陳述書

           李国強

                     2002年3月22日東京地方裁判所第103号法廷にて

1・身上・経歴

  私は李国強といいます。194988日に農民の子として生まれました。住所は中国黒竜江省チチハル市富拉尓基(フラルキ)区鉄西8街区819号です。 妻と二人の子供の4人家族です。1974年に妻と結婚し、そして翌1975年に 長男が、1979年に長女が出生しました。  1968年に兵隊になり、そこの衛生学校で知識を得て、退役後1972年から1974 年までチチハル医学学院で勉強をしました。卒業後1974年に中国第―重型機械 集団公司医院に就職しました。中国第―重型機械集団公司という会社は工作機 の部品を主に作っていて、ごく一部は大砲のような兵器を作っているようです。 社員は約2万人の会社です。私がいる病院はその会社のグループの病院です。 私の専門は工業衛生といって、社員の職業にかかわる病気を診断しています。会社では製造の過程でいろいろな化学物質や放射線を使っていますから中毒が 生じます。ですから化学成分による病気や放射線被害を主に治療していました。  中国の医師資格は、主任医師(「教授」)副主任医師(「副教授」)主治医(「主管医師」)医師医士となっていて、軍隊にいた1969年に医士になり、 そして、1974年に医師になりましたが、その後主治医師(「主管医師」)になり ました。  私は、1987年に毒ガスをあび被害に遭いました。  私は、毒ガス被害者として、貴裁判所に損害賠償の提訴をしました。

2・毒ガス缶の発見と現場での検査 

  19871016日ノン江(ノンコウ)から1kmも離れていない果竜江省チチハル市富拉亦基(フラルキ)区興隆街の富区煤気公司(フラルキ区ガス会社)ので、ガスのガス貯蔵庫を設置する基礎工事のために穴をシャべルで掘っているときに、鉄製の缶が発見され、発見者が公安局へ電話をしたそうです。 なお、この缶が発見された場所は、戦争中には鉄条網に囲まれた日本軍の軍施設があったところで、缶の発見された場所には昔大きな穴があったということです。 また、この発見場所から北に約3km強のところには、日本軍の関東軍の526部隊の駐屯地があったところで、今でもその跡は残っているそうです。526部隊は毒ガス戦の訓練をしていた部隊だとのことです。そして、1017日午前9時頃、私は、チチハル市富拉示基(フラルキ)図安局から「へんなものを見つけたので来てくれ。発見された缶が放射線物質の可能性があると心配だから調べてくれ」と電話を受けました。私は、放射線調べることができる機械をもっていて操作もできるので連絡がきたのです。私がいたところと工事現場は結構離れていて、おそらく3km位の距離があったと思いますが、いろいろな準備もあって午前U時頃には工事現場に到着しました。 工事現場に行ったったのは7人です。(自分・李国強、医者・鄭超、職場公安・宋文勝、主任,王維亜。実験員,王建麗、放射線技師・梢湛、公安・歴鳳林)。会社から、自分と医者、職業病防治科の主任、検査をする人、技師、会社の警備員の6人、公安局からI人の合計7人です。 工事現場に着いたときは、鉄製の缶はもう掘り起こされていて庭に置かれていました。缶はつでした。錆びた鉄製の缶で、数日後に防化部隊が計ったところによれば直径5Om、高さ90cm、重さはIOOkg位で大変重く、二重の蓋がついていて、側面の上と下に黄色の線がI本ずつ計2本ありました。缶の周りには柵などはありませんでした。私は、放射線の反応を調べる小さな機械を2台持っていきました。―台はα・β線に反応する機械であり、もう―台はァ、口線に反応する機械です。そして、そのいずれの機械で缶を調べてみましたが、どちらも放射線反応はありませんでした。また、王建麗が化学物質の検査用具をいろいろ持っていたので、その用具でも調べましたが、何の反応もありませんでした。 王維亜主任が「あまりしっかり密閉しているので測定できないのではないか」と言いました。そこで、タ食を食べてから、私と王維亜主任でスパナでボルトをはずし、蓋を開けました。ボルトは16個ぐらいあったと思いまず。午後8時か9時くらいだったと思います。雨が降っていてあまりはっきりとは分からなかったが、缶の中から緑っぽい煙が出てきました。雨が降っていたので煙はあまり上まで上りませんでした。私は、缶からm位の距離にいて機械で検査をしました。煙をかいだら、少し気持ちが悪くなり咳がでましたが、それでも機械で検査を続けました。しかし、何の反応もありませんでした。 そこで、私と王維亜主任は、さらに缶を傾けて中に入っていた液を会社に持ち帰って検査をするために近くの家からもらってきたガラス瓶に移し替えました。しょうゆのような褐色で油のような液体が出てきました。移し替える際、目頭近くの鼻のところに液体がかかってしまったようで、目にものが入ったようで辛くてたまりませんでした。2OOcc位ガラス瓶に入れて、ビ二−ルで蓋をして私が会社に持って帰りました。持って帰るとき芥子のような二ンニクのようなにおいがしました。今まで嗅いだことのないようなにおいでした。会社に着いたのは、午後9時か10時くらいでした。

3・病院と会社での検査

 翌日の1018日、会社で実験室の係の人に毒物の検査をしてもらいましたが、反応が全くありませんでした。液体が何なのか分かりませんでした。 その間、目が赤く腫れて視界が悪くなり、手の甲の親指から人差し指にかけて水泡ができ、心臓がどきどきしてきて、呼吸困難になりました。測定器で調べても液体の正体が分からなかったので、何かの油かと思いました。すると、王維亜主任が中国第―重型機械集団公司の供応処化工建材料(油化科)のところへ持っていって調べてもらうようにと言ったので、私は看護婦孫月樺と2人で持っていきました。そこは、もうI人の原告の王岩松さんが働いていた職場ですが、油などを供給する科で、油や機材が置いてあるので液体の正体が分かると思ったのでしょう。そこの科の王暁峰さんが、まず、床に瓶を置いて臭いを嗅ぎました。また、林友華さんが瓶の中の液体を指につけたりしましたが、すぐに石鹸で洗いました。そして、林友華さんは燃えれば油だと言って小さな紙に液体をつけて火をつけましたが、あまり燃えませんでした。今度は、王暁峰さんが新聞紙を丸めたものに液体をしみこませて火をつけました。すると煙が出て、その煙をかいだらすぐに呼吸ができなくなって苦しくなり、私はすぐ窓から飛び出し外へ逃げました。部屋には私を入れて78人いたと思います。そこで出た煙でさらに症状が悪化しました。目が真っ赤になり、強い光はまぶしくて見ることができなくなりました。呼吸困難になり咳が出ました。私以外の人も皆同じような被害に遭いました。 こうして、職場での被害は拡大していき、大変なことになりました。

4・毒ガスと判明

 そこで、3日日の1019日には、院長が人民解放軍防化部隊にその液体を調べてもらうことにしたのです。そして、防化部隊の人が来て、いろいろと調べてくれた結果、日本軍が遺棄した毒ガスの液体だということが分かりました。

5.治療・入院

私は、1019日に自分の病院の職業病科に入院しましたが、20日頃防化部隊の人から、私が持ってきた液体が毒ガスの液体だと知らされました。病院にはチチハルの人民解放軍の野戦病院の化学兵器による傷病の治療で有名な関慶祥先生が来て治療に当たってくださいました。33日問入院しました。治療は、大変呼吸困難だったので吸入器をつけ酸素を吸い込んでいました,それから薬で目や手を洗浄しました。薬を飲んだり点滴を受けたりしました。3週間くらいたって少し良くなってきました。呼吸が前よりは楽になりました。退院してからも、特に呼吸困難や咳の症状は残り、現在も治療は続いています。

6・病院のカルテ

人民解放軍の医者、関慶祥が19871027日に診断書を書いてくれました。この先生は特別に呼ばれて病院に来てもらったそうです。先生の診断書の内容は以下のとおりです。 19871017日午前10時に毒物に接触して、顔の部分と右手のところに 火傷がありました。その後相次いで、休全体がだるく無カ感があり、頭痛、めまい、不眠、精神不安、視力が弱くなり、4日間の呼吸困難になり、軽い熱がでました。調べた結果、意識ははっきりしているが、時には咳がでる、顔部及ぴ右手に点在している水ぶくれの水がなくなり硬くなったあとがあります。診断の結果、肺には雑音がありました。呼吸器に損傷があり皮膚に火傷がある。マスタ−ド弾の中毒である。意見―入院して病症に応じて治療を受けること

7・退院後の生活

 退院後、呼吸困難はすこし良くなりましたが、視カは落ち、手のただれ、水泡のあと、息苦しさは残りました。免疫カが低下しているためか、階段を昇るのがきつくなり、体がだるく、咳もひどく出るので妻とは別の部屋で寝ています。咳がひどく出て妻が眠れなくなり、翌日の仕事ができなくなってしまうからです。妻は、教師をしていました。当然、医者としての仕事にも支障がありました。毒ガスのせいでこのような状況になった私に対し、妻はよく理解してくれ私を精神的にも経済的にも支えてくれました。また、当時私のの子は、12歳と8歳という年齢で、父親と遊びたい年頃であっだにもかかたらず、私は子どもたちと一緒に遊ぶことができず、妻が子供たちの面倒も良く見てくれましこのような妻の理解と支援がなかったら、私は自殺していだかもしれません。私は定年にならないうちに、199950歳で仕事を辞めました。体の関係で普通の時間通りに行くことができず、欠勤や遅刻は平均月45日ありました。持に病院が人員を減らしているところだったので辞めざるを得ませんでした。退職時の給料は基本給の640元を含め月額約800元でしたが、定年前に辞めさ"るを得なかったので、現在の収入は、基本給の50%320元しかありません。定年まで勤めた普通の人の三分の―くらいにしかなりません。またこの毒ガスによる中毒は、工場が出した毒ではないとの理由で公傷、労働災害と認められませんでした。公傷、労働災害でしたらもとの給料の85%を保証きれるのです医療制度が改早された1998年までは、通院は半月に1回くらい、自分の病院に薬をもらいに付きました。咳止めと炎症を抑える薬をずっと続けています。ただ、免疫方を高める薬と心臓の薬は薬局で買っています。病院でもらう薬の薬代は当初無料でしたが、今は医療制度の改革で企業が80%負担してくれ、自己負担は20%です。しかし、病院はあまりいい薬がないので、免疫力を高める薬や心臓の薬は以前から自分で薬局に行って買っています。医療費は、現在でも月に平均150元から200元かかっています。また、妻も私の面倒を見るために定年にならない前の1998年に教師を退職せざるを得ませんでした。しかし、私の収入が月に320元しかないのに比べ 妻の収入が現在でも800 から900元ぐらいあり、いまでも妻は私を経済的精神的に支えてくれています。なお、昨年7月に長男が結婚しましたが、お金がなくて新しい住居を構えることができず、私の今までの住居に夫婦で住ませることにしました。そして、私たち夫婦は、―般の借家に住みたくても家賃が高いだめ、借りることもできず、以前勤めていた会社にお願いして近くの鉄西56565の煤瓦造りの質素な平屋建ての住居を格安で借りそこに住んでいます。

8.裁判所に訴えたいこと

 日本軍国主義が何の罪もない私のような―般市民にこのように大きな被害をもたらしたこと、それも戦争が終わって平和になった時代に被害をもたらしたことに対し、憤りを感じます。この現実に対して必ず責任をとって欲しいと思います。まず、きちんと責任を認めて謝罪してほしいと思います。また、経済的な損害に対して賠償をして欲しいと思います。いくら賠償をしてもらっても、奪われた自分の輝かしい時代、社会や家族に貢献できる時代をもう取り戻すことはできません。この私の被害と気持ちを十分理解して裁判をしてください。