私の訴え

      毒ガス島歴史研究所顧問 村上初一    2002年6月

 

 

          

 平和学習に来た人たちに証言をする村上さん(2004年5月)

 私は本年77歳になりました。14歳の春(1940年)高等小学校を卒業して地元大久野島の忠海製造所に養成工として就職しました。

 就職と同時に陸軍技能者養成所に入所して、3年間は学習期間で、化学兵器の工場実習と併せて兵器学の教育並びに軍事教練の指導を受けました。いずれも難しい教科でありましたが、特に軍事教練は厳しくていやな教科課でありました。工場実習とは、化学兵器(毒ガス)製造部門の教育で、毒性の低いものから製造工程を習うのです。

 はじめは、くしゃみガス赤筒・催涙ガスで高学年になると、糜爛性イペリット・ルイサイト・窒息性青酸ガスなどの製造工程も実習しました。この学習期間中に夫々の職種が決まります。

 私は、毒ガス製造機械の修理や新規製作の職場に配属されました。他の同僚は毒ガス製造部門・電気部門の職場に配属されましたが、毒ガス製造が主であるから大久野島で働く限りどの職場であっても毒ガスにまみれるのです。但し、毒ガスに接触する割合は職種によって相違はありました。このことが戦後毒ガス後遺症の発病した割合に関係していったと思います。直接毒ガス製造部門に携わった人ほど重い症状に取り付かれたのではと云えます。このことは戦後になって分かったことであって,製造当時は急性気管支炎の病名がつけられ、軽症の呼吸器疾患で大方の人は二~三日の医務休業や当分の間作業制限が与えられしかも、危険加給が日給の六割増しで増収になることを唯一の楽しみとした。こうして一時は治癒する状態になるが、たび重なるうちに慢性化することが少なくなかった。患者のなかでは気管支炎が一番多いと言うことを聞いていた。自分もその中の一人であったと言えます。

 『大久野島では、肺炎にでも二三度かからにゃ一人前の工員になれん…』と、それがあたりまえのように先輩工員から聞かされたのを思い出します。そんな大久野島の工場形態を紹介しておこう。周囲四、三キロの島は1927年、北西から南西部にかけて土地造成が行われて三軒屋から長浦地域に各種の化学兵器製造工場が建設され化学兵器〔毒ガス〕が製造されていった。私は1948年養成工の課程を終わって諸機械修理工場の鋳造部門に配属されていた。この鋳造工場の特徴は千二百度の耐火構造を持つ溶鉱炉を設置していることです。このような火気を扱う作業場が化学兵器製造工場の中心部に設置されていて常に危険な状況の中で作業が進められていました。溶鉱炉から発生する亜硫酸ガスやび爛性毒ガス製造による排出ガスが、時には滞留し付近の大気環境の汚染につながり、工場従事者の健康及び島の自然環境を阻害したのではと思われる。

 現代は国の公害関係法律の整備が進み、企業は勿論、国民の公害防止対策への理解と努力によって、人の健康および自然の環境保護が守られていますが、戦時中は増産対策を先行し環境汚染防止対策まで、充分に行われていなかった。

 従って公害予防技術に乏しいなか、大久野島ではすべての化学兵器製造現場に、室内の汚染質を排出するための換気扇装置が設置されてはいましたが、構造上及び材質など耐酸性の問題もあり、しばしば故障が発生し作業員を悩ませた。

 工室内では常に完全防護と言われる防毒マスク、ゴム製の服ズボン、長靴、手袋などで全身を包み、不自由な呼吸、談話、視力、聴力などに耐えながら作業体験を積んでゆかねばならなかった。

 このことは国がすすめる化学兵器製造のためだとして、観念的思想がはたらいていたからか気管支炎に罹るのは常識くらいに思った。しかし、国の徴用令、動員学徒令に基づいて働きにきた人たちと、私のように、将来に望みを託し応募した者との思いは違っていたであろうが、化学兵器人道論並びに国民が挙国一致兵役の義務を果たす。と言う精神教育をされたことによって、毒ガス製造の罪意識も感じないで只一途に化学兵器の製造に邁進したのは確かです。

 ではあっても、化学兵器は殺戮に使うものであることは工員たち、皆口にはしなかったが知っていたろう、しかし、この化学兵器が何処に運ばれてどうなって行くのか具体的な実態は知らされなかったし、戦後まで知らなかった。

 1945年8月16日(敗戦翌日)工員はいつものように出勤して夫々の持ち場にたむろして過去を述懐していた、中には出来上がっている者が居た、其のわけはと言えば、敗戦の悔しさを癒すため飲酒により憂さ晴らしをしていたのである。毒ガス製造原料のアルコールを持ち出してのことであったから穏やかでなかった。この事態が広く伝わって行くのを恐れて製造所幹部高等官が制止のための訓示のなかで告げたことに、「我々工員は毒ガス製造の罪で占領軍に拘束される恐れが有る、日本人として、この場に及んで狼狽しないでいさぎよく待機してほしい…。」と言った。このことは、化学兵器製造と、実戦使用したことを恐れてのことであったろうと推察した。其の幹部職員は、今は居ないが、そのときから、毒ガスの怖さは、占領軍に拘束されると言う恐怖に変わっていったのである。いわゆる毒ガス製造の罪を逃れるために毒ガス製造所の工員であったことの証拠を捨てて自分は毒ガス製造工員と関りが無いようにしょうとした。

 しかしその心配不要。1948年11月東京裁判の判決は、東条英機ら7人が絞首刑、木戸幸一ら16人が終身刑禁固刑となった。この裁判では、日本について戦争責任は問われず、日本軍の生物戦(細菌戦)、化学戦(毒ガス戦争)については触れることはなかったのであるが。

 私たち元工員にとって悲惨なことは、戦後毒ガス後遺症の発病により次つぎに苦しみ死んだりすることが起こっていることです。元工員たちは早速組織を立ち上げて国に救済の実施を訴えたのは戦後6年がたっていた。

 敗戦後の失業と食糧難で国民悉く困窮にあえいでいた。それから3年目(1954年2月)、ガス障害者救済要綱が制定になり毒ガス後遺障害救済治療が請けられるようになった。

 ところがこれについては本人申請手続きが必要で大久野島の工員であったことの証拠を添付することとなっていた。然し、戦後これを紛失した人が多く申請手続きに手間取った。

 以前に工員を証するものを故意に捨てた人がいた(占領軍に拘束される恐れから)ため止む無く二人以上の証明人の申し立て書を添付することになった。いずれにしても救済措置のわずらわしさを乗り越えないとならず容易なものではなかった。

 それからおよそ30年を経過した頃に日本の化学戦争実施資料の発見及び証言などにより、大久野島での製造実態、中国に於ける化学戦実施状況が明らかになり、戦争被害の悲惨さのなかには、必ず加害の実態があることを理解すべきだとした。いま中国では旧日本軍が敗戦時に遺棄したであろうと言う毒ガス弾70万発の安全廃棄処理作業が日本の責任により始まっています。また中国ではこの遺棄弾によって被害を受けた人もいて、中には日常生活に耐えがたい状況の人が居られると言うことです。

 去る1997年に発効した化学兵器禁止条約で遺棄化学兵器の無害化処理は義務付けられたがその化学兵器による被害者の救済措置の義務付け等いっさい規約に無いのが当面人道上大きく、気がかりな問題として残ります。

 この問題について化学兵器を作って使った、そして其れを遺棄した日本の現状はどうかと云えば、大久野島で働いた軍人・軍属のほかに動員学徒や女子挺身隊員らが化学兵器だ、皇軍兵器だと教育されながら、毒ガス製品の運搬作業などに従事させられて毒物に触れたりして障害を負った。そうした人たちの救済措置が、やっと官・民格差是正の措置に改正され、2001年4月から実施されることになりました。また、敗戦に伴い大久野島では残留毒ガスの廃棄処分をすることになり、米軍の監督、指揮のもと日本の民間企業が下請負をして日本人400人を雇い入れて毒ガス廃棄作業を実施し1947年6月に完了し、やっと危険な時期を過ごしたのである。

 そして、戦後の失業と食糧難に追われていたその頃忠海製造所の元従業員のなかには、毒ガスに起因すると思われる患者が多発し治療を受けても治癒に至らず、咳がひどく、呼吸困難に陥り、ガンになる者も多く、死亡者が続出する事象が起こった。そこで元従業員たちでは組織を創って関係方面への陳情活動を起したのである(1951年)。このことが広島地方での社会問題として新聞・ラジオなどでその惨状が宣伝され、ついに国会の問題となりました。

 1953年7月、一部の国会議員が中心となり、特別措置法に基づいてガス患者を救済するよう、議員立法によって特別措置法の一部改正を企画しょうとしたが、このガス患者は限られた少数の部分で極めて特殊の事例だとしてか、これを特別措置法の救済対象にするのはいささか無理があること、もしこれを立法化するとなれば、その他戦時中多くの類似事故の場合に波及するおそれもあり、それを一々同法中に取り込むことは、同法の立法趣旨にそうものではないので、大蔵省当局は関係国会議員と折衝し、このガス患者の問題に関する限り、行政措置によって国家公務員共済組合連合会で救済を行わせ、これが立法化の場合と同一効果を挙げさせることとしたものである。

 1954年2月大蔵省から国家公務員共済組合連合会に対して「ガス障害者救済のための特別措置要綱」(蔵計第二八0号)が通達されました。

 こうして障害者の救済が始まったのであるが、この特別措置要綱に見られるようにガス障害者の救済は頭に『毒』の字を使ってない、何のガスか分からないように国は毒抜きにしたのではないかと障害者の間で批判していた。その後救済については、国家公務員共済組合連合会(以下連合会とする)はこの通達に基づき、速やかに救済するため、理事長の諮問機関として、ガス障害調査委員会及びガス障害認定審査会を設けた。そこでガス障害と認定されてその程度が、廃疾程度で特別措置法を適用すれば障害年金が支給されるが、症状が療養を要する程度であれば、連合会関係の病院に於いて療養をつづけさせ必要と認めるときはその病院に入院させることとした(1980年5月発行大久野島毒瓦斯障害者互助会創立30周年記念誌)より。

 以上のような経緯を辿り救済措置が発足されたが、その後幾多の措置改善がなされ現在に至っていますが、ガス障害者があくまでも、旧陸軍造兵廠の忠海製造所、曽根製造所、旧陸軍兵器補給廠の忠海分廠及び旧相模海軍工廠で働いていたもののうち旧陸軍共済組合又は旧海軍共済組合の組合員でガス製造等の仕事に直接従事したものは大蔵省が、なお学徒動員等の、旧陸軍共済組合又は旧海軍共済組合の組合員でなかった者のガス障害の救済措置については厚生省が救済している。

 しかし、毒ガス障害者たちは「われわれ被毒者は其の年代こそ違っていたとはいえ国家総動員法等により強制的に毒ガス製造に従事させられたことによる被毒障害者であり原爆被爆者とはおかれている立場が根本的に異なり、国の責務は一層明らかでありますので、毒ガス障害者に対する国家補償の精神に基づいた画期的な援護対策の確立は急務であります。」(毒ガス障害者援護対策要望書より。)

今もなお国へ国家補償を陳情し続けているのです。