「加害の体験を見つめて」

             残して置きたい侵略戦争の真実

                        

 

 1 私は高等小学校卒業後、貧しい農村育ち、学費が無く上級の学校に進学出来ず 官費で学べる 「呉海軍工廠」に 立身出世の夢を描いて入廠し 4年間徹底した「天皇中心の神の国」の精神教育と滅私報国の技術教育をうけました(半日学習、半日実習、夏・冬休み無し)。所長が現役海軍少将、主事(教頭)が海軍大佐(予備役)であったことからでも推察できると思いますが 軍隊に徴兵される前に 私の軍国主義思想のは十分出来ていたと思います。徴兵検査で「甲種合格」になり、現役兵として 軍隊(陸軍)に入営が決まった時は 「戦死」が頭をに浮かび、難関の補習科も卒業出来たのに、これで予定の幹部の道(後2年で高専卒)がすべて閉ざされると 落胆したが、当時は「兵役は三大義務の」の一ツであり、避ける事は出来ませんでした。                                     

 2 1939(S・14)12/1 現役兵として広島歩兵11連隊に入営しました、軍隊は一般社会と 全く違う別の世界で、入隊の翌日から 激しい訓練と精神教育----カラスの鳴かない日があっても、初年兵が殴られない日はない---と言う程 毎日が 陰険なイジメの連続で、今まで社会で身につけていたと思える 一片の人間的良心も 思いやりも 常識も そのすべてが 剥ぎとられ、端的に言えば「上官の命令は直ちに朕(天皇)が命令と心得よ」の鉄の掟のもと「命令」の鶴の一声は、私達はそれに従う以外の道は有りませんでした。「天皇の軍隊・無敵皇軍」はこの様にして創られました、私もその中の 典型的な一員に変わっていました。ですが この枠の中で「自身の立身出世を計ろう」が私の本心であり、敗戦までそうでした。

 3 1940(s15)3/24 宇品港から戦場え−−当時宇品港には「白木の箱」(戦死者の遺骨)が度々帰っていたので、輸送船を目の前にして「これで何もかも終わりだ、然し死にたくない」と心では想いながらも、「お国の為に頑張ります」と見送りの 日の丸の波に答えて乗船しました。4/2 中国湖北省漢口上陸、侵略の第一歩が始まりました。                                                                  

 私は中国で何をしたか(第一部)

 1)宜昌作戦時の三光作戦・毒ガス戦                                          

1940(S15)・4/2 湖北省漢口に上陸、それから間もない 4/20 「師団司令部護衛中隊」 配属の重機関銃手として「宜昌作戦」と呼ばれた3ケ月に及ぶ大規模な侵攻作戦に参加しました。戦争は、映画やテレビで観るよぅな決して勇ましいものではありません 頭に重い鉄帽,全部で30キロの装具を身につけ、苦しい行軍・戦闘の繰り返し、戦死傷者はでる 次は自分の番かと「恐怖が襲う」戦場は「人殺しの修羅場」 「鬼」か「気狂い」で始めて出来る場所です。 また侵略される中國人民にとっては 簡単に言葉で「災難」や「迷惑」ですむ事ではありません。戦火で部落を焼かれ 多くの平和な住民が殺され、 残した財産も、家畜も食糧も総て略奪され尽くし、私達が占領した地域の数百万人の避難民は、日本軍の敗戦まで自分の家郷に帰れなかった、 たとえ無事帰れても、どうして生活出来たでしょうか、私達日本軍が与えた災難の深さは 言葉や文字では とても表現することが出来ません。  この作戦中 私が直接関与した戦争犯罪の幾つかについて証言します。      1940.6.1 師団は「宜昌作戦」の前半を終え 態勢を整え本命の「宜昌」の侵攻作      戦に入り、最初は「漢水渡河戦(揚子江支流、河巾1キロメ-トル)でした、その前夜師団は 各種の砲 約60門(野砲39連隊主力、各聯隊砲、配属の山砲大隊等)を、対岸に砲列を並べ、薄暮1勢に砲撃を始めた。 常用のりゅう散弾、焼夷弾、毒ガス弾(赤弾)、発煙弾を混用し2,000発以上を二時間ちかく撃ち込み対岸1面をガスと煙幕で覆い、平和な部落を火の海にし、一帯を毒ガス地帯にし、これにより少ない 損害(鉄舟浸水の事故によって10余名の戦死)で1000米の漢水渡河が出来ました。防毒マスクの無い中国軍は、退く以外に方法がなかったのです。 この作戦は師団が2週間前の 5/18夜半からの「白河の渡河戦」で毒ガスが間にあわず、また事前の偵察ミスで強行した為、対岸の陣地と誤り「中州」に上陸し、集中攻撃を受けて2時間余で 歩兵233聯隊長 神崎大佐を含む360余名の戦死者と約三倍の負傷者を出し 連隊の戦力の半数以上を失った 苦い失敗に凝りて この度は周到な準備をして行ったものです。私達が2時間遅れて上陸した時も まだガスは残っており、付近に 中国軍の犠牲者の遺体数十人が残されていました。                                                         6/3  早朝 渡河後一時占領していた「宜城県北方高城鎮」一帯を放棄し 南の「荊門県」方向に転進する時の師団の命令要旨は 「−−師団ハ転進ニ当タリ、別命アルマデ付近一帯ノ軍事施設ヲ覆滅スベシ、細部ハ参謀ヲシテ指示セシム−−」の内容でした。その参謀指示とは「師団が反転する一帯の部落はすべて焼き払え、残っている糧食や農具、家具、鍋釜まで 総て焼くか、又はブチ壊せ、残っている住民は一人残らず処分(殺すこと)せよ---」の指示でした。要するにこの付近一帯は、作戦が終ったら占領せず 撤退する予定だったので、当面 中国軍の追撃戦に使用させない事と、住民を残して日本軍の兵力や移動する方向など、中国軍にスパイされるのを防ぐのが目的でした。(軍事施設とは 平和な町や部落であり、日本軍が常時使う「軍事施設の覆滅」とは、平和な町や部落を焼き払い、総ての「資源」を灰にする事でした。  私はその時、中隊命令により「放火班」5名の一員として参加しました。先輩上等兵から、二ツの部落を焼くよう指示され一ツの部落を終わり 二ツ目の部落を襲った時のことです、そこには2人のお婆さんが残っており その一人は孫らしい乳飲み子を抱いていました、いくら獣のような日本軍でも、まさか年寄りや幼子までは殺さないだろうと、不安におびえながらも 祖先からの大切な財産を命を賭けて守っていたのだと思います、私達が草箒の「たいまつ」で火をつけるのを見て2人は白い頭を地にすりつけながら、涙声で何か叫び続けていました、「どうか止めてください」の願いだと解っていましたが、それに目もくれず3人を 小窓一ツしかない奥の部屋に押し込め、逃げられないように扉の前に麦藁を積み重ね火をつけました。火は瞬く間に出口いっぱいに燃えあがり 屋根にも広がりました。 引き揚げの合図で 部落を離れる時振りむくと、煙の出る小窓から何とか外に出ようと、片手を出し壁を引っ掻いていましたが、間もなく消え 煙だけとなりました。 私は私の母親と同じ年頃の老婦人と幼な子を焼き殺しました、これは頭に焼き付いて今でも離れません。これは私の初めての殺人であります。                             又その頃、あたり一面の麦畠は収獲期で、黄金色に実った麦穂が風に揺れ波のようにうねっていました、 残して置けば中国軍の食糧になると その麦畠にも点々と火をつけて回りました、麦畠は日本の春先の 野焼きのように、パチパチと音をたてながら 幾百米も燃え広がり、あがる煙は 空一面を覆い、昇ったばかりの朝日がかすんで 何だか薄気味わるい雰囲気に包まれました、この様な放火は後に続く「師団予備隊や担架隊」でも組織され 師団全体で3日間くらい続きました。私の一回の「放火班」の犯罪だけでもなんの罪のない3人の命を奪い2ツの部落、戸数にして約20戸を焼払い、穀物数トンを灰にしています。 約 1,5 万人の師団全体が同じように行ったので、平和な中国の人達に与えた被害は、計りしれないものだったと思います(宜城県高城鎮−荊門県子綾鋪間の公路約80kmの両側村落を殆ど焼き払いました。又この作戦中 6/12宜昌占領後、6/13-17 宜昌を放棄し撤退する時も同じように行っています、宜昌から荊門市まで(約 100キロ) の道路の両側(数百米)の部落をほとんど焼き払いました、これは 急に「軍命令」が変わり この一帯を放棄せず 私達の師団が警備(蟠踞)することになり、その時 兵舎にする部落は無く 途方にくれ 天幕生活など ずいぶん不自由な数カ月を過ごす結果となりました。焼いた 鎮や集と名の付く部落数は約40になります。私はこの時「雑樹店」付近の部落(約12戸)を焼きはらい牛二頭を略奪しました。その時の状況は 「昨日 村落を焼け」と命令し「今日その部落を占拠し警備せよ」のチグハグな命令を出さざるを得ない 当時の作戦参謀のボヤキを目にしています、又彼が出した本にも記載しています。                                                                                   

2)「漢水作戦」時の「三光作戦」

1940,11-12月 聯隊は宜昌侵攻の後、6月末に荊門県に反転し、荊門北方の「黄家集」−帯の農村部落を占領しました。その時 約 10キロ 四方に住んでいた数千人の平和な住民は、戦火から避難していましたが、戦況が落ちついても帰ることを許さず「無人地帯」としました。田植が終ったばかりの田圃を目の前にして、追い出された人々から見れば、住む自分の家に帰れず、食べ物も無く悲惨な日々が続き、私達日本軍は「日本鬼子」そのままであり どんなに恨まれていたか当時の私達には全く解っていませんでした。 こうして、秋まで「中国軍」と数百メ-トルで対陣し 毎日のように撃ち合いが続いていました。宜昌作戦の後の疲れで、病人が多くなり、戦死より戦病死(荊門野戦病院では200名余がマラリア・栄養失調症で「戦病死」した)の方が多い状態が続いていました。又自動車道が無く 食糧の補給も受けられず、実りの秋が来ても、田圃の稲は立ち枯れ、付近の民家からの掠奪も 底をつき、飢じい日々が続いていました。ヒジキ缶 一ツが80人の一食分でした、「漢水作戦」(師団作戦)はこの様な中で行われました。                                                                       @ 聯隊は、正面から60キロ北の「栗渓」(抗日軍の拠点)迄侵攻しました。引き揚げる時、いつものように「敵の軍事施設を覆滅すべし」の命令で、「放火班」を出し、栗渓の街(約80戸)と、あたりの数ヶの農家部落(推定60戸)を焼きはらい、運べる目一ぱいの食糧(家畜、米、油など)を掠奪し持ち帰りました。 帰り道の経路(栗渓−王家傍−兆家河−原駐地)の両側の部落はすべて焼き払いました。(部落数約20余、戸数約400)寒さに震えての作戦でしたが、この時は 「今日は暖房つき」だと、煙の中を汗ばみながら帰って来ました。(この時の写真 が残っています)                                                                     A 作戦が終わりもとの占領地に帰った翌 12/2日のことです、「連隊命令」により次の 中隊命令が出ました。「元長小尉以下72名(駄馬20余頭)石板店付近一帯ヲ掃蕩スベシ」(陣中日誌に残っています) 私は当時新品上等兵としてこれに参加しました。 中隊はこの時「石板店」部落をはじめ付近の谷間に点在する農家を一戸も残さず(約110戸)を放火し焼き払いました。 私はその時、離れた谷間の農家を襲い避難の遅れた農民(男・50才位)1名を射殺しました。又付近の竹薮の中に隠していた牛4頭を奪いました。中隊は食糧として米、麦、牛、豚、鶏など掠奪し、牛は引いてその他のものはは 駄馬に満載し帰隊しました。その時の掠奪品は 牛だけでも約 40 頭、あまりにも多いので、急いで「放牧場」を造り 飼育し、逐次殺して食糧にしました、私達は放牧場の 牛の群を眺めながら「これで当分飢えずに済む」とほくそ笑んでいました。私も農家生まれで農家で牛一頭がどんな貴重な財産であるかは知っていましたが、その事は頭に無い 悪魔の姿でした。 働き手の主人を殺され、住む家も 耕す農具も 食べ物も すべてを焼かれ、奪われ 残された後の遺族のその後どんな悲惨な生活をされたか、思うだけで身を切られる思いがします。 「侵略者」の私達には、平和な町も部落も、実りの田畑も、すべて軍事施設に見え平和に暮らしている住民もみんな「敵」に見えたのです。 私達がやったことは、このように惨酷でした。「自由主義史観」を唱える連中や、一部の政治家が言う、侵略戦争ではないとか 三光作戦は無かったなどの発言は、全く詭弁で人騙しにすぎないことが解って貰えると思います。                     

 今まで述べました 二ツの「三光作戦」に見るように、当時私たち日本軍のやり方が、どんなに酷いものであった理解して下さい。私はこのような作戦(16年冬季山岳作戦・17年長沙作戦・18年江南作戦など12回参加しています。これらの積み重ねが「侵略戦争の実態」であります。 当時の日本軍は、中国人民から「日本鬼子」「東洋鬼」「蝗軍」「日の丸は悪魔の旗印」などと 恨まれ その怒りは 自ら銃をとり「抗日統一戦線に参加」その拡大 強化につながり、日本は「点と線」(都市と軍公路)の確保も日毎に脅かされ 夜間は「線」は全く無いのと同じ「分駐警備」の小人数の「分哨」(10名前後で本隊からはなれた地点を警備する拠点のこと)が 優勢な抗日部隊に包囲され 全滅することも度々ありました。                                                                      

註:「抗日統一戦線」とは「八路軍 新四軍・国民党軍・各地の住民が自衛のため 自ら武装した「民兵や遊撃隊組織」・広範な「抗日愛国の民間団体」などを 含む 巾廣い「全民族的抗日統一戦線」のことです。                                                                                        

3) 「討伐」の失敗と報復                

 このような 「抗日組織」を 急襲しても、行けば「モヌケのカラ」 住民は日の丸を立てカツコウだけの歓迎をする、然し本当は 住民は抗日組織の 主柱であり 日本軍の情報は筒抜けで、大失態をやった討伐があります、その 一ツの例を「陣中日誌」の中から証言します。 1941・8/6 於 湖北省荊門県李家 第一機関銃中隊 湧田中尉以下 24名(機関銃1ケ小隊)は 十里岩付近の敵情を偵察中、11・30 同部落で38師ノ特務遊撃隊ノ一部(約150名)の待ち受けを受け、 交戦約二時間 神尾一等兵他三名が戦死し一名が片腕を無くする重傷者を出し。 この時の実情は日本軍が来る情報を事前に知っていた遊撃隊の待ち受け奇襲を受け 各自バラバラに避難し「銃馬」と「弾薬馬」の掌握が出来

ず重機関銃の反撃は1時間後だったのが実情です(銃馬・弾薬馬は各々銃と弾薬を積んだ馬のこと) この大失態に、大隊長杉山少佐は激怒し、事件を起こした機関銃中隊に その報復を命じた。そのときの行動について次のように書いてあります。1941・9/9「大隊命令に基ズキ中隊ハ玉木少尉以下23名ノ便衣混成隊(機関銃13名・  大隊本部10名)ヲ以テ趙家店ニ蟠踞スル敵蜜偵捕縛ノ為 03.30 中隊出発シ05.30 奇襲ニヨリ敵密偵・方 亜全以下5名ヲ逮捕シ 09.30 帰隊ス」と書いています。 私は当時兵長で、無線通信手として大隊本部勤務・庶務の助手だったので、通信兼伝令としてこの事件に参加し又その後に就いても、通訳北村上等兵と共に 取り調べ・拷問などをやっていたので 其れについて証言します。                                                  「敵密偵」とは「中国では尊敬される愛国者」です、 方 亜全さんはとても品格のある知識人で「保長(村長)」だと聞きました、押収した書類の中に「古文」のものがありました、古文は普通の中国語の出来る者でも意味がよく解りません、方 亜全さんを取り調べを兼ねて古文の翻訳を依頼したが簡単に応じてくれません、その内ちょっとの隙に「疑いのある古文の一枚」が無くなりました、方亜全が隠したに違いないと「風呂でも入って一杯やりましょう」と入浴させ 衣類を調べたが見当たらない、「方亜全が飲みこんだ」と断定し、その旨師団司令部に報告した結果、彼は「首謀者」の疑いで師団司令部送りとなりました、彼のその後に就いては全く不明でした。残りの4名は情報係新任の横田伍長・助手の私・通訳北村上等兵他5人程が立ち会い、2日かけて拷問取調べましたが 四名とも「私は老百姓(農民)です、何も知りません家族が困っているから早く帰してください」と頭を地につけながら命乞いを繰り返すばかりで 何一ツの情報も取れませんでした、(私はその時無線機用の発電機を使い電気拷問を行いました、水拷問で気を失っていても電気を流すと身震いして目をあけ恐怖に怯えていました)情報が取れないと知った大隊長杉山少佐は「処置なしじや 適当に処分せい」と殺害を命じました。四人の内 一人を「生体実験」に し、残りの三人は 「日本刀の試し斬り」にし殺害しました、これに就いて詳しく証言します。                                                                                                  

4)生体実験

そのなかの一人を午後2時頃、本部西側の空き地で 私達十数人が取り囲む中で、新任の新谷衛生見習士官が行いました、「血液に空気をどれだけ注射したら死ぬか」の実験でした、被害者を動けぬように戸板に縛り付け、腕の血管に少しずつ空気を注射すると、忽ち小さな紫の血の塊の流れに変わり 全身を駆けめぐり、本人はもがき苦しみます、空気の量を増やすと約5分程で全身が紫色にかわり、もがきも止みます グッタリ 横になった姿は、まるで異様な「紫のゴム人形の塊」のようで、見ている私達が目をそむける程の無惨な姿に変りました。「もう止めろ、トドメ をせぇ」の横田伍長の指示で 私が銃剣で心臓部を数回刺し 実験が終わりました、 遺体は 前もって掘っていた穴に埋めました。 この実験は正式の命令で行ったものでは有りません、新谷見習い士官の 気儘な思いつきで行ったものです、当時私達は中国人の「人権」を全く認めず まるで 虫ケラのように思って居たから出来たと思います。                                                                                                           。

残りの 三 名 は、新任の見習士官・下士官に「度胸をつける」といって日本刀で、試し斬り(首斬り)にしました。午後4時頃 三名 をともし、捕縄で後手に縛り 本部南の小高い丘の畑に連行 前もって掘っていた 穴の前に座らせ 目隠しをました。「一番は俺がやる」と日本刀を抜いたのは 又 新谷見習士官でした、彼は震えながら(振り上げた刃先が小刻に揺れていた)一度失敗し(度目にどうにか出来ました、首が飛ぶと 体は自然に立ち上がり 首から血を吹きながら 掘られた穴に落ちました、外の 二名も同じよぅに横田伍長、増田獣医務伍長の手で試し斬りの犠牲にし、遺体は穴に埋めました、「報復」だと行ったこの事件後、次のような問題が起きました。                                      (1)事件の数日後 「夫を返して下さい、家には子供がいます、老父母もいます、  このままでは 私たち一家は飢え死にします」と被害者の妻や肉親の方々からの 切実な直訴が数日間続きましたが、私達は「荊門の司令部に送って調べている、間もなく 必ず帰ってくるから心配するな」とゴマカシ追い帰していました。 帰るところか 数日後には飢えた野犬の群が遺体を掘りだし、屍肉を食べはじめて10数日後には白骨があたり一面に散乱し、目は赤く充血し 肥え太った野犬の群が、うろつき 付近を ネグラ にして数十日間、離れませんでした。

 (2) この事件は撫順管理所で、同僚の増村上等兵と共に、薄れた記憶をまとめて    認罪したものです、これは命令した 杉山大隊長(同じ戦犯)の裁判時に、録音テ−プにより証言しました(今でも管理所に保管されていると思います)杉山大隊長(戦犯時は関東軍参謀)も「これはすべて命令した私の責任であります」と認罪しています。 またこの事件は 私が直接体験した 数すくない被害者の心情に触れる事ができた事件でありました、 私の認罪を深める上で大きな転機となった事件であり忘れることができません。                                                                                                      

5)  避難民の群れに機関銃掃射                                               

もう一件 湖北省沙市占拠中の陣中日誌にある別の事件について証言します。                                         1941・6/27 陣中日誌記載文:「裁縫店、王家場付近ニ蟠踞スル「鄭家良匪」約 300人を覆滅スベク、機関銃1ケ 小隊(小林小隊)ヲ第七中隊(石田隊)ニ配属、6/24夜出発、同地付近ノ敵ニ痛撃ヲ終ヘ、掃蕩シタル後 27 日 全員無事帰隊ス」

 註:「鄭家良匪」とあるのは日本軍が使った差別語で、本当の匪賊は我々日本軍でした、鄭家良さんはその一帯の抗日組識のリ−ダ−で人望ある人でした 、自   ら「住民」を組織し「抗日民兵」の先頭に立っていました。この掃蕩戦は、他の部隊と同時に三ツの方向から包囲攻撃する作戦でした、私は機関銃分隊長として参加しました。予定のとおり 25日草朝 王家場付近で数発の銃声を聞き、急襲しましたが 部落はいつものように モヌケのから 前方600メ-トル付近を避難する10数人の群れを見つけましたが、双眼鏡(6倍)で見ると みんな荷物を持った住民です、射撃を躊躇していましたが「撃て」の射撃命令です、水田の畦道を逃げ惑う難民に重機関銃の一斉射撃、バタバタ斃れるのが双眼鏡で はっきりみえました。      現場を確認すると8体の老婦人の遺体が残つていました、その1人は幼児を抱いていました。、この時の「報告」は「石田隊−戦果 敵の遺棄死体10名、押収兵器小銃3挺−−」でありました。この様に避難民と知りながら射撃したのは、中隊の「功績(手柄)」の為でした。 自分達の功績の為には 平和な住民もクソもない「逃げる者は皆敵だ」と無差別に殺害する、これが当時の我々の常識でした、これは「私達日本民族が世界で 一番優秀な民族」と信じ、中国人民の人権を全く認めない「他民族蔑視」の天皇制軍国主義思想に「洗脳」されていたからこそ出来たと思います。これはこの事件だけでなく、私が六年間従軍中犯したすべての「戦争犯罪」の思想的根源だったと認識しています。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                     

 「撫順戦犯管理所」の6年         

     鬼から人間え

私達は 自ら学習し 苦悩の末 人間を取り戻した、

「報復の連鎖」は 被害者中国人民 自らの手で断ち切

られ 、許され 帰国することが出きた。

           

         

 私は、今まで述べたように重大な戦争犯罪を犯した鬼でした、ソ聯の調査では 犯罪のほんの一部(老婆を家に閉じこめ、部落を焼いたこと)をアイマイに認めました、然し私は心では「命令を実行しただけ 私に罪は無い 罪は命令した上官にある」の軍国主義のままで 撫順戦犯管理所に移管されました。              管理所に着いて 真っ先に「ギクリ」としたのは「戦犯の二字」です、前にも証言した様に「私は特務だバレたら 一番に銃殺される」と、不安の日々が続きました。其処で 私はこの重大犯罪を隠す為に 徹底した「ゴマカシ」戦術をとりました。  腹の中と違って、表面は「良い子」に見せかける為 監房規則をまもり 看守に反抗せず どんな指示にも従った、生活組長として仲間の世話もやり、犯罪行為についても聞かれたら 部隊の行動や犯罪については 地図入りで詳しく説明し告白しました。 私が 幾ら誤魔化そうとしても、この不安は 頭から離れず 私が「担白」した日まで続きました。 此処でどんな処遇を受け、どんな過程をたどって認罪できたか 是非 聞いて貰いたい点に 絞って証言したいと思います。

 中国政府の人道的寛大政策  (この政策は周恩来総理を直接責任者として指導されていた)                                              1)管理所に拘留された私達は色々な形で反抗しました、私のように「ゴマカシ戦   術」や、必ず報復される・死刑になると自分で考え 自暴自棄になり「早く殺せ」と大声で怒鳴るなど、監房規則は守らず 反抗する者も居ましたが、然し管理所からは何も処罰されず、「静かにしなさい」の注意があるくらいでした。  然し健康管理の面では、全員の精密検査(レントゲン)も行い 毎日のように病人の有無を確かめ病人が出ると親切に治療して貰った。私が食べ過ぎで「胃痙攣」になった時、直ちに病室に運ばれ「注射と下剤の処置]をうけ、容態が落ち着くまで看病して貰いました、 退室してからの病人食は日本なら お粥と梅干しが普通ですがびっくりしたのは、副食に「鶏の缶詰め」1缶が付いていました、不審に思い尋ねると「鶏は食べて良いです、しっかり食べて早く元気になりなさい」の励ましでした。 又 全員の定期健康検査 又 難病や重病人は市内の病院にいれて ペニシリンなど高価な薬品を使い治療されました。また「入れ歯や、眼鏡・義足の取り替え」などの健康管理の面だけでなく「衣・食・住・文化・体育・娯楽活動」などの総ての面での「超人道的配慮」は 私達が 中国に移管されたその日に始まり 帰国まで一貫して変わりませんでした。然し管理所では 言葉では 何一ツ聞いたことがありません、管理所職員全員は 言葉で無く「実際の行動」で示して呉れました。       (詳しく述べる時間が有りませんが、贈呈したビデオ「人道と寛恕」と「覚醒」(管理 所職員の手記)を御覧頂くよう御願いします)                                                        2) 私達はこの人道的政策がどうしてうまれ、どのように行はれたか 深く認識出来ないで帰国しましたが、詳しく知ったのは大部分が帰国後のことです。           

「戦犯といえど人間である、その人格を尊重しなさい」「言葉使いは丁寧に」「殴ったり 侮辱してはいけない」「病人は手厚く看護し、一人も死なせてはなない」「日本人の生活習慣を尊重しなさい」などの戦犯処遇の大原則が、中央政府から管理所に指示されいたことを知りました。  

 私達が管理所に到着前に 管理所職員全員でで学習された事も知りました。 管理所の所長をはじめ、職員の全員が 被害者であり 中には一家皆殺しにされて 一人残され、その恨みをはらす為に八路軍に入った職員も居られました。職員全員 この人道主義を実践する為に、私達に対する 耐え難い 恨み 憎しみ 復讐の感情を押さへて 私達は献身的な世話をして貰ったのです。この様な人道的配慮は 私達の頑固な軍国主義思想の扉を少しずつ開けて呉れて 何時も 直接面倒を看て貰っている指導員・看守さんに次第に親しみを感じるようになり 其れが 少しずつ深まり 何時のまにか尊敬と信頼感に変わって行きました。   それに伴って 私達は 自分の意思で 次第に学習に励むようになりました。午前中は学習時間で午後の二時間は体育 残りは自由時間だったので 時間は十分、大講堂(図書室)に 政治・経済・毛沢東全集など資料も巾広く準備され 、それに毎日の人民日報の差し入れ閲覧(要点翻訳)で、戦後急速に変化する国際情勢や新しい中国の国内事情、又日本の状勢も学習出来ました。 長い間 活字に飢えていた私は 何でも貪るように読み多くの 学習が出来ました。この学習の過程で「私達が今まで 身に着けていた 旧い「天皇制軍国主義思想」を自分で批判出来るようになり、「その矛盾と罪悪性」を知る事が出来て、一歩ずつ 本当の人間に近ずく事ができました。この寛大政策の詳細に就いては贈呈した「覚醒(管理所職員の手記)」や「人道と寛恕のビデオ」(6年間の実写の収録です、)をご参照下さい。          私は 今でも「覚醒」を何度読んでも 読む度に感謝の涙がこぼれます、これは又私の「認罪の道(贖罪の道)」に勇気と力を与えて呉れています。

 自由主義史観の人たちは、この人道的処遇を「中国の洗脳の手段」だと言います、彼等には普通の人間の感情を身に着けていると思いますか、彼等は 私達が 中国で行った様に「食事も与えられず 虐待・拷問 虐殺されれば良かった」と考えているが本心だと思います、私達「中帰連」を日本の「自虐史」の根源だと誹謗している点からしてもそう思っているに違いません。                                                            3) 戦争犯罪調査の過程で、私達は 決して「自白」を強制されませんでした、私 が戦争中に行った行為と、今受けている処遇を重ねて見ると、天と地の違いで私の考えも変って来ましたが、どうしても すべてを担白(心から反省し自白すること)が出来ず、 随分悩み続け 眠れない苦悶の夜が続きました、その頃私達は ノイロ−ゼで 仲間から2人の自殺者や、多くの自殺未遂者も出ました、その都度 指導員は「まだ中国の政策がわからないのか、誰が死ねと言ったか、君たちは帝国主義のままで死にたいのか 中国の政策を信頼し、自分の明るい道を探しなさい」と涙ながら諭して呉れました。

 私も色々悩みましたが、やっと担白の決心が出来たのは 私が殺害した多くの被害者の方々と 其の遺族の方の心情「私達に対しての 憎しみ・恨み」がどんなに深刻であったか、 少しずつ 理解出来る様になったからです。「命令でやったは 自分 の罪を少しでも軽く見せようとする、命令を正当視する 軍国主義思想 ではないか、殺された私には絶対に通じないぞ」「命令でも お前は至極積極的にやったではないか」と私が殺した被害者の「恨み」が私を締め付けている幻想に悩まされ続けられた。 私は苦悩の末 やっと決心できました「私は実行者だ、被害者と多くの遺族の方は 実行者である私を 一番先に 叩き殺すに違いない、私が殺されるのは当然だ」と 心から受けとめる事が出来たからです 。 口を裂かれても 黙秘しようとしていた 挺進隊の惨酷な犯罪も 包み隠さず総て担白しました。  担白の供述書を提出して 私は全身の重荷が取れた様にスッキリとしました。 指導員の先生は「よく頑張った、更に学習を深める様に」とまるで自分のことのように喜んでくれ 励ましてくれました、この様な中で 私達は 一層学習に 励むことが出来ました。 私達が、今でも管理所の諸先生を「老師」と尊敬し、撫順を「再生の地」「心の第二のふる里」と忘れる事が出来ない「所以」が 理解して頂けると思います。                                 

  余談ですが 私達が「再生の恩師」と尊敬している職員の中には、多くの朝鮮族(韓国・朝鮮人民共和国出身者共)の出身者がおられました、帰国後28年目に(89・10)私達が感謝の気持ちで、八人の管理所職員を日本に招待しました、その中の五名は朝鮮族出身者です。 金源先生(後任管理所々長)・ 呉浩然先生(教育科長)・催仁傑先生(主任指導員)・関先生 趙先生(共に看護婦長現在は医師)の五名です、内四名が存命で現在も親交を続け指導を頂いています。             

担白が終わり 裁判を待っていた時期(56・3月) 私達に40日余りの「解放された新中国の社会参観学習」が許されました、北は東北三省、ハルピン、南は「漢口・南京・上海・抗州」、首都北京や周辺の農村を参観し この時受けた色々の感動「解放され 人民が主人公となって 僅か六年余の新中国の変化の素晴らしさ 何処へ行っても 人力車は見へない 、昔苦力と言はれた労働者も見当たらない、上海では 船上生活者が無くなっているなど 生活環境が素晴らしく改善されている事に驚いた。 又、侵略した私達「日本軍国主義の罪の深さ」について、実りある学習が出来ましたが其の量も多くて、纏めは 後の機会に譲らせて頂きます。                                                                             

 4)「日中友好」の為に「寛大な判決」  (中国は 積もる恨みを のり越えて 自らの手で「報復の鎖」断ち切 って呉れました)                                          こうして「最高人民法院 特別軍事法廷」の裁判を待ちました、1956・6・22 中国最高人民法院特別軍事法廷から判決が有りました。判決は「45名の死刑なしの有期刑で残りの私達は 「不起訴即時釈放」の とても寛大な判決でありました。  判決文には「私達が ある程度反省している」こと、其れに「日本中国の友好を深く考慮した」と記載してありました。                       此処で皆様に是非 理解して 頂きたい事は 判決文書にある「日本中国友好」に就いてで有ります。「友好は 憎しみや恨みがある限り 絶対に 生まれません」。 中国政府は君達を「処刑」にするのは容易だが もし処刑にしたら 日本に新しい遺族をつくり、又、新しい憎しみを生みだす、これでは何時まで経っても、日中友好は望めない、然し「中国は心から日中友好を望んでいます」と力説されました。私は、中国は 自国の恨みを乗り越えて、自国から報復の 鎖を断ち切り 友好の手を差し出していることが心から認識出来ました。

 私達戦犯えの「寛大政策」は この原点から生まれた政策だったと思っています。 事実 撫順管理所戦犯1000余名が「命令・指揮・実行」した中国側の被害者数は、死者だけでも 85万7000人です(管理所資料)、これにかへての 死刑無しの「寛大判決」です。私達には最高の感謝感激で涙が止まりませんでした。輸送船 興安丸乗船前 「帰ったら二度と侵略の銃を持たず 平和に暮らして下さい---」の 管理所職員の言葉は決して忘れず「中国から頂いた後半生は 平和と日中友好に捧げます」と誓った あの時の感激の言葉も 忘れず及ばずながら実践しています。管理所六年の生活は私を 軍国主義の鬼から人間に帰し 私の後半生の生き方まで教えてくれた素晴らしい学校だったと今でも感謝しています。