は,銃剣や拳銃や軍刀をもって再び虐殺現場に戻って,今度は南からずっと北へ,北からずっと南へ死体を一つひとつ検査しました。そして,死んでいる人も生き残っている人も女の人も子どもにもかかわらず,銃剣で突き刺したり,軍刀で切ったりしてもっとも残忍な虐殺を行いました。そのため,今の骨池の中でも完全な遺骨が見られなかったのでした。その時,ここから逃げ延びた張ちゅうりんさんの思い出話によると,その時張さんは11歳でしたが張さんのお母さんは銃殺された後,張さんを下でかばって倒れました。張さんの体には,お母さんの体から流れていた脳みそや血でいっぱいでした。その第2回目の虐殺をする時,日本兵隊が銃剣を持ってきたのですが,張さんが血でいっぱいなので死んでいるのかと思って,再び突き刺さなかったので,幸いに生き延びたのでした。ここから逃げ延びた生存者の照会によると,その時も何も分からない子どもも自分の家族の体の下から這い出て「母さん,母さん。」と探している子どももいましたが,日本兵隊はこのような子どもさえも残らず銃剣で突き刺して空中まであげて,遠くまで放り投げ捨てました。もっと残忍なことは,日本兵隊は銃剣で妊娠している女性のおなかを銃剣で突き刺して,おなかの胎児を刺したとしました。このような極めてひどい虐殺の中でまだたくさんの人がなくなりました。でもその夜,日本兵隊が虐殺した後日本兵隊が帰った後,奇跡的に生き残った人たちがその夜ここから逃げ延びたのですが,そのときの国民党の新聞の記録によると生存者はたった130人ぐらいだと記録しました。でも解放後で私たちの調査で探し出したのは,36人以上です。この36人は,全部自分が経験したことを記録に残したのです。日本兵隊は,村の人々を全部殺した後,そのときの世界各国人民の譴責(けんせき)をさけるために,翌日の朝、ガソリンを持ってきて周りは全部死体でしたが,この死体を一緒に中で積み上げた後,この上でガソリンをかけて死体を燃やしたのでした。でも,このような方法で死体を全部隠すことができなかったので,あとはダイナマイトで前の山を崩して死体を深く埋めたのでした。埋めた後の厚さは,たった4mほどです。そして,この記念館は,解放後で我が戦軍は平頂山村殉難同胞遺骨記念館にするために,若者たちを教育するために1969年の終わりから虐殺現場から遺骨を発掘した後,遺骨をそのままにおいてその上に記念館を建てたのでした。建てたのは1972年です。

 その時ここで殺された平頂山村の人々は3000人ぐらいですけど,日本の兵隊がガソリンをかけて燃やしたので発掘するとき発見しましたが,もっと上の遺骨はもう焼き払ったのでした。そして,上の一層の灰を除いた後,今の骨池の表の遺骨ですが,この表の遺骨は中のぶんだけで800くらいです。この事件が起こった時間はちょうど中秋節ですから,平頂山村の子どもたちが食べながらもってきたもの月餅などがたくさん発掘されました。村の人たちが持ってきたものなどもたくさん発掘されました。2000件以上です。このように日本軍国主義者が撫順でおこなった大きな出来事は,中国人民の反対ばかりでなく,日本人を含む世界各国人民の反対が起きました。侵略戦争を反対し,世界平和を守り,このようなことを再び繰り返さないように両国人民は一緒にがんばっていこうと私たちは信じています。

 では,みなさん中に入って虐殺現場をご覧ください。

 (みんなで黙祷の後虐殺現場を見る) 

 あの遺骨は頭の後ろのところで日本軍刀で斬った傷跡がそのままに残っています。

これは,村の人たちが使ったお盆ですが,詳解によると日本の兵隊が村を包囲した後,ある家族はご飯を食べている途中で,ですからご飯を食べながらここに持ってきたわけです。このことは,その時村の人々は日本兵隊が虐殺するなんて全然思っていなかったことを説明しています。

 村の人たちが持ってきた着物とか残されたのです。そして農具なども発掘されたのですが,ある人が働いていく途中にここに持ってきた農具ではないかと思います。

 発掘するときに発見しましたが,あの人の足の骨が曲がっていますね。だから,障害者だと分かりました。このようにして,この時日本兵隊は障害者も残らず全部殺したことが説明できます。

 あれもみんな焼き残された遺骨です。

 遺骨がここからたくさん発掘されたのですが,ここ一平方の面積の中で8人の遺骨を発掘したと説明しました。そして このようなところにまだ下にも遺骨がいっぱいあります。この薪なども死体を燃やすために一緒に持ってきた薪です。あそこの目覚まし時計なども村の人たちがもってきたものです。

 この人は髪の毛がまだ残っています。女性だと分かります。そしてこの人のおなかの下からもまだ子どもがいます。

 この人も銃弾された後逃げようとして,這い出ている姿そのままです。

 三つ重なっている遺骨は典型的な家族の遺骨です。下の遺骨は小さい遺骨だから子どもの遺骨だと分かります。中の遺骨は髪の毛はまだ少し残っていて女性の遺骨です。そしてこれは男性の遺骨です。子どもをお母さんが上でそしてその上をまたお父さんが保護している遺骨です。典型的な家族の遺骨です。

 あそこの遺骨も母と子の遺骨です。お母さんが子どもをかばっているのがわかります。・・・・・・・・・

 

テキスト ボックス: