毒ガス・大久野島関連年表

【毒ガス・大久野島関連年表】

1899年:ハーグ条約が戦場での毒物使用を禁止。

1907年、ハーグ第二次条約で再度確認

1915年:ドイツ、第―次大戦で塩素ガスを本格使用

1917年:ドイツがイペリットなどを開発

1918年:日本陸軍が毒ガス研究を開始

1919年:科学研究所(のち第6技術研究所)設立

1925年:ジュネープ議定書、毒ガス使用禁止。日本、ドイツなど批准せず

1929年:大久野島に陸軍造兵廠大工廠忠海兵器製造所が開所、毒ガス製造開始

1930年:台湾の先住民暴動「霧仕事件」で日本車が初めて毒ガス使用

1931年:「満州事変」。大久野島の四種類の毒ガスが制式化

1933年:陸軍習志野学校が発足、T化学戦教育実施。大久野島で初の殉職者

1934年:習志野学校の毒ガス演習で1人死亡

1936年:イタリア、エチオピア侵攻でイペリット空中散布。226事件で習志野学校、毒ガス使用準備

1937年:日中戦争始まる。大久野島の毒ガス生産量,急増

中国各地での実戦使用が本格化

1938年:北九州市の陸軍曽根製造所、毒ガス弾の製造開始

1939年:ナチスドイツ、神経性ガス・サリン開発。旧満州に関東軍化学部(516部隊)編成 毒ガス人体実験も

]940年:大久野島、東京第二陸軍造兵廠忠海製造所に改組

1941年:大久野島の生産ピーク。太平洋戦争開始

1943年:日本海軍が相模海軍工廠開設、毒ガス本格製造。大久野島へ学徒動員始まる

1944年:大久野島毒ガス生産中止・毒ガスを疎開させる・風船爆弾の風船を作る

1945年:終戦、米軍第十軍団が大久野島など日本の毒ガス関係者聴取。国内外各地で毒ガス投棄

1946年:英連邦軍が大久野島などの毒ガス処理、高知沖海洋投棄も。

東京裁判で毒ガス使用が免責

1950年:朝鮮戦争で米国、毒ガス使用を検討

1950年:朝鮮戦争で米軍が大久野島接収・弾薬置き場に使用

1952年:竹原市で毒ガス障害者互助会発足。

広島医科大(現広島大)が初の被毒者健康診断

1953年:大久野島沖で引き揚げた青酸ボンべで1人死亡27人負傷。

1954年:中国古株省敦化市で旧日本軍毒ガス180万発の埋設開始。

大蔵省、特別要項で大久野島の被毒者救済を開始

1956年:米軍が大久野島返還

1958年:和田直広島大教授、毒ガス障害を国際学会で発表

1961年:米国、べトナムで枯葉剤作戦開始

1961年:大久野島ガス傷害研究会発足

1963年:大久野島国民休暇村オープン

1966年:毒ガス傷害者互助会分裂。毒ガス傷害者厚生会発足 

1967年:大久野島毒ガス障害者対策連絡協が発足(毒ガス障害十団体で)

1969年:沖縄米軍基地から神経ガス漏出。国連総会で生物化学兵器禁止決議

1969年:キャンプ場入口の防空壕で毒ガス赤一号発見。自衛隊が島内の他の防空壕も発掘調査してみると約六百の赤筒発見、毒ガスの効力は失われていると防空壕に埋め戻す。

1970年:日本がジュネープ議定書45年ぶり批准

1971年:陸自隊、大久野島の旧毒ガス施設爆破

1972年:北部海岸で海水浴場建設中毒ガス容器二個発見。

1972年:生物兵器禁止条約が調印。宇部市沖の海底で大量のイペリット弾発見

1973年:環境庁が全国の毒ガス処理状況調査、埋設18ヵ所、海洋投棄8ヵ所

]974年:中国黒竜江省で浚渫船、遺棄毒ガス弾で35人死傷

1974年:旧令陸軍共済組合員には大蔵省が、学徒動員・戦後処理従事者には厚生省

健康診断費を負担することとなる。

1975年:厚生省が大久野島動員学徒の救済開始

1981年:イラン・イラク戦争でイラク、イペリットなどの多用を開始

1982年:中国黒龍江省牡丹江市で遺棄毒ガス被害発生

1984年:粟屋患太郎立教大教授、日本の毒ガス使用裏付ける習志野学校文書、

米国で発見

1985年:大久野島毒ガス障害者慰霊碑建立

1988年:大久野島毒ガス資料館が完成。イラク、クルド人鎮庄に毒ガス使用

1990年:大久野島の旧発電所、生徒らの署名活動で存続。

米ソ、化学兵器廃棄協定に調印

1991年:湾岸戦争でイラク、毒ガス使用を準備。

日本政符、初の中国遺棄 弾の調査団派遣

1993年:化学兵器禁止条約を百三十カ国調印。

日本、中国の遺棄弾の処理を義務付けられる

1994年:松本サリン事件

1995年:東京地下鉄サリン事件、陸自隊化学防護隊出動。

日本政府、三回にわたり中国遺棄弾調査、旧日本軍華ガスと確認、

1995年月:広島市南区の出島東公園で 広島県が埋設した旧陸軍の毒ガス原料による

土壌汚染が明るみに出た。

1995年3月:環境庁による大久野島の砒素濃度調査始まる。

1995年5月:北海道屈斜路湖の毒ガスを捨てたという証言がでる。

1996年7月:環境庁が大久野島の砒素濃度調査の結果を公表。

土壌は島内30カ所を調査し10カ所あまりで環境基準を上回る砒素を確認した。

1996年10月:屈斜路湖の毒ガス引き上げ作業始まる。              

1997年:化学兵器禁止条約が発効

1997年4月・5月:大久野島の北部海岸で、毒ガス兵器の一種の「発射赤筒」             と発煙筒の燃え残りとみられる35個の筒状のものが見つかった。

1997年8月:毒ガス島歴史研究所主催「第1回日中友好黒竜江省の旅」

遺棄毒ガス問題を検証する旅を実施。遺棄毒ガス被害者李国強さん・      王岩松さん・李臣さんたちから遺棄毒ガスによる被害の証言を聞く。

 

1997年12月: 環境庁が設置した「大久野島土壌汚染対策検討会」は1997年12月20日   土壌調査と処理対策の中間報告を発表した。59地点365サンプルの  土壌調査を実施。そのうち、島の西側護岸付近の地下4mのところでは  環境基準値の2200倍の砒素が検出された。

             

1998年8月:旧日本軍遺棄毒ガス被害者李国強さんを日本に招き、広島大学・忠海病院で診察を受けてもらうとともに、竹原と広島で証言集会を開いて「中国の遺棄毒ガス問題を日本で広く世論に訴えた。

1998年10月:環境庁の高濃度砒素汚染土壌の掘削、撤去工事始まる。

1999年1月:掘削した砒素汚染土壌を島外で処理するため第一陣五百トンの積み込みが始まった。

1999年3月:砒素除去工事中、大久野島の久野島荘前の防空壕跡で9個の赤筒発見される。

1999年4月:環境庁は砒素汚染土壌の島外搬出工事の概要を説明したパンフレット「瀬戸内海国立公園大久野島感興保全対策」を作製し国民休暇村で配布を始めた。

1999年8月:北部海岸で3個の中赤筒の残骸発見神奈川大学工学部にて詳しく調査した結果、内部の空洞の残存物から高濃度の砒素が検出される。

1999年12月:毒ガス島歴史研究所が大久野島の遺棄化学兵器の徹調査と完全廃棄を

めぐる要請書を環境庁と内閣内政審議室に提出。

2000年9月:中国の日本軍に遺棄された化学兵器の発掘回収作業が始まる。

中国国竜江省北安市で始まる。

 

2000年12月:OPCW(化学兵器禁止機関)から査察団来日。

3月大久野島で発見された9個の大赤筒の処理を査察するためOPCWより査察団が来日、九州の工場での処理査察をおこなった。  

2001年8月:毒ガス島歴史研究所主催「第2回日中友好黒竜江省の旅」

遺棄毒ガス問題を検証する旅を実施。遺棄毒ガス被害者李国強さん・李臣さんたちから遺棄毒ガスによる被害の証言を聞く。

2002年3月:中国遺棄毒ガス被害者李国強さんと張岩さんの竹原証言集会開く。      

旧日本軍が中国大陸で遺棄した毒ガスで被害を受けたとして日本政府に損害賠償請求訴訟を起こしている中国人二人が市民に訴えた。

2002年11月:神奈川県寒川の旧相模海軍工廠毒ガス製造工場のあった場所の道路工事中毒ガス入りの瓶が多数見つかり、道路工事の作業員が発疹や水ぶくれ、体調不良などを訴えた。

2003年3月:茨城県神栖町で旧日本軍の毒ガスが原因とみられる有機ヒ素化合物が飲料用井戸から発見された。そこに住んで飲料水として利用していた住民に被害が出た。

2003年5月:旧日本軍遺棄毒ガス訴訟判決

東京地方裁判所は請求を棄却した。事実は認めながらも請求は認めず。「あまりに理不尽だ」集った支援者達は唇をかんだ。

2003年7月:日本政府による旧日本軍の毒ガス等についての全国調査始まる。

      各都道府県を通じても情報提供を呼びかけた。

2003年8月:中国黒龍江省チチハル市で建築現場から掘り出された旧日本軍のイペりットガス缶5個がうち1本から中身が飛び散って住民ら43名が負傷した。

2003年8月:チチハルの旧日本軍の遺棄毒ガス被害者の一人李貴珍さんが死亡。

2003年9月:福岡県苅田町の港湾で538発の爆弾が発見された。毒ガス弾の可能性

が高い。

2003年9月:中国河北省鹿泉市で日中合同の遺棄毒ガスの発掘・回収作業が始まる。

2003年9月:旧日本軍遺棄毒ガス被害訴訟で勝訴。東京地裁は中国人被害者の訴えを認める判決をだした。中国人原告へ遺棄毒ガス被害の賠償命令。

2003年11月:環境省が全国調査の結果を発表