陳

                      張

 I  身分関係

  私は張岩といいます。今年53歳で、家は中国黒竜江省拝泉県龍泉鎮にあります。もともと龍泉鎮の政府機関に勤めておりましたが、199910月健康上の理由から定年前に離職し、現在無職です。 私は、イぺリット毒ガス弾の被害者です。受傷からすでに27年経ちました。受傷の経過は以下のとおりです。

 2  事故の発生

  19765月、ある日の午前中、私はそのころ自分の家があった衛生村で農業に携わっておりました。手押し車の溶接をしようと思って村の中にある鉄工場、小炉(鉄匠炉)に行きました。 見ると鍛冶職人たちが鉄鋸を使って、ちょうど砲弾を切っているところでした。この砲弾は廃鉄場から持ってきたものです。高さは約780センチメートル、直径は約20センチメートルくらいでした。当時よく職人たちは使わなくなった占い砲弾を回収して、のこぎりで解体し中の薬を取り出し、砲弾の外側の鉄の部分を使って刃物類を作っていました。砲弾の鉄は質が良いため、とりわけ鋭利な刃物ができます。事故が起きた時は、鍛冶職人の郭四彬、李平順の二人が座って鉄鋸を引いていました。 二人の疲れた様子を見て交替しましょうと申し出ましたら、郭四彬が私に場所を譲り鉄鋸をどうやって使うか教えてくれました。しばらく引いた後、鼻にっくにおのある黒褐色の液体が砲弾の中から出てきました。そこにいる人たちはみんなマスタードのような鼻をつくにおいにむせて息がっけませんでした。その時はみな、これは使わなくなった占い砲弾の中の火薬が効力を失い変質し水になったのだろうと思い、気にもとめずのこぎりを引き続けました。私はのどがひりひりし、涙が出、胸が苦しくむせて体が動かず、手押し車の溶接もせずにそのまま急いで家に帰りました。 その後、鍛冶職人たちはマスクと手袋をして、砲弾を麻袋でくるみ、縄で縛って木で持ち上げて、付近の池にこの薬液を捨てました。

3  傷害の発生と治療状況

 その日の午後、私は、左手甲と右足甲が赤くなり、かゆくなりました。夜になって、吐き気、めまいが起き、のどが痛みひりひりし、胸が苦しく、咳が出ましだ。左手甲、右足甲がかゆくなって、そして灼熱痛が出ました。翌日、小さな水泡が出、やけどの時のような灼熱痛がありました。 この時、のこぎりを引いていた郭四彬、李平順、そして学校に行く途中それを見いた張維安(11)らがみな私と同じ症状であるということを聞きました。そして、私がのこぎりを引いた砲弾が化学毒ガス弾であることがわかりました。しかし、どのような毒ガスかはわかりませんでした。あとになって怖くなったわけです。もし砲弾が爆発して、いたらどんなひどい目に遭っていたことでしょう。幸いなことに私たちは外傷を負っただけですみました。私と郭四彬、李平順はみな片方の手と片方の足を受傷し、張維安は足のみ受傷しました。私たちの傷の状態は、どんどん重くなり、小さな水疱が大きくなってやがてつながり、それが破れた後は黄色い水が出てきて徐々に腐り始めました。 私たちは事故後数日は病院に行って注射を打ち、薬をつけることができました。しかしその後は靴も履けず手足は痛みで動かせなくなり、病院の医者に往診に来てもらって治療を受げるしかできなくなりました。 化学兵器による傷害など県内でこれまであったためしがなく、村の医者は治療方法もねからず、普通のやけどと同じように食塩水で洗い、やけど用の軟膏を塗り、通常通り炎症を止めるための注射と点滴を打ちました。しかし、半月治療したにもかかわらず、症状はますますひどくなり、傷口はさらに爛れて深くなりました。一番ひどい部位は、腐って骨が出るほどになりました。村や鎮や県の病院の医者は手の施しようがなくなりました。私は本当に絶望し、きっと体が腐って死んでしまうだろうと思いました。 深刻な事態となったこの時、私たち4人の中で最も若い張維安の父親が残った毒液を小瓶に入れて、チチハル市に持って行きました。(私たちの県はチチハル市の管轄です。)そして彼の親戚を通して市政府、さらに駐留軍の防化連隊に照会してもらうことができました。また彼らを通して北京の関連部門にも照会がかない北京の307病院の黄照教授に来ていただいて、治療をしてもらいました。関連き門によるこの毒液の化学検査を経て、黄教授が患部の状況を検査し、これはイべリットガスの化学爆弾であると判断されました。黄教授が持って来た専用の薬で治療し、患部の悪化を抑えました。黄教授はI週間にわたり自ら診察治療をしてくれ、北京に戻りました。村の医者は黄教授の置いていった軟膏で教授の治療方法にのっとって治療し、こうして我々4人は徐々に良くなっていったのです。そして年末までには働けるまでに回復しました。30日間の寝たきりの状態の後、前後合わせて560日でやっと良くなりました。

4  損害

 私は普通の中国人民で、この平和な環境の中で成人になりました。しかし戦後30年余り過ぎてなお、戦時中遺棄された毒ガス爆弾により被害を受けました。私は罪もないのに不幸です。今回のイへリットガスによる被害は私の心身に大きな傷害を与えました。 第―に精神上の傷害です。受傷後私は焦り、恐れ、絶望で満たされ痛みにさいなまれ、筆舌に尽くしがたい精神的痛苦をなめさせられました。始終緊張状態を強いられ、傷が治っても神経衰弱が残りました。 第二は肉体上の傷害です。傷口は治療を経て徐々に全快に向かいましたが、ずっと正常を回復するには至りませんでした。風、水、冷えに弱く、ちよっと冷えるとひりひり痛みました。イへリットガスの刺激は気管に損傷を与え、20年余りにわたって胸、息が苦しく、咳や喘息を起こしました。今日までに我々4人のうち郭四彬と李平順の2人が気管と肺の病気を患い相次いで亡くなっています。(郭は肺ガ ン、李は気管支炎と肺気腫でした)。まだ60歳前でした。私と張雑安も気管を患 い、明三にでも郭匹彬や李手順のようになるのではという恐れがあります。 三番目は経済上の被害です。被害を受げてからあちこち医者を尋ね病院を探して治療し、その医療費は2000元余りにもなります。我が家は経済的に苦しく、ほとんどの費用は親戚友人から借りました。良くなってからも多額の借金が残り、ほとんど破産状態になりました。受傷後I年余りは働くことができず収入もありませんでした,私は家の稼ぎ手だったので我が家は困窮をきわめました。20年余り気館  損傷により疾病にとりつかれ、毎年医療費は2,3千元かかりました。病気がちな体質は仕事に影響を及ぼし、199910月定年を待たず退職しましたが、その時の月給は300元余りしかなく、経済的に大きな損失を蒙りました。ただの一 度受けた傷が終身の被害を与えることになってしまったわけです。 四番目は家族に対する被害です。娘は197655日生まれですので、彼女が生まれてしばらくして私が毒ガス爆弾で受傷したことになります。妻は出産直後で人の世話を受けており、私の症状も深刻だったので看護が必要でした。兄と弟は毎日私のために医者を探しにかけまわり、薬を買っては与え注射をし、私の看護にあたりました。結婚前の3人の妹は毎日私の食事の世話と看護をし、妻の面倒も見なげればなりませんでした。60歳近い高齢の母は昼夜分かたず私につきそって見守り、薬を塗っては傷の様子を見てくれました。家族は私の痛苦と焦りをともにし、―刻も早く私の苦しみを抑え傷を治すために奔走し苦労しました。―人の被害が家族全員を不安に陥れたわけです。イぺリットガスの化学爆弾による傷害は、私の心に永遠に消せない暗い影を落とし、生涯にわたる被害を残しましだ。

5  日本政府に対する要求

 イぺリットガス爆弾の被害者として次の2つの要求があります。何の罪もない中国の被害者に対し、日本政府が公に詫びて謝罪することを要求いたします。2  イぺリットガス爆弾が我々に与えた精神上、経済上、肉体上の被害に対する経済的な賠償を日本政府に要求いたします。