「今毒ガスはなぜ」

      藤本安馬さんの話   2001.10.1     

 私が大久野島へ行ったのは、1941年、毒ガスを学問的に、専門的に作る人間を作ろうという養成所に入ったからです。  技能者養成所第2期生です。どうして入ったかというと、毒ガスを作るんだから来いということではなかった。お金をもらいながら、給料をもらいながら勉強をすることができるということで入ったのです。当時、わずか15歳ですから、まだ子どもの年齢です。そういう年齢であるからこそ、鍛えようと、頭のやわらかいうちに鍛えようと言うねらいではなかったかと思います。本質的なねらいは毒ガスを作らせようということにあった。したがって、騙されて入った。当時はごくそれが、騙されてあたりまえの世界、時代ではなかったかと思います。

 Q1:誰に大久野島に行くことを進められたか。先生にどう進められたか。

  Q2:大久野島が毒ガス製造しているのは、何時、どのようにして知ったか。

 Q3:合格した時の気持ちはどんな気持ちだったか。、

  毒ガスの歴史は、侵略の歴史と重なります。侵略をするために毒ガスを作った。第一次世界大戦のときドイツは毒ガスを作って、使用し、実証している。その効力を日本も見て習ったということであったわけです。日本で初めて毒ガスを作ったのは、1927年です。それは日本での研究段階だった。製造可能のめどがつき、1929年に大久野島で毒ガス製造がはじめられた。以来、毒ガス製造は年々研究がすすめられ、製造トン数も多くなって、生産のピークは、1940年代、いわゆる中国への侵略が進んだときです。当時の大久野島の従業員は、5000人〜6000人と言われています。

 大久野島に渡ると、みんな事務職であろうが工員であろうが、なんであろうと、毒ガスの影響を受けました。島全体が毒ガスで覆われているからです。それが当時の状況ででした。

Q4:大久野島の秘密を守ることで、苦労した、思いではありますか。

   Q5:大久野島に通って入るとき実際に毒ガスに侵された人を見たりしましたか。

  次に、私が直接毒ガスを作った話をします。私は、ルイサイトの原料である三塩化砒素(白イチ)を主に作ってきました。食塩に亜砒酸を混合して、それを蒸留釜に入れて濃硫酸をいれて温度をかけてかき回したら、三塩化砒素、いわゆる「白1」ができる。ルイサイトの主原料ができる。

 この工程に問題がありました。毒物である亜砒酸は化学式ではAsと簡単でありますが、亜砒酸は大変、毒性の強い、0.5g飲めば死んでしまうという毒物です。その亜砒酸を食塩と混合する。混合すると言っても、何か機械で混合するのではなく、手で、木で大きな板(90センチ×200センチ)の箱を作って、その中に食塩と亜砒酸を入れてコンクリートのスコップを使って二人で混ぜる。この亜砒酸は1cm角にに50の目がある、また、それよりも小さな網の目で濾した粉末なんです。小さい粒子なので混ぜる時に粉末が飛散する。それを吸ってしまう。だから防毒面をしなくては作業はできない。ガーゼのマスクをしてするけど、マスクを通り越して亜砒酸が身体内に入ってくる。白いマスクの内側が赤くなってくる、それでも仕事を続ける。作業中、少量ではあるがずっと、ガスを吸っている。少量でも積もれば山となる。その作業を何回もやっていると、中枢神経を冒される。平衡感覚が失われる。立っていても静止できない。後ろから見ると、絶えず体が動いている。耐えずユラユラ動いている。それが、中枢神経を冒されている状態である。その亜砒酸を食塩と混合して、バーナーで火をたいてぐつぐつ煮て蒸発させ、それを蛇管を通して冷却したら三塩化砒素ができる。

蒸留するために、釜に入れてバーナーで焚くとき、手動なのでいつも就いて温度を見ながら焚くけれど、炊きすぎてしまうことがある。炊きすぎると圧力が上がって、爆発しないように安全弁が開いてガスが出る。そのガスが問題なんです。「白1」ガスは温度調節がなかなか難しくてたいてい安全弁を開かせることになる。

    Q6:食塩と亜砒酸を混合する作業は何人くらいで、どんな作業時間でやっていたのですか。

   Q7:その作業をするとき危険性は認識していましたか。

A3工室のルイサイト(黄2号)の主原料である「白1」ガス製造が問題なんですね。「白1」ガスは比重が重い、2.17.比重が重いので下をはって長時間とどまる。人間が立っていると、もろにそのガスを吸うことになる。ガスは完全に消えてなくなると言うことはない。地面をはうといえば、物に付着してそこへとどまるということなので、この毒ガスは大変扱いにくい。多くの毒ガスの種類がありますが、広範な作業工程の中で。「白1」ガスに、一番、工員は悩まされた。

  Q8:実際に、工場に溜まった毒ガスで事故はなかったのですか。

  Q9:危険だといって、逃げたりしたことはありますか。鳥かごはありましたか。

  三塩化砒素ができるとき、冷却槽で不燃物と三塩化砒素が重いものから層になって分離する。不純物を入れないということで三塩化砒素は硫酸ナトリウムにくいこんで分液をする。酸は中和するが、しかし三塩化砒素というのは完全に処理ができないので流してしまうことになる。三塩化砒素は水に溶けないので玉になって水の中をころころ転がっている。低いほうへ水といっしょに流れていっていく。下水溝へ流れていって、そのまま海に流れ出る。今もどこかにその原液はたまっている可能性があるといえます。完全に溶けませんからね。海の一番深いところに溜まっている可能性があると行ってもよい。そして、長年の酸を排出し続けたから下水溝のコンクリートがぼろぼろになっている。排水溝が酸で腐食してぼろぼろになっている。修理していない排水溝にしみこんで付着すれば長年、地下に浸透していると言えると思います。現在は建物が存在するので、除毒はできませんが、腐食したコンクリートから三塩化砒素が地下に浸透していると考えられます。

   Q10:藤本さんが働かれていた場所で、今でも残留砒素がある可能性のあるところはありますか。それは、どの辺だと思い    ますか。

  Q11:藤本さんが一番危険だと思われるところはどの辺ですか。

 三塩化砒素を作ったところは、国民宿舎本館の前の広場の通りにあった。通りから2メートル離れたところに、「白1」工場があり、その中の4メートル入った所に排水溝があった。だから、その排水溝から浸透しているとすればその位置を土壌検査すれば分かる。国民休暇村を作るときに土の入れ替えをしたというが、どの程度したかよく分からない。汚染されていると思われる位置の土壌をとって砒素はないという調査結果ならいいのですが、そうでないなら問題がある。

  Q12:環境省の方で危険な場所の土壌調査に立ち会って欲しいと言われれば調査に立ち会ってもらえますか。

 5年くらい前、大久野島から基準の何十倍・何百倍の砒素が検出されたということで大騒ぎになり、宿泊客も減少したということがあった。その汚名を取り除くため調査をしたと聞いている。どのように調査したのか分からないが、環境庁が安全であると言っているという報道が1999年に出された。しかし、その安全基準もまた問題だと思う。安全だとする根拠が不明確である。

 これからの大きな課題は、毒ガス製造当時に現場で働いた人、いわゆる、毒ガスがどの位置に残っている可能性があるか証言できる人間が、ここの土壌を調査したほうがいいという位置を調査しないと、安全と言う根拠にならない。今までの調査では、当事者抜きで行なわれていることが問題である。

   「今、なぜ毒ガスか」ということになるわけでありますが。私自身1941年から養成工として入って、3年間のところを繰り上げ卒業で2年半でで卒業してA3工室に配属されました。いわゆるルイサイト工室に入りました。A3工室では毒ガス製造は、アセチレン、「白1」ルイサイトの3つを造っていました。の

 私自身、養成工、A3工員でした。自分も毒ガス毒ガスの製造に従事する事により自分も被害を受ける。私自身毒ガス障害者で、被害者です。しかし、被害者である前に、加害者であることをしっかり自覚しなければならない。したがって、「今、なぜ毒ガス」ということのポイントは、今の日本は、新憲法の下で平和といわれているが本来の平和にはなっていない。被害者である前に加害者であるという自覚なしに平和は語れない。

 現在、我々は、そうは言っても、侵略戦争を仕掛けた当時の為政者が加害者であり、現在の私たちには関係ないという考え方になりがちである。今さら、わたしたちは知らない、という受けとめ方をするようになっているのではないか。実はそうではない。時の流れの中に今日がある。過去があって今がある。特に、過去の為政者が罪を犯した、加害をした責任というのは、その加害を犯した為政者の延長線上に今の為政者があり、今日の権力がある、といううけとめが必要である。今日の権力者は過去の延長線上にあることをわれわれはしっかり抑えておかないと、平和を追求することは大変難しいことになる。

今、世界のどこかで何が起きているか、それは、なんのために起きているのかに注目しなければならない。 今、なぜ毒ガスかと言えば、戦争のために毒ガスを作った、作らなければならなかった時代背景を考えた時、今の世情はどういう世情になっているかを考えることが必要である。

 毒ガスの加害の責任をどのように背負っていくのか、私しにできることは、「このように毒ガスを作った、今も毒ガスは残っている。」ということを証言し、証言をもとに、これからの調査に生かしていくという大きな使命がある。そして、過去のことは絶対に忘れてはならない。自分たちが作った毒ガスの体験を言い続け、語り継ぐことが毒ガスを作った私にできる責任の償い方ではないかと考えている。