証言1:靖福和(731部隊の犯罪幸存者)

 8月18日、第731罪証陳列館から、幼い頃靖さん一家がペスト菌の被害にあった二道溝(村)までバスで向いました。バスの中から、まわりの村を見ながら靖さんの証言を聞きはじめました。

 第731部隊の行政区域は、第731部隊本部中心から周囲2.5キロメートル全部でした。そこの村の人たちは全部追い出されて別のところに強制的に移されました。第731部隊を作るとき、4つの村が強制的に移転させられました。靖さんはその当時、二道溝に住んでいました。そして、1946年、ペストの流行があったのです。

 

「私の村から第731部隊の本部まで3キロメートルあります。敗戦直後、第731部隊は逃げる前に、作っていた施設を爆破しました。その音が私の村まで聞こえました。火が燃えているのも見えました。爆発と燃焼によって、実験に使った小動物がたくさん周りに逃げて、私の村にも、ペスト菌のついた動物がたくさん逃げてきたのです。そのため村にペストの流行が起こった。そのとき逃げたのは、小動物だけではなく、らくだ、馬などもいました。それは自分の目ではっきりと見ました。村に逃げこんだ馬は、病気にかかったようにふらふらしていて、村人たちはみんな、こわくてこわくて、近よらなかった。」

 ここまで聞いたとき、バスは二道溝に入ってきました。

「そのとき、動物が逃げ込んだだけではなく、日本軍が逃げた後にわざわざいろいろな細菌を撒いたのです。それで、1946年の夏ごろ、第731部隊の撒いたいろいろな細菌のため、ペストの流行が起こりました。そのとき亡くなった人は、3つの村で200人

証言してくださる靖福和さん

 

余りになります。その当時、私が住んでいた村の人口は200人くらいで、戸数は43戸です。私の村では50人が亡くなった。人口の4分の1が亡くなった。そのときの私の家族・親戚は全部で19人です。20日間足らずで、その中の12人がペストで亡くなりました。その時、村の村長や小学校の先生は、ハルピン市の政府の役所に報告して、防疫救助隊が派遣されました。そこでいろいろ調べて、ペストなどがわかりました。私の親戚は、今でも何人かこの村に住んでいます。」 ここでバスから降りました。戸数はまばらで人影も少なく静かでひっそりとしていました。それでも私たちの姿に何事かと数人の人たちが集まってこられました。靖さんの話にいっしょに耳を傾けておられました。

 「その当時のわたしの家はこのあたりです。その頃5つの部屋がありました。1946年、ペストが発生したとき、私の家の周りには731部隊から逃げてきたねずみがいっぱいいました。いたるところにいました。人間が怖くないので。そのとき、いたずらで、自分の尿をネズミの上に掻けた。ネズミの毛の中に隠れていたノミがいっぱい出てきます。ネズミの表面にいっぱい出てきます。今、考えるととても怖かった。私の家族の中で、最初に亡くなったのは、私のおじです。一番下のおじです。そのとき25才だった。おじはその日、この村で亡くなった人の葬儀に参加して帰宅して発症した。帰宅して麦の収穫作業をしようとしたが、手足が動かなくなって部屋に戻って休んだ。そのときの症状は、熱が出て、腋や腿や首の周りがはれて水泡ができていた。自由に動けなくなって、話もできないし、3日後亡くなった。おじの次に、おじの奥さん、二人の子どもさん、おじが亡くなった5日間足らずに妻と二人の子どもが相次いで死んでしまった。一番ひどかったのは、1日に3人が続けて亡くなったことです。私の姉さんもそのとき首の周りにデキモノが出て、姉が死にました。私と父が姉の葬儀に行きました。父はその葬儀が終わってしばらくして亡くなった。父が死んだばかりで私の弟が死んでしまった。姉、父、弟、同じ日に亡くなった。家族が初めて亡くなったときは村の人は同情してくれていたが、続けて亡くなったのを見てみんな怖くて手伝ってくれなくなって、父の死骸はそのまま腐った。・・・このペストで、私の家の主な労働力が全部なくなった。6人大人で6人子どもが亡くなった。わたしの祖母は、3人の息子が相次いで死んでとても悲しんで、3人の息子の墓のところに行って1日中ずっと泣いていた、その後目が見えなくなったんです。そのとき、市の行政が防疫救助隊を村に派遣して私たちが住んでいる部屋を燃やそうとしたが祖母は許さなかった。それで私たちの家は隔離されました。飲む水も外から渡して、外の人は入れない。中の人は出てこられない状態で1週間すごしました。ペストの流行で12人死亡したので家族7人生き残った。祖母、2番目のおば、私の母、私の兄、私、私のいとこ、もうひとりのいとこ。3人の大人の女性と4人のこどもです。今、省みると、市の行政が防疫救助隊を派遣しなかったら、伝染のスピードで推定すると、この周辺の人はすべて亡くなっていたと思います。生き残った7人も亡くなっていたに違いないと思います。」 聞いているのが辛くて居たたまれなくなりました。靖さんはそのとき12歳。自分の人生での大きなショックなのではっきりと覚えていると言われました。

 

ペスト菌の被害現場で証言を聞く旅行団員 

 その後、質問はありませんかと言われたので、聞いていた私たちの中から、次の3点の質問をして答えていただきました。

  @          ペストの症状はどのようなものか。

「第1に、熱が出て、足が震えて歩けない、腋、腿、首の回りが腫れてデキモノがでるよう、黙っていて、話せないのか、話したくないのかよく分からないが、話さなかった。そのときの伝染ルートは、ペスト菌のついたネズミのからだのノミが人間の体に入って噛んでデキモノのようになって感染したと思う。」

 A          隔離された後、近所の人とのつながりはどうなったか。隔離期間中、村人が水や食料を差し入れてくれた。

  「1週間隔離された後は、防疫救助隊が石灰を撒いたりした後いろいろやって、解除されて平常になった。その後の近所の人たちとの付き合いは普通になった。731部隊は周りの村民にねずみを集めてこいという命令を出していた。だからねずみが減ってほとんどみえなくなっていた。しかし、また突然1946年、ねずみが大量に村に出てきておかしいと思った。ねずみのことを見ると敏感になる。ペストの流行はひどかった。二道溝は一番ひどかった。隔離されたのは、私のところだけです。」

 B          第731部隊が何をやっているかを知ったのはいつ頃か。

「そのときは分からなかった。分かったのは、ペストの流行で防疫救助隊が来て、いろいろ説明を聞いて、第731部隊の飼っていたネズミのためだったということがそのとき初めて分かった。第731部隊の内部で使役されていた中国人の労働者もほとんど知らなかったと思います。」

隔離されたのは、靖さんの家、1戸だけです。それは、3つの村(東人子、リハツゲン、二道溝)の中で亡くなった人が一番多かったからです。

靖福和さんは、私たちのために丁寧に証言をしてくださいました。夕方で時間も押していましたので帰路にむかいました。バスの中でまた靖さんは語られました。

「平房区の郊外を通る1本の鉄道があります。列車の窓には全部カーテンがありました。平房区は特別軍事区域なので、そこを通るとき必ず列車はカーテンをしなければなりませんでした。ちゃんと閉めなかったら、憲兵隊に見つかったら逮捕されました。この平房区に住んでいる人たちは、16歳から、第731部隊が作っている特別許可証が必要でした。2.5キロメートルの範囲の周辺にも農民が住んでいました。領民証がないと自由に出入りすることができなかったのです。」いよいよバスは、現在、靖さんが住んでおられる平房区の町の一角に近づいてきました。

靖さんにお礼の気持ちを伝えることになりました。私はそれまでずっと靖さんの証言を聞きながら、靖さんが穏やかに凛として語られるすがたの中に、日本軍に、侵略の残酷さと過ちに、傷つけられながらも生き抜いてこられた人としての固い揺るぎのない思いを感じました。あの12歳の衝撃を思うとき、日本人として心からお詫びしたいと思いました。「日本に帰って、今日ききましたこと、歴史の事実をきちんと伝えることが私たちの努めだと思います。私たち一人一人、自分に何ができるかということを考え、勉強していきたい。日本軍がしたことですが、日本人として責任を感じます。・・・・・」この私に何ができるのか、自分ができることを探っていきたいという思いを言葉が出てこない中でやっと話しました。

靖さんからは、次のような言葉をいただきました。

「私は、日本に行って体験を話したことがあります。行くまでは日本人を憎んでいました。体験を話したくもなかった。しかし、私の辛い思いを共感して聞いてくれた日本人に感動した。そこから教えられたこともあった。これからチャンスがあれば、時々中国に来てください。中国の古い諺のとおりで、百聞は一見に如かず。自分の目で見たり、肌で感じたりすることが一番大事なこと。そしてこれから、日本の若者たちに、ありのままの歴史の事実を伝えなければならないことを痛感しています。今日、皆様に会うことができてとてもうれしいです。幼い頃私の受けた体験や家族の苦しみを話すことは、私にとって辛いことですが、長い目で見ると中日両国人民の歴史教育の一環として、中日友好のためになることで、これからも私の体験を述べ続けたいと考えています。もちろん、今日見学された悪いことは、旧日本軍がしたことであなたたちに罪はありません。これから私たちは、両国の地方の1市民としてどんどん交流しましょう。この交流を通して本当の中日友好が生まれると思います。」深い悲しみの中から立ち上がってこられた人の重みのある言葉でした。辛い気持ちで聞いていた私には温かい言葉でした。「百聞は一見に如かず。」が心に沁みました。こうして中国にきて、二道溝のあの地で体験を聞き思いに触れたことは、自分の身体で確かめたことなんだ・・・ここに来てよかったと思いました。

薄暗くなってきた夕暮れの街角で靖さんとお別れしました。 ホテルに向かうバスの中で今日のことを思い起こしながらいろいろ考えました。 私も日本の戦後は終わっていないと考えています。しかし、戦争を体験している人たちが水に流そうとしている。それはなぜか・・・。犯した罪への謝罪から出発していないからだと思います。自分たちの生活していた土地や生きていた人々を踏みつけられ殺戮された人々の思いを受け止める心です。自分だけを正当化しようと歴史の事実を曲げようとしている一部の日本人を恥ずかしく思います。怒りを覚え残念でなりません。歴史の事実から目をそらせようとする力に対峙していくことが私にできる1つめのことだと思います。次に、見聞きしたことを周りの人に伝えていくこと。私たち民衆は、みんな友好関係を築きたいと思っているんだと実感しました。歴史を生きている私たち一人一人が微力ですが自分を歴史の中に位置付け人間としてどう生きるかを追求していくことが必要です。

最後に、「百聞は一見にしかず。」を実践すること。これは靖さんに教えてもらったこととして肝に命じたいと思います。 辛く苦しい体験を話してくださった靖さんに深く感謝いたします。 靖福和さん、本当にありがとうございました。