大久野島の遺跡の概説

                                                                     2004年3月山内正之作成

【参考にした資料】

・平和教育教材集「大久野島」広教組竹原支区平和教育部会編

・大久野島フィ−ルドワ−クガイド用試案 広教組竹原支区平和教育部会編

・「毒ガス島の歴史」村上初一編

・「戦争と平和の島」村上初一編

・その他

【大久野島の遺跡についての概説】

1:発電場跡

@入口トンネル

 発電場の前の小山は,発電場を海から隠すために人工に作ったもので,そのうえに木を茂らせていました。当時はうっそうと木が茂って海から発電場は見えなくなっていました。

中国に造られていた日本軍の火薬庫の施設にも同じようなものが多数みられます。

トンネルのところに書かれている英語:MAGはmagazineの略で火薬庫・弾薬庫の意味です。1950年朝鮮戦争が起こった時、この島は日米安全保障条約によりアメリカ軍に接収され弾薬庫として利用されました。そのとき書かれたものです。

朝鮮戦争の時は弾薬を置いていましたが、朝鮮戦争が終わると,弾薬の処理場となりました。日本に返還されたのは956年のことです。1953年(昭和28年)頃に忠海の町会議員が視察した際,発電場内部に天井まで弾薬が積み上げてあったそうです。

 

A発電場前桟橋

 明治時代に作られた固定の桟橋です。毒ガス工場時代も初め頃使われていた桟橋です。発電場前桟橋は開所当時、人間の上陸にも利用されましたが、その後は資材を陸揚げするために利用されました。

発電場前の石畳の桟橋をあがったところに、憲兵詰所がありました。(裏桟橋の横の広場)憲兵は工場の内部を密かにまわり、従業員などが、島の中でしゃべってはいけないことをしゃべってはいないか調べ思想統制をしていました。

 向かいの本土の呉線は大久野島の見えるところを通る時は海側の窓はウインドを降ろさせられました。大久野島を見せないようにするためです。海岸線は常に写真を撮ったり、おかしなことをしている者はいないか警戒していました。

ある日、小学校の女生徒が望遠鏡で島を見ている人を見つけ警察に通報しました。その生徒は早速、翌日、表彰をされました。その日からたくさんの小学生が海岸線を変な事をしている人はいないか探し歩くようになったとのことです。小学生までが密偵のような事をさせられていたのです。

 

B発電場建物

 発電場の運転は1929年に始まりました。当初は小さい方の部屋だけでした。240v発電機3台(240・125・25kw)を据え付けて電力を供給していましたが,1933年(昭和8)に3.3kv発電機3台(各600kw)引き続き1934年(昭和9)には3.3kv2台を増設して,毒ガス工場の電力をまかなっていました。発電場そのものも、増設されて、最終的には出力3400キロワットまでになりました。太平洋戦争が始まって後、1942年からは重油が入手困難になったこともあり、広島電機株式会社忠海変電所から海底ケーブル2本によって大久野島へ電力が供給されるようになりました。既設の発電設備と海底ケ−ブルによる送電を併用して敗戦までの電力をまかないました。

内部は二階が事務所・一階には開閉器が置かれていました。発電場には工員や技術員が17人くらい常駐していました。発電場には毒ガスの気配は全くありませんから、電気工になって発電場で働くのはエリート・コースでした。

敗戦後、ディーゼル発電器は連合軍に占領品として撤収されました。建物は放置されたままになり廃虚となっています。 大久野島は終戦後、大蔵省・厚生省・環境省と管轄が変わり、現在は環境省が管理しています。

1990年この建物を取り壊そうという計画が持ち上がりました。その頃大久野島に平和学習に訪れた広島県府中市の中学生がこの話を聞き、保存のための署名活動をはじめました。これに呼応したくさんの人たちが署名活動を繰り広げ環境庁にも働きかけた結果,「修復はしないが,残しておく(自然風化)」ことになって今に至っています。

しかし、環境省は積極的に保存しようという気はありません。自然崩壊を待っている状況です。私たちは、何とか遺跡として残したいと運動を進めています。今でも行政の中には「毒ガス工場と関係ないので残す必要はない」との意見もありいつ壊されるか解らない状況にあります。しかし、この建物は当時の工場の電力をまかなった心臓部であり残された大切な遺跡であり平和学習に必要な遺跡であり、是非残さないといけないと考えています。いつ取り壊されるか解らないので今も保存運動を続けています。皆さんにも存続のための署名を是非お願いしたい。発電場の裏には井戸があり,大久野島一の銘水が出ていたそうです。

 

C:発電場外の海水ポンプ室跡 

 正面のトンネルが当時の入り口であり,入ってすぐ右にある小さな建物は,発電用タービンの冷却用の水を海水タンクに上げるためのポンプが置かれていたところです。上の方にある大きなタンクは海水タンクで当時のものです。発電機を冷却したりする為に使われました。小さい建物の中が黒いのは,一時、大久野島荘の焼却場として利用していたからです。

 

D発電場外の重油タンクと海水タンク

 発電場の燃料置き場であるが,現在,久野島荘を改装したときの残土で半分埋もれている。その砂山の上が現在管理型の汚染土置き場になっています。

 

E1944年から毒ガスを作らなくなり,1944年11月〜1945年2月まで発電場の建物の

の一面をそのまま使って,サーカス小屋のような木造バラックを建て,風船爆弾の

気球(こんにゃくのりと和紙を5枚重ねて作った気球)の満球試験が行なわれていま

した。学徒動員で動員された女子学生が作業していました。満球試験とは直径10mの風船を膨らませて穴が空いているか調べたのです。

風船爆弾は風船に爆弾を吊して、成層圏まであげて偏西風に乗せ、2・3日でアメリカ本土に到着して、焼夷弾や爆弾を投下する設計になっていたそうです。1944年11月から1945年の4月まで、アメリカ本土へ9300球放球、そのうち1割の約1000球がアメリカ大陸に到達したと考えられますが軍事的効果はほとんど望めなかったようです。しかし、アメリカに届いた風船爆弾でオレゴン州の牧師一家が被害よ受けている事実もあります。風船爆弾攻撃は1945年4月以降中止されていました。その理由は風船爆弾が逆戻りして国内に落ちて被害を与えていること、戦況が逼迫し、水素ガスの生産工場が空襲で破壊されたりしたことなどによる考えられます。

アメリカでは原子爆弾が生産され、それは広島、長崎に投下され莫大な人命を奪いました。それに対し風船爆弾で対抗しようとした日本の支配者がいかに無意味な戦争を続けていたかがわかります。その無意味な戦争を続ける中でたくさんの尊い人命が奪われていったのです。

 

F:汚染土壌置き場

 環境省の説明によると、島内の工事で出た土壌で環境基準をオーバーしたヒ素汚染土を一時的に保管する場所ということです。一時的ここに置いていて、時期を見て島外に運んで洗浄していると環境省は説明しています。汚染土壌が飛散しないようにビニールシートがかぶせてあります。

 

2:火薬庫

 芸予要塞時代の火薬を保管していました。芸予要塞時代には北部・中部・南部の砲台の弾薬庫でした。5人家族の火薬番人がいたそうです。周りの壁はレンガ造りですが、屋根は火薬が爆発した時、爆発が抜けるように簡単に造られていました。毒ガス工場時代も火薬庫として利用されました。戦後もアメリカ軍が火薬庫として使っていたようでMAGの文字が壁に残っています。この建物の前は,海や対岸から見えないようにダムのような人工的に盛り土をしていあります。冬場、草が少ない時期に見ることができます。

 

3:中部砲台跡

@大久野島の砲台全般の説明

日清戦争頃アジア最強の清国の艦隊やロシアの艦隊が瀬戸内海に入り込み攻撃してくるのに備えて、軍都広島や軍港呉、さらには大坂などの重要都市を守るために、島や岬を利用して芸予要塞がつくられ砲台が設置されました。1902年(明治35)に島の3カ所に22門の大砲が据えられ、夜は探照灯が海面を照らして海上を監視していました。砲台の施設は極めて重厚な切石などで造られており、中部砲台の兵舎の赤煉瓦はロシアから取り寄せたと伝えられています。しかし、当時のロシアと日本との関係などを考えると、この説はやや疑問が残ります。日本でも、この程度のレンガの生産は可能だったという意見もありますので国内のどこかで製造された可能性もあります。100年以上たっても強固な建物として残っています。軍隊のために、いかに膨大な費用をかけたかを知ることができます。 

日露戦争では大久野島の大砲は使用されませんでした。旅順要塞攻撃に苦戦した日本軍は大久野島の中部砲台の28cm砲四門を外して旅順に運び、攻撃に使用し、威力を発揮したとのことです。乃木将軍がそのお礼に忠海町を訪れたとのことです。黒滝山の中腹には、その時乃木将軍が座られたという乃木将軍腰掛けの岩があります。

 日露戦争後大久野島の砲台は広島第5師団移管され、大砲も無用の長物と化していましたが第一次大戦の時、取り外して戦場へ送られ,当時の中華民国青島(チンタオ)攻撃に使われ,それを記念して日本軍占領下の青島には忠海公園(チュウハイパーク)という記念公園があったと言われています。

 忠海町(大久野島を領域とする対岸の町)は,1899年(明治33)に芸予重砲兵大隊を設立,同年には冠崎(かむろざき)に砲台を築き,芸予要塞司令部を設置するなどして,政治・軍事上の中心となり隆盛した。大久野島と併せて陸軍要塞地帯となりました。

 

A中部砲台の説明

この砲台には28p瑠弾砲が6門設置されていました。

28cm砲とは、使用する砲弾の直径が28cmあるからそう呼ばれています。

現在も4門の台座跡が残っています。2門の砲座と司令塔(監視所という説もある)は鉄塔を建設するとき破壊されました。中部砲台の煉瓦は,1902年ロシアから購入といわれていますが定かではありません。大砲の弾は,砲台の壁に穴を掘っていれ,鉄板でおそっていた跡が残っています。伝声管も一部残っており話し声が届きます。空気穴のある密室もあります。大砲の弾を置いた跡も,曲線の部分が他の砲台より違っています。兵舎は仮眠のためのもので,ベッドの支柱の跡が壁に残っています。

 毒ガス工場時代には兵舎は毒ガスの製品置き場に使用されていました。現在でも兵舎の中に丸い砲弾跡が残っているのが確認できます。入口にゲートがあり、立ち入り禁止になっていました。ゲートの横にたて屋があって監視員や毒ガス工場担当者がいました。

検査工室で働いていた人の証言によると、中部砲台のどこかに1平方メートル位に毒ガスをまき、土壌がどうなるか実験していた場所があったと言うことですが場所は確認できていません。

 

4:北部砲台跡

@東側にある北部砲台跡

 周回道路を上り切ったところの道路沿いにあります。忠海方面に向かって4門の12cm砲の砲台跡が残っています。兵舎の中は毒ガス時代は原料や製品置き場として利用されていました。砲台台座跡も製品や原料置き場として利用されていました台座の周りの石垣のへこんだところは大砲の弾を置いてました。台座うち1箇所には,毒ガスのタンクを置いた台石が現在でも残っています。

 

A:西側にある北部砲台跡

 西側の北部砲台は24センチ砲4門が設置されていました。

4つの砲台のうち1つは毒ガス工場時代入り口の道を造るため破壊されています。現在は3カ所の砲台跡が残っています。台座跡には今も大砲の基礎のボルト跡が円形に残っています。毒ガス工場時代は・毒ガスタンクも置かれていました。

 

B司令塔跡:一番東の台座の上には深い井戸があり,そこから水を引いていました。そこから階段を上がると,少し高い位置に司令塔があります。ここからそれぞれの砲座に指示を出していたと考えられます。少し急ですが一番上まで登れば北部海岸が一望できる素晴らしい景色が眺めます。砲台には,伝声管が作られていて,見張りから,下の兵舎までつながっていました。

 

C北部砲台の広場には日露戦争前の明治時代には発電機関舎がありました。

この発電機関舎跡の広場には毒ガス工場時代、8つの砒素を含んだルイサイトの原液タンクが置かれていました。また戦後、この広場は毒ガス工場の廃棄物を焼却処理した場所でもありました。これらが、のちにヒ素汚染を引き起こした原因と考えられます。

 

D環境汚染

1996年の調査で環境基準の470倍の砒素が検出されました。砒素土壌除去工事で、汚染された砂を掘り起こし(地下約7mまで)島外に運び、新しい砂を入れました。                             

 1997年から砒素土壌汚染除去作業が行われ約10ヶ月間この北部砲台跡は、柵が設けられ、立入禁止になっていました。今は芝生を植えて、立ち入り可能になっています。ヒ素汚染された土壌は島外に運び出され、洗浄処理されました。初めは、北九州に処理工場があるのでそこで処理する予定でしたが、汚染土壌の量が多く、北九州では処理しきれず秋田県大館市の花岡鉱業に処理させたとのことです。

 この処理する場所についても、環境省にどこで処理するのか尋ねても教えてもらえませんでした。長い間、どこにもって行って処理したのだろうと思っていたが、インタ−ネットで秋田県の大館市に運ばれ処理されたことが解りました。「秋田県大館市でも市民の間から反対の声があがったが市議会で決定され受け入れた。」との記事が大館市の地方紙で報道されています。危険なものはどこにもって行っても危険なのだから国がもっと責任を持って安全なところに処理すべきでではないでしょうか。

 

E兵舎跡の一番西は毒ガス工場時代、倉庫として利用され、純度の高いエチルアルコールを保管していました。これは,エチレンガスを作るためである。青磁管を炉の中で加熱し,そこに霧状のアルコールを加えるとエチレンガスができたそうです。

 

5:焼却場跡

@1937〜1938(昭和12〜13)までは海岸の砂の上で焼却をしていました。そのため、完全あるいは不完全な燃焼毒物が海中に流れ込んでいました。焼却場の作業員の防毒衣は5人に1個支給されていました。危険で大変な仕事でした。ここで、働いていた人は戦後、毒ガスの後遺症で、早く亡くなった人が多いのです。各毒ガス工場から運ばれた毒ガスの不合格品・毒ガスの防護服、手袋、ゴミなどを焼却したので、被毒する場面が多かったのです。黄色い煙などもでていたそうです。

1941年(昭和16)焼却炉が完成、石炭で下から焼くようになりました。焼却場へのゴミの運搬には学徒動員も使っていました。当時、ゴミを焼却場に運ばされていた女学生の証言の中に、「焼却場では、黄色い煙、黒い煙、赤い煙と日によって煙の色が違っていた。」という証言があります。かなり、危険な物が色々燃やされていたと思われます。

イペリットや原料が硫黄性のものでどんどん燃えるのではなくじわりじわりと燃えます。ルイサイトも燃えにくく、原料のヒ素は残るしなかなか燃えにくく大変だったようです。どうやったらうまく燃えるか焼却場に勤める人は、いろいろ工夫していました。最初は焼却場に5〜6mの煙突が建っていました。煙道を長くし吸引力を高めれば良く燃えるのではないかと考え山をくりぬいて、山のてっぺんに煙が出るようにしました。山の一番高いところに煙の出口があり2〜3mの煙突がありました。

 ここで働く人は危険だということで給料も高い方でしたが、戦後、毒ガス障害によって早く亡くなられました。工場から出たゴミの焼却の運搬をした女学生も障害を受けています。 

 

A煙道口

 焼却場のすぐそばの道路沿いに煙道口が3つあります。北海岸の焼却場から煙道口までは煙の風道をひいていました。燃焼力を強めるため高い煙突が欲しかったのですが島外から高い煙突があるのが見えないようにするためという意味もあったと考えられます。煙突管を山の斜面にはわせたと考えられます。山の上に短い煙突がありました。現在煙突はありませんが山の上に煙突の出口の穴が残っています。3本の煙突跡も確認できます。山頂の煙の出口は1つにまとめられています。

 

6:北部海岸

@毒ガス工場時代は発煙筒の発射実験場にもなっていました。そのため発煙筒などの燃えカスが海に落ちています。(    )年にはこの海岸から小赤筒が1本、1997年の清掃活動でも35個の燃えカスが発見されています。また、西の端の海岸では1998年8月に3個の中赤筒の残骸が発見されています。

 戦争中にはこの海岸で、点火試験が行なわれていました。向こう側に発射台がありますります。ここから発射式の赤筒、あるいは発射式の発煙筒、通常発煙筒、いろいろな実験が行なわれました。発煙筒は点火すると煙幕をつくるんですけど、煙がでないといけないんですが、発射式の赤筒は燃焼してはじめて猛烈な毒が発生するので、燃える状況が実験されました。赤筒は缶のままで保管できるんですが、この缶がブリキですから、非常に腐食しやすい構造になってので、よくここで、燃える状態がどんなのかという試験が行なわれました。岩場の先端にコンクリートでトーチカいうんですか、もし身体にあたらないようにコンクリートの遮蔽(しゃへい)するものがここにつくってあありました。そして、試験官はその中に入って点検するわけなんです。この点火試験場は学徒動員の生徒はよく点火試験の様子を見学させられました。岡田先生の動員学徒の語り部の中にも、その様子を絵に描いたものがあります。

 点火試験のねらいは、命中度じゃなくて、ガスの発生がうまくいくか、くしゃみ性ガスは、火が中にうまくいくかということの実験でした。うまく飛ばんといけなかったんです。うまく飛ばんということになると、それじゃ効力がありませんから、もうちょっと強力なものを使うとかするんです。発射式赤筒はそこらに飛びちるです。だから、ここらにも飛び散った残骸が残っている可能性があります。一番目に付きやすいで、早く整理されたんです。この海岸には発煙筒がいっぱいありました。点火試験の時の発煙筒だけでなく、戦後処理の残がいもたくさんあります。戦後、この海岸から毎日のように煙が出るのをたくさんの人が見ています。発射赤筒なんや発煙筒を燃やしていたのと思われます。

 

A北部海岸では戦後処理の時、焼却も行われました。また、毒ガス容器の解体作業や毒ガスの積み出しもこの海岸で行なわれました。海岸には毒ガスが流れ出したり、いろいろな危険物が棄てられています。たくさんの陶器の破片が現在でも潮がひいたときは海岸に多数みることができます。これはイペリットやルイサイトの毒ガスを作るときの原料にする塩酸とか硫酸とかの製陶製容器欠片です。塩素は鋼鉄のボンベの中に入っていたのですが、塩酸とか硫酸とかいいうものは、こういう瀬戸物の容器の中に入っていました。大久野島に来て、はじめて就職した人たちが、のどを刺激するようなにおいがあるとむせたのは、この硫酸とか、塩酸とかからガスが発生しますのでそれが原因でした。今でも、湿度が高くなったら蒸発し化学変化がおこし、そこを通ると、のどを刺激する可能性もあります。北部海岸に、たくさんこういうようなものがあるのは、戦後、ここで容器を全部割ったと思われます。

 

B戦後処理と戦後の毒ガス発見

この海岸からは戦後処理の時、海洋投棄するために毒ガスが艦艇に積み込まれました。

1946年7月28日夜半台風が来襲、毒ガスを積み込んでいた艦船(LST)のワイヤ−・ロ−プが切れ艦船が、沖に漂流し危険な状況になった。もし、沖に流された艦船(LST)が転覆し積んである毒ガスが流れ出したら瀬戸内海は大惨事となるところであった。Sさんは米軍将校の命令で、切れたワイヤ−をつなぐため海に飛び込んだ。艦船の転覆は防げましたが、海に飛び込んだSさんは海に流れ出た毒ガスにやられ、死ぬ目に遭い、その後遺症は今もSさんを苦しめています。

1972年4月、この海岸の護岸工事をしている時、二個の毒ガス缶が掘り出され、作業員が毒ガスの臭気にやられて病気になったこという事故も起きています。

これは昭和47年の5月に起こった事件ですが、ここはその頃、北部海水浴場として使われていました。ところが、事務所・売店もつくり、いよいよ護岸工事をやるときに問題が起こりました。工事をする人が海岸を掘っていたらかなり強烈な臭いがして、こりゃどうもならんということで、毒ガスということで、ややこしいことになっちゃいけんので、掘り出さなかったんです。それから、何日かたったころに、工事をしていた人が、わしはかぶれたんじゃ、あのときにというようなことを言い出して、それをマスコミが聞きつけて取材に入ったんです。海水浴場の海岸に出る石段がほとんどできあがっていたのを、ここにはわしらが掘り出したものはないような気がすると言ったんです。けれども、探していくうちにさびたボロボロの容器が二つ出てきました。その容器はイペリット・ルイサイトを入れる容器でした。先日、変な臭いだと言った工事関係者が首をかしげて、この缶ではないような気がすると言ったんで、ほかにもあるのではないかと海上自衛隊(10人ぐらいの部隊)が来てそのあたり、一体を掘ってみましたが、それらしきものは発見できませんでした。それで異常なしということになりました。掘り出した二つの缶は1つの方はもう腐って中に何もありませんでしたがもう一つはわりと底の部分が壊れていなかったので、中に内容液がありまして、その内容液を国の分析センターで検査したところ毒性はありませんでした。こういう報告があって、問題は一件落着しました。5月に発見され、答えが出たのは12月でした。そのとき、竹原市議会も連名で完全な大久野島の毒ガス処理をしてもらうように、それと、元従業員の救済をということで国に申し入れしました。

また、1998年8月には西の先端の砂浜で3個の中赤筒も見つかっています。これからも、これからも、波の荒い日など、海底から赤筒の筒や発煙筒の残骸が打ち上げられる可能性があります。

 

7:長浦貯蔵庫跡

@島内で一番大きい貯蔵庫でここには6部屋あり各部屋に100トン入る鋼鉄のタンクが置かれていました。合計600トンのイペリットやルイサイトが貯蔵されていました。それぞれタンクが1個ずつ縦に置かれていました。その巨大さが大きな台座からも想像できます。毒ガス貯蔵量は島内で約3000tだったので5分の1がこの貯蔵庫に貯蔵されていたことになり、この貯蔵庫がいかに巨大なものだったかがわかります。入り口の左右の小さい部屋には,真空ポンプの機械と換気の機械が置かれていました。真空ポンプの機械は,毒ガスを毒ガス工場から工場車(電動車)で運び,真空ポンプでタンクに取り入れていました。毒ガスは背の高さの穴にホースを通しポンプを使い、出し入れしていました。また,換気扇用の機械は,漏れたガスを上部の穴から換気し,一番奥の穴から上に排気していました。現在は海側からでも換気用の煙突が見えます。コンクリートの壁には迷彩用に色の付いた壁を塗ってありました。壁が黒くなっているのは戦後処理の時、除毒のため、火炎放射器で焼いた跡です。当時はスレートの屋根があり、屋根にも迷彩色がされてありました。屋根は戦後処理の時、毒ガスを抜き取った後,タンクを撤去するために屋根の部分を取り外し作業したため今はありません。タンクは大きい櫓を組み,チェーンブロックで横倒しにし,切断して捨てました。

 現在、長浦の貯蔵庫は海から望めますが,当時は貯蔵庫の前に小山があり,海からは見えないようになっていました。

 

A戦後ここに貯蔵されていた毒ガス(猛毒のイペリット)は,艦船(LST)に積み込まれ、四国の土佐沖120kmの太平洋にまで運ばれ、艦船もろとも海中に沈められました。戦後処理でこの貯蔵庫の猛毒イペリットを艦船に積み込む作業は困難を究めました。貯蔵庫から山沿いに内部に鉛を貼ったパイプを船までつなぎ、真空ポンプなどで送り込みました。寒くなり、毒液が粘ると作業が難しいため、台風の危険性は予知しながらもあえて、毒液が粘りにくい、気温の高い夏場、7月頃を選んだのも、作業を少しでも能率的におこなうためでした。そのために1946年7月の作業中、台風による事故が起こって、被害者が出ています。

 

8:茶工室

@ 茶1号、すなわち青酸ガスの製造工場があったところです。

茶1号は最初、現在の国民宿舎近くの、検査工室のところ工場がありました。1941年、青酸ガス事故が発生し、幸見亀吉さんが死亡しました。サイロームの製造工程で吸引剤を詰めた缶に青酸貯槽からゴム管を通して生産を注入するとき、ゴムの前掛けに約30グラムの青酸液をこぼした。それが防毒面の吸収缶のそばだったため気化した青酸ガスを吸い倒れたのです。休憩所で防毒面をはずした時の出来事でした。青酸工室では何人も青酸を吸い中毒で倒れたそうです。普通は30分ぐらいしたら意識が回復したそうです。幸見さんは最初の殉職者でした。この事故以後工場にはジュウシマツの鳥かごが下げられるようになりました。この事件があって茶一(青酸ガス)の工場は危険であるからと、1941年(昭和16年)にこの位置に移転しました。

 

A上の山腹に原料の硫酸を置いていた建物がありました。今でも広場と一部残骸が残っています。

 

9:毒ガス貯蔵庫跡( 現在の自動販売機の裏側。)

@毒ガスを貯蔵していた部屋が6つあり、一つの部屋に20〜30tのタンクが1個づつ、計6個置かれていました。現在は半分埋まっています。戦後の毒ガス工場が爆破解体された時、この貯蔵庫の上が残骸のコンクリートなどの捨て場とされたため埋まってしまったのです。現在でも、貯蔵庫の上にはたくさんの建物を壊したコンクリート塊が廃棄されています。戦後処理の時にはこの毒ガス貯蔵庫から北部海岸までパイプをつないで毒液を船に積み込んだそうです。

 

Aこの前の海岸近くに長浦桟橋がありました。1943年からから大久野島に来るようになった学徒動員はこの桟橋から上陸していました。桟橋は戦後しばらく残っていましたが、台風などで壊れ、現在、桟橋はありません。

 

10:毒ガス工場と倉庫群(テニスコート付近)

@長浦貯蔵庫跡から島の南端にむけての沿岸地帯(今、テニスコ−トの並んでいるところあたり)は,島の平坦地で毒ガス製造工場と製品倉庫などの最重要施設が並んで建てられていました。長浦貯蔵庫の方から茶1号工室(青酸ガス)・緑1号工室(クロールアセトフェノン)・緑筒工室・製品倉庫・発煙筒工室・配合室・製品倉庫どの建物が、ならんでいました。敗戦後しばらくの間いくつかの建物も残されていましたが、今は跡形もなく,なり、元の工場跡には16面のテニスコートがつくられています。

 

A証拠隠滅

この海岸は毒ガス工場時代には工場からの汚水が垂れ流し状態で排水されていました。さらに敗戦の翌日、毒ガス製造の秘密を隠匿するためにたくさんの毒ガスや工場の機材が小久野島や松島付近の海中に投棄されました。国から証拠隠滅の命令が出たのでした。大至急解体せよとの命令が工務掛員にありまたが、「戦争も終わったことだし、危険な解体作業はしたくないし、命令には応じない」と言うと,工務掛長が「君たちは最悪の場合,毒ガス製造の罪で占領軍に拘束されるかもしれない。今のうちに証拠隠滅しておく必要がある。」と言われ,それは大変と、8月15日〜9月11日までに取り壊しました。

当時、茶工場は極秘の工場であったので急いで証拠隠滅する必要があったのです。40日間という期日を切り(それより早くてもかまわない)日当・危険手当(毒ガスの危険手当は6割だが,このときは10割出して従業員を確保し,急いで作業をしたそうです。。筏を組み、設備を壊して筏に積んで海に捨てたという。設備を海に捨てたとき鯛やヒラメなど大量に魚が浮いてきたのを、みんなで獲って食べたという。鉄板類は1m四方に切断し,水深15米より下に沈めると言うことだったが,この鉄板類は大久野島と松島〜小久野島の間に沈められました。そのあたりはは深くなっているからです。

 

B「貝の告発」の話

 1947年6月 県立広島医科大学(現広島大医学部)生物学教室の松本邦夫            教授が大久野島の生物生態系を調査しました。大久野島がGHQから日本政府に返還されたのは1947年6月13日です。返還を待っていたかのように松本教授は二隻の船で大久野島へ渡りました。島に上陸した松本教授は不気味な様相に目を見張りました。全島くまなく約3pの厚さにまかれたさらし粉、鼻をつく悪臭、目にしみる刺激箇所がいたる所にありました。松本教授は1948年の7月まで一年間で八回も大久野島に足を運び調査しました。調査してみると、南側の事務室のあった所の下の海岸には数多くみられた、小貝類が毒ガス工場のあった地域の西海岸には全く生息していないことがわかりました。一年後の観察でも、カニ、フナムシなどが島全体に増殖しているのに、毒ガス製造工場の下の西海岸は極端に少なかったのです。

 松本教授は「工場下の石垣や砂を洗った海流が左右から西海岸に押し寄せ、会合するため、毒の影響が一番ひどかったのを証明する」と論文にまとめました。(昭23年8月20日)。だが、「貝の告発」の松本論文は占領下とあってすぐに発表することができず、教室の片隅にホコリをかぶってうずもれ、毒ガス障害が医学のテ−マにのるのはさらに4年の歳月を待たねばなりませんでした。     

 

11:長浦工場群(現在の運動広場のあたり)

@ドイツ式イペリットが製造されていました。昭和12年(1937年)頃から本格的に製造が始まりました。ドイツ式イペリットは黄1号甲と呼ばれ、強烈な皮膚障害与えるもので、空蒸留工室が現在の広場の半分から山よりにありました。また、ソ連や中国東北部の寒冷地での毒ガス戦に備えた不凍性のドイツ式イペリット黄1号丙も独自に開発され製造されていました。黄1乙(フランス製イペリット)は,不純物が多いため,再蒸留をして純度の高いものにしていました。イペリットは材料から製品になるまでに7時間かりました。この労働には危険なため6割加給されました。

 

Aヒ素汚染

1996年この工場群のすぐそばの海岸線の道の地下4mくらいのところから、2200倍の高濃度のヒ素が検出されました。ヒ素を原料としないイペリット製造工場の場所からなぜ高濃度のヒ素が出たのか不思議に思い、1937年の地図を調べてみると、ここはイペリット製造工場の前は赤筒の製造工場があったところでした。毒ガス工場も16年間の間に施設は移動している処もあるのです。2200倍のヒ素が検出された位置には汚水を貯める沈殿槽があったのでした。沈殿槽は今のようにコンクリート防護された沈殿槽ではなくそのままの土壌に染み込ませた沈殿槽でした。工場が移転した後、沈殿槽は埋められその上に従業員の待機所が作られていたのでした。だから地下4mのところから高濃度のヒ素が検出されたのでした。1998年の汚染土壌除去工事で海岸線を削って汚染土壌を全部取り除き今はコンクリートの階段で地表は覆われています。

 

12:野ざらしの貯蔵庫跡 (南の階段を上がった山の中)

ドイツ式イペリットを作っていた工場の隣なので,この製品を貯蔵していたタンクが置かれていたと思われます。ここのタンクは,簡単なわらぶきの屋根があっただけで野ざらしの状態でおかれていたので私たちは野ざらしの貯蔵庫と呼んでいます。空き缶を横にしたようにタンクが置かれ、台座4つで50トンのタンク1つが載せられていました。台座は全部で32個あります。8個のタンク、全部で400tの毒ガスが貯蔵されていました。当時はこのように木は茂ってなく少し山の上には従業員の退避壕跡も残っています。退避壕といっても溝を掘った簡単なものです。少し東側上の山腹に海水タンクがあり現存しています。

13:毒ガス貯蔵庫跡(国民宿舎横)

現在の国民宿舎の前、やや海岸よりにあったフランス式イペリット工場(A4工室)で作られた毒ガスイペリットが貯蔵されていました。2つの部屋があります。それぞれの部屋に20〜30トンのイペリットの毒ガスタンクが一つ置かれていました。ジュ―スの缶を横にしたように毒ガスタンクは置かれていました。

イペリット・ルイサイトなどの液体毒ガスは,内側に鉛を張り付けた鉄製タンクに入れて貯蔵していました。毒ガスの原料は塩酸や硫酸が使われていましたから、鉄では腐食するからです。毒ガス缶の内側に鉛を貼り付けていました。従って大久野島には鉛の加工工場があり、そこで加工されていました。従って大久野島では相当の量の鉛が使われたとい考えられます。戦後大久野島に残っている鉛を取りにたくさんやってきたそうです。釣りをする時のの錘などに使うためです。鉛の加工工場は現在浄水施設がある前のあたりにありました。

 

14:三軒屋工場群(主要な生産工場から説明)

@A三工室ュ(ルイサイト生産工室)

現在の国民宿舎の位置にありました。国民宿舎の後ろの山にある海水タンクは当時の者で写真で見ればほぼ国民宿舎の位置にあることがわかります。この工場は二番目に大きい工場でルイサイト(黄2号)と三塩化砒素が製造されていました。この工場は壁を隔てアセチレ発生ン工室・白一(三塩化砒素)工室・ルイサイト工室の三つの工室から構成されていました。3つの工室はパイプでつながっていました。毒ガスのルイサイトを造るため、その原料となる三塩化砒素とアセチレンをまず造っていました。三塩化砒素を化成釜に入れてアセチレンをふかすとルイサイトが製造できました。危険な労働なので6割加給でした。

この工場で働いておられた方の証言によると、「作業は非常に危険で、自分の命と引き替えに働いていたようなもので、工室内には空気調節設備も無く、作業の途中、毒ガスが漏れると逃げ出して、白い煙が収まると又、工場に戻って働いた。毒ガス製造工程操作はすべて手動で、常に危険と直面していた。そして、被毒した時も除毒剤は用意されていませんでした。」ということです。ルイサイトの毒性は猛烈で、動物実験ではウサギの毛を刈り露出した皮膚にルイサイトを一滴つけるとその跡が青色にえぐられていきました。これは、砒素系毒物の特性でした。ルイサイトは猛毒なので「死の露」と呼ばれました。

 

AA四工室(現在の国民宿舎から海よりの広場のあたり)

A4工室ではフランス製イペリット(黄1号乙)を生産していました。大久野島で最初に手掛けたのはフランス式イペリットでした。有毒ガスが発生するので室内の空気はガス清浄塔を通して無毒化されて、排風機によって外に排出されていました。1934年(昭和9)日産3tを生産していました。 写真で見るとこの工場群にはたくさんの煙突があるように見えますが、煙突は3本しかありませんでした。煙突に見えるのは、多くは換気口でした。工場内部を常に換気しておく必要があったので多くの換気口が煙突のように造られていたのです。しかし,その換気扇は酸化のためよく故障を起こしていました。工員は昼夜3交代制で勤務しました。ここでの労働は危険が伴うので、危険手当は6割加給されていました。

 

B赤1工室(ジフェニールシアンアルシン)

ちょうど国民宿舎の前の道路沿いあたりに工場があました。くしゃみ性の赤剤が生産され、赤筒に填実されていました。ジフェニールシアンアルシンは陶器製の二重釜に塩酸を入れ約60度に加熱し、シモリン・硫化ソーダを攪拌しながら混和しこれにソーダ灰を加えて沈殿させ上部の希塩酸液を棄てたのち青化ソーダ溶液を流し込んで精製が行なわれていたので製造中に生じたガスで排風機が絶えず酸蝕されて故障を起こしていたり、攪拌機及び釜が破損した時や製品を取り出すとき毒液の被害を受けることが多かったのです。

ジフェネニーシアンアルシンはシモリンと呼ばれました。シモリンとは林茂が発案し,林茂氏を下から読んで氏茂林と呼称していた。シモリンは砒素を原料としていました。

赤剤はヒ素を原料とする毒ガスです。毒ガスの中では比較的毒性が低く致死性ではなかったために、当時は毒ガスの範疇に入れていなかったようにところもあります。しかし赤筒は中国戦線で最も多く使われたと考えられる毒ガスで、戦争が膠着状態におちいると発煙筒と混ぜてたびたび使用されています。村を攻撃するとき前もって赤筒による毒ガス攻撃をかけ、苦しくなって飛び出してくる住民を機関銃で狙撃して殺害するという方法が取られたのです。致死性ではないといっても使い方によっては恐ろしい殺傷力を発揮します。そのいい例が中国の北坦村での村民虐殺事件です。1942年5月日本軍は地下道に隠れている約1000人の村人に対し赤筒を使用しました。隠れている地下道に赤筒(毒ガス)を投げ込みそのガスにより約800人の村人が窒息死したのです。このように赤筒も使い方によっては大きな殺傷力をもっており、非致死性とはいえないものでした。

 

C赤筒工室 

ここはくしゃみ性ガスのジフェニール・シアンアルシンの加工工場でした。赤一工室で製造された赤剤が充填された赤筒の口にテープを張ったり、摩擦版をつけたりして赤筒の完成品をつくっていました。そして製品になった赤筒を運搬用の箱に入れていました。ここではたくさんの女性が労働に従事していました。比較的危険性が少ないからです。しかし、赤筒の中には毒液が表面に付着したものもあり、作業中、それをふき取ったりしている中で知らぬうちに手についたりして作業に携わった女性従業員などたくさんの方が被害を受けています。女子工員は防毒服を着用せずただマスクや綿手袋をしただけで作業していた、また室内はガス臭が充満し室内で作業しているうちに毒ガスを吸い込んだため被害を受けたと考えられます。

戦後赤筒工室は解体されるまでの数年間、農薬工場として使われ、国民休暇村ができてからはしばらく、冬は虹鱒の養殖場、夏はプールとして利用されていました。

 

15:研究室と検査工室

 毒ガス工場時代に使用されていた建物では発電場に次ぎ大きなもので重要な遺跡です。この建物は研究室として利用されていました。ここは,毒ガス製品の管理や機密書類の保管,さらにはイペリットの試験薬をつくるなど毒ガスの検査などをしていました。中に薬品庫もありました。陸軍造兵廠の研究室も置かれていました。

隣の建物は検査工室で,毒ガスの濃度含有試験などをしていました。検査工室は窓の上に換気用の穴があります。建物にMAGという英語が書かれています。MAGとは火薬庫の略で朝鮮戦争時代にアメリカ軍が火薬庫として利用していたと思われます。

この2つの建物は戦後,国民休暇村の宿泊施設としても使われていました。

国民宿舎が自転車の置き場や紙すきの実演場として利用されていました。今作られているビジターセンターは当初この位置に作られる予定でしたが、重要な建物遺跡なので残して欲しいと話し合った結果、ここには作らず、現在のところに造られました。

 

16:毒ガス資料館

@この資料館は1988年(昭和63)に設立されました。

 毒ガス障害者団体や近隣の市町村が出資して建てられました。百六十平方メートルの館内に約470点の防毒マスクや作業服、写真、文献が展示されています。毒ガス工場は秘密工場だったため、戦争後、証拠隠滅が行われ、働いていた従業員も軍の命令や責任追及が及ぶのを恐れて、いろいろな毒ガス工場時代のものは焼却していました。そのため思うように資料が集まらず資料の収集には苦労したそうです。 今、資料館は竹原市が管理していますが、資料館が建っている土地は国のものなので、国より資料館の敷地は無償で国より貸与されています。そのため、木を切ったり、何かしようとするときは国の許可が必要です。

1994年3月スライドやビデオが上映できる研修室が増築され今の広さになりました。研修室では証言ビデオや大久野島の紹介ビデオがセットしてあり自由に視聴することができます。 

毒ガス資料館には子どもたちが平和学習のために遠足や修学旅行で訪れます。また世界で唯一つの毒ガス資料館でもあり、最近では海外からの参観者も多くなり、ジャ−ナリストや学者が多数訪れています。

広島の原爆資料館は戦争における被害の悲惨さが展示されています。毒ガス資料館は日本のおこなった戦争における加害の歴史が展示してあります。日本国内にたくさん戦争に関する資料館がありますが日本のおこなった侵略戦争の加害の歴史を取り上げているのはこの毒ガス資料館だけです。そういう意味で内外から注目されています。

 

@     資料館の外に毒ガス製造工場の陶器器具が置かれています。毒ガスの製造には硫酸

塩酸など色々な薬品を使用しますから鉄では腐食するため、陶器の器具が多く使われました。陶器の器具は京都の高山窯などでつくられました。  

道路側に壁が造ってあるのは、毒ガス製造用具が通に面して陳列してあるのは見て公園にふさわしい景観でないとの理由からだそうです。

 

17:幹部用防空壕

@幹部用防空壕は 石垣で上に土を盛り,非常に強固に作られています。入口が2つあり、半地下で中は、高さ約2m・幅約2m・長さ約5mの広さでカマボコ型になっています。他の防空壕と比べて、強固に造られており軍幹部がいかに他の従業員と比べて優遇されていたことが解ります。

 

A従業員などの待避壕

  階段から技能者養成所にはいるところの左手側に防空穴跡があります。一見、溝のように見えますが、いざ、空襲があった時などは逃げ込む場所でした。工員は地面に穴を掘り(1mくらいの大きさ,通称、たこつぼ)上に草や木をかぶせた簡単なものです。木を切ったりした時、毒ガスの汚染で手などが腫れることがあったそうです。

 

18:通信壕

 コンクリートで強固に囲まれたこの壕は,米軍の空襲に備えて,非常の場合に備え電話の自動交換機が置かれていていました。中は畳6畳くらいの広さの部屋があります。

 コンクリートの基礎の上に,色をまぜたコンクリートを薄く塗って迷彩を施しています。下の部分が黄色,上の部分が緑。現在も見ることができます。

 

19:工場事務所 

@資料館前の広場から海岸部分に工場事務所がありました。

地形・風向きから毒ガスの影響が及びにくいところに作られていたのです。

所長室跡など石畳と門柱の基礎が残っていたましたが1999年の公園化工事でなくなってしまいました。山に向かって左が,高等官食堂(会食所)。正面に事務室(庶務,会計)一番左が所長室(切り株のところ)になっていました。所長室前を通るとき(医務室などに行くため)は,所長がいなくても敬礼(軍隊の敬礼と,民間人の最敬礼)をしなければならない。一人での敬礼は,止まっての敬礼。2人以上は一人が「歩調とれ,かしら(頭)右,左,なおれ」と言った。所長がいなくても庶務のだれかが見ているので,忘れたときは呼び止められ,どこの工員で名前は何というか聞かれ,一連の注意をあたえられた。運悪く所長がいた場合は厳しく処分されました。

 

A表桟橋からあがった広場あたりは,工場地帯をもうけていない。堀切や山を隔てて工場地帯がある。事務所側から風が吹いている場合には,工場地帯で事故があり,毒ガスが漏れてもここの広場には来ないし、工場地帯側から風が吹いている場合には、山に風が当たり上に吹き上げるので被害はないと考えて建てられました。しかし、実際には、毒ガスは風邪にも乗って島内全域に飛散していたと考えられます。陸軍の工場なので,大久野島の事務のほとんどは陸軍の士官が行っていた。高等官食堂とは,その士官のための建物。軍は贅沢だからといって,講堂を建てていない。各工場にそれぞれ会食所があり,そこで休憩や食事を行っていた。

 所長の階級は中佐,工場長の階級は少佐となっていた。工場では非常に厳しい階級制度を設け,いろいろな賞与を考えて,工員を働かせていた。工員長は工員の私生活まで知っており,工員に精勤賞(休まず,勤勉,思想穏健,病気にならない)を与えるよう,係長に名前を挙げ、係長が承認し所長に報告したそうです。

 

B工場には防毒面は大中小しかなく,それに合わない顔は,顔を合わせろと言われていた。怪我をしようものなら,まず防毒具を完全に着けていたか聞かれ,着けていなかったら逆に怒られている。「陸軍造兵廠歴史」のなかに,大爆発して大怪我(火傷)をした人の記録があり,まず,防毒具を着けていたか調べられている。そして,記録には「本人、命に別状無し,破損機械器具何個,薬品何個」というように,工具の記録が非常に多く、そこで働いていた人間よりも、工具の方を大切にした。人命軽視の工場だったことが解かります。

 

20:慰霊碑(戦後建立)

危険で過酷な毒ガスの生産,あるいは戦後の毒ガス処理に従事して障害を受け,療養の甲斐なく、亡くなった人々の尊名がおさめられています。(1985.5建立)

毒ガス資料館建設を計画していたころ,広島大学医学部の先生が「毒ガス資料館も大切だが,毒ガス障害者が治療の過程で,毒ガス被害治療の確立に貢献した。これまで犠牲になった人たちが,解剖所見を提供したことが,治療方法の確立を計る礎になったからだ。毒ガス資料館も大切だが,障害者の慰霊碑の建設も急ぐべきだ」との発案から,毒ガス障害者団体や行政が呼応して寄付を仰いで1985年に設立されました。

毎年10月初旬に慰霊式が行われます。慰霊碑の裏に過去帳がおさめられており,2002年10月現在で2691人が奉られています。過去帳に記載するのを手伝っておられた大久野島で働いた工員の方は「毒ガス障害者名簿に名を連らねていた人が,死亡によって名簿から消え,今度は過去帳に移るのを見ると悲しい。毎年70数名死亡している。平均年齢77才で,自分も70才になるとき,後数年の命かと思うとさみしい」と語っています。

 

21:大久野島神社

@大久野島は,三次藩の領土(忠海を含む)で,床浦に神社があったが,大久野島にも人が住むので,床浦の神社から神体が遷祠されていた。もともと,今の久野島荘の横に久野島神社はありましたが1927年、軍による土地買収のため,神社地は山林地目に変更。神社の神体は移転。毒ガス工場開所1929年(昭和4)の際,いったん忠海の床浦(宮床)神社に遷祠され,従業員たちで社殿を修復して「大久野島神社」と改称し,1932(昭和7年)に現在地に移転しました。

 境内で養成工の卒業式が行われている写真が残っています。軍人勅諭の碑もおかれ,陸軍記念日や祭りごとにはここで式がおこなわれました。毎月八日には大昭奉載日(大東亜戦争の始まった日)で神社前広場に全工員が集まり挙式があり、時局認識を昂揚する所長訓示がありました。また紀元節・天長節・明治節にも同様な式が挙行されました。境内では,工員の軍事訓練も行われた。寒稽古や土用には厚着をして稽古をしました。

境内の鳥居は,忠海運送株式会社と忠海貸座敷業組合(遊郭を戦時中は貸座敷と呼んだ)が寄贈しています。右に「皇化隆興」左に「萬邦咸寧」とかかれている。軍事産業は大変大きい産業であり,軍隊がくると町は非常ににぎわった。従って,当時の忠海は軍事教育経済において豊田郡の中心で、また,大久野島で働く陸軍の士官や技術者などは,主に東京から来ており,工員も周辺の人であったので,忠海駅は三原駅より乗降者が多く,呉駅に次いで2等駅でした。また,大将、中将などが泊まる旅館なども栄えていました。鳥居をくぐった両脇の石は,神社側から歴代所長が寄贈し,祭りの時の幟を立てていました。

 

A殉職碑の説明

1937(昭和12)3月には境内に毒ガス生産による犠牲者を鎮魂する殉職碑が建てられました。殉職とは毒ガス事故でなくなった人で,毒ガスの作業などで身体を壊し病気でなくなった人は含まれていません。

1933年(昭8)7月Kさんが青酸貯槽からゴム管を通して青酸を注入する作業の時、誤って作業袴にその飛沫を浴び、日本最初の毒ガス犠牲者となりました。この人身事故を契機に、ガス漏れの危険のある場所には小鳥を置き、その動作を観察してガスの濃度を判断するようになり、工場の要所々々に十姉妹を入れた鳥籠が吊されました。それから数年後、Oさんが荷役中踏み板に足を滑らせ、頭から一塩化硫黄(イペリットの原料)を浴び、1月余にわたる手当も効なく第二の犠牲者となりました。

また1935年(昭和10)九州の曽根製造所に填実部門が移ってからは忠海〜曽根間の輸送が頻繁になりました。Kさんはジェフェニ−ル・シャンアルシンを馬車で運ぶ途中、馬が尻尾についた毒物で腹のハエを追っ払ったためKさんは全身に毒のとばしりを浴び、足が2〜3倍に膨れあがりその年の11月に死亡し第三の犠牲者が出ました。その後、殉職碑が建立された。殉職碑には3人の名前が刻まれています。

毒ガス工場で作業中に被毒し、それがもとで亡くなった人が三人ということはありません。実はこれには裏があります。毒ガス工場でけがをしたり、病気になったりして働けなくなった人は医務解雇といって、島から追放されたのです。毒ガスで工場の作業を通じて身体を壊したにもかかわらず、十分な治療は島内では行ってもらえなかったのです。島を出て、自分で医者を見つけて治療するしかなかったのです。もちろん、島でのことはいっさい口止めされており、毒ガスが原因で病気になったとは絶対に言えません。言えば、憲兵に捕まり、自分のみならず、家族にまで迷惑をかけることになったのです。島の外で、十分な治療もできないまま亡くなった人が多数いることが想像できます。毒ガスの治療に専門的な知識のない島外の医者が十分な治療ができるはずが有りません。毒ガス工場による犠牲者は正確には数えることができないのです。3名のみが奉られたこの殉職碑は軍隊がいかに一般民衆の生命を軽く考えていたかを物語っています。

 

22:医務室跡

@医務室

当初は診療所程度で,1937年(昭12)頃から入院病棟も建てられ,本格的な総合病院となりました。北から「受付・歯科・内科・外科手術室・耳鼻咽喉科」とあり,灯台の下には病室がありました。ここは陸軍の病院であったため,医薬品などはあったようですが,毒ガスによる傷害には根本的な治療など行えるはずもなく,せいぜい,てんか粉(シッカロール)や,重曹水をつけるくらいでした。医務室では医者・看護婦の訓練が毎朝1時間くらいおこなわれました。救急処置の訓練,防毒面を着けての担架運び訓練,防毒面を着ける訓練などでした。治療には、入院治療・休業治療(自宅で療養)・限就治療(就業時間が限られる)がありましたが、島外での治療はできませんでした。重傷者は入院しましたが、入院者への見舞いは許可されず,火薬が爆発し、やけどを負った女学生(学徒動員)の家族が忠海まで見舞いに来ても島まで渡せてはもらえませんでした。毎日100人前後の患者が診療に来て列をつくって待っていたそうです。時には診療打ち切りなどもありました。なぜこのように多くの人数かと言うと,内科の患者の場合,診療を受け,熱があれば医務休の赤い判を押してくれ,有給で治療を受けながら自宅で休むことができました。また,大久野島の工場では工員に「身体に異常があれば,すぐに診療所に行って治療を受けるよう」やかましく言われていました。これは,我慢して作業し,休まなければならない状況になると「就業不良は国に申し訳ない。自分の身体であって自分の身体ではない。これは天皇陛下の身体である。陸軍軍属たるものはそういうところまで考えるもの」と教育されていたからである。このような理由から、少したいぎいと思ったらすぐに医者にかかっていました。1997.8に働いていた看護婦さんからの聞き取りによると、医務室の裏の山に防空壕を掘り灯台の下の方に開通させているということです。

 現在、病院跡は広場となっており,すぐ前の海は海水浴場となっています。広場の一角に古い消火栓と井戸がありましたが1999年の工事でなくなってしまいました。大きい樅の木は当時のものが成長して大きくなったものです。この樅の木は中庭に植えられていたもので,当時の写真にも写っています。

 

A消火栓(最近復元されたもの)

毒ガス工場時代から医務室の近くにあった消火栓です。当時は今ある位置より15m海岸の方にありまた。大久野島の公園化工事の時引き抜かれて放置されていたものを今の位置に復元したものです。医務室の一部を残す貴重な遺跡です。

一時取り除かれていましたが,貴重な遺跡として保存するために環境省の協力のもとに、2001年9月この場所に復元されました。

                      

B動物舎跡

 病院の入り口付近で,動物舎と言われ,海側にドーム型の鳥かごを置き,十姉妹を,山側にボックスでウサギをたくさん飼っていました。十姉妹は毒ガスが噴出した場合の危険感知用。1933年(昭8)に最初の犠牲者がでてから導入されました。

(1995年毒ガスサリン事件の時,自衛隊がカナリアをもって地下道に入り捜査したまし。現在でも小鳥を使用する方法が取り入れられていることがわかります。)

 医務室の裏手に自転車置き場があり,「十姉妹が死んだから補給を頼む」と連絡があると自転車に乗って配っていたそうです。ウサギは毒ガス実験用。毛を刈った皮膚にイペリットを1滴たらすと,皮膚が紫色にえぐれていきました。毒ガス工場で働いていた人は、「当時は毒ガスを作っているのだから実験も必要だろうと考えたが,今思うと人間もウサギのように戦争にかり出されて亡くなった。戦争の無意味さを思い知らされる」と語っています。

今、大久野島いるウサギはそのまま生き残った子孫や戦後、誰かが持ち込んだものが繁殖したと考えられますが、大久野島のかわいいウサギにも悲しい戦争被害の歴史があるのです。現在は観光資源の一つにするため国民宿舎が餌を与えています。しかし、小ウサギがカラスに襲われたりして、数は減少しつつあります。

 

C灯台(今の灯台は1992年につくられた。)

 1894年初点灯昔は灯台守の家族も住んでいました。この島が軍用地となってからは,厳重な垣根で隔てられていました。灯台の管轄を愛媛県大三島の行政管轄下に委任したため,島の南端の灯台のある場所は愛媛県だと間違える人もいました。階段を下りたところに大三島から灯台のメンテナンスにくる船を止める石と,桟橋の跡が残っています。

 

D陸軍省管轄の石柱

民間の管理と軍の管理の境界を示す石柱が灯台へ上る石段のところにたっている。境界を示す鉄条網を張った石の柵も一部残っている。現在でも,「陸軍省所轄地」という石と,その裏に「大久野島燈標所属地」という石,垣根のために使われたコンクリートの柱と有刺鉄線が階段を上がるところに見られる。階段を上がったところの広場には,灯台守の家があり,1944年(昭和19年)10月から12月まで赤筒工室を火薬工場に改造するため,工員20数名が泊まっていた。

 石の印である「陸軍省所轄地」は,書き方によって年代が違い,「陸軍用地」「陸軍省」に変遷している。 1997.8に遊歩道の工事でコンクリートの柱などが撤去されています。

 

E監視所(燈台の北側の山の上にある)

 芸予要塞時代(1894年頃)夜間、海を通る船を監視するため(日清戦争で呉港に向かう敵の船),ラジオのアンテナのように上にのび,サーチライトで海面を照らしていた。当時忠海に住んでおられた方が,光を目撃している。直方体の穴の内部にはレールがとりつけられ,機械によって上にのびた模様。現在は,直方体のレンガの穴の部分と下の部屋が残っている。階段から堀切の方に2m幅の道があり,山沿いを堀切の方に続いています。堀切ができるまでは,南部砲台方面に続いていたと考えられる。(1997年鉄の柵がつけられた。)

 

23:表桟橋

@島内に桟橋は、表桟橋・長浦桟橋・発電場前桟橋の3カ所ありまた。

当時,従業員は表桟橋から島に入りました。陸軍大臣の許可のないものは絶対に上陸することはできませんでした。桟橋をあがると各職場に直行、養成工は毎朝、守衛の点呼を受けました。

学徒動員は長浦桟橋から上陸しました。上陸したところで守衛の点呼を受けました。帰りは、みんな、表桟橋から乗船、乗船前服装検査が抜き打ちに行われ、弁当箱の中まで調べられました。なにか持ち出そうとするのが見つかると営倉に入れられたり、忠海の憲兵隊詰め所で取り調べられたりしました。

 

A守衛所跡(現在の公衆トイレ付近)

表桟橋をあがったところに守衛詰所があり、その東側には守衛の宿直室がありました。養成工たちは朝,この場で整列し,何名か確認された後、養成所に向かいました。守衛詰所の裏、山側(今も山を少し削った跡が残っている)に営倉がありました。当時の大久野島の機密保持がいかにすごさがうかがえます。桟橋の所に見せしめのために営倉に入った者の名前が張り出されたということです。軍の工場で営倉があったのは大久野島だけです。

 

B掲揚台

守衛詰所の裏の階段を登ったところに日の丸を掲揚しました,掲揚台が残っています。 1942年(昭和17)からは空襲時以外はサイレンを鳴らさなくなった。そのため,10:00〜10:15,12:00,15:00の休憩時間には、掲揚台の側の踊り場でラッパをふいて時間を知らせていました。ラッパは工場内の何カ所かで吹かれ時間を知らせたそうです。階段の下は大久野島を再開発するときに少し埋められている。手すりからそのことがうかがえます。

 

24:技能者養成所

@ここには毒ガス工場時代技能者養成所が建っていました。もともと明治の要塞時代には南部砲台の大砲が4門設置されていた場所です。工場で働く技能者の養成所でした。ここに入所すると軍属として扱われました。3年間専門教育を受けて各現場に配属されることになっていましたが、終戦前には従業員不足から2年くらいで、卒業させ現場に配置したそうです。

小学校の教職員は養成工は陸軍の軍属であり待遇も良いということで,当時の高等小学校卒業生に呼びかけ試験を受け入所するように勧めました。入所したときに「20年間は退職しない。大久野島のことはたとえ肉親であろうと口外しない」と言う誓約書を書かされました。医療免除で仕事ができなくなった時はじめて退職できました。

 

A毒ガスは人道兵器である(毒ガス人道論) 

養成所では,「化学兵器の理論と実際」の「7章・化学兵器人道論」の学習の中で,「銃丸は骨を貫き,砲弾の破片は肉をそぎ,時に足や腕を奪い,水雷の一撃は実に数百数千の生命を一瞬にして海底に没する」しかし,「化学兵器は流血の惨事を伴わず,その回復は比較的速やかで,肉体的苦痛は少なきものであり,化学兵器はきわめて人道的な兵器である。」と教えられていました。毒ガスは他の兵器と比べて人道的であると教えられました。しかし、実際、毒ガスは戦闘員ではない老若男女、全ての人たちを殺傷し、しかも後々までも後遺症で苦しめ命を奪う恐ろしい兵器でした。戦闘に関係もない人たちを多く犠牲にし、後々までずっと被害を与え続ける点では核兵器に似ていると言えます。毒ガスは人道兵器どころか恐ろしい兵器です。

 

B養成所の配置

 一番西側から,用務員室・1〜3年の教室・職員室・倉庫と並んでいました。校舎の前には運動場がありました。戦後,解体された建物は忠海東小学校校舎に再利用されたそうです。この建物は,木造でしたが,明治に造られた煉瓦製の兵舎の建物の上に建っていました。明治時代の砲台の兵舎は、毒ガスを生産していた時は毒ガス製品の倉庫として利用されていました。北の方には実習工場がありました。化学工は分析室で実習を行いました。

 

C被毒体験

 養成工は15:00に休憩がありました。そのときは全員が養成所に帰っていました。元養成工の証言によると,週番が下の食堂から,10銭のうどん玉と汁を買ってきて(食費は自分持ちであった)用意をしていた。冬場寒いので汁を温めるため,裏山で木切れを取ってきて用務員室で燃やした時,目が痛くなったそうです。板切れに毒物がついていたのでした。教官が来て,『板切れでも何でも燃やしちゃいかん』と言ったそうです。顔を洗い,重曹で目を洗いましたが,家に帰って、夜に目が腫れたので、三原に目医者があるので朝一番で行くと,『何をした,失明する。入院しろ。』と言われたそうです。しかし、大久野島にはだまって医者に行ったので入院することはできませんでした。家に帰って,大久野島に連絡すると『大久野島にも病院があるのに,(秘密をもらすようなことをして)それでも軍属か』とおこられたそうです。大久野島全体が毒ガスの大氣で覆われていたわけですから、山の木にも毒ガスが付着していたのです。山の木をつついていて気分が悪くなったり、似たような体験の証言はたくさんあります。

 

D南部砲台(兵舎埋もれた兵舎跡)

 技能者養成所の建物のあった所は芸予要塞時代は24cm砲が4門設置されていました。南部砲台の一部だったのです。毒ガス工場時代、技能者養成所がその兵舎の上に建てられていました。現在でも,兵舎の一部を見ることができます。今はキャンプ場になっていますが、現在でもキャンプ場の下に兵舎が埋まっています。元々谷間になっていたところなのに、戦後かなりの規模で埋めれて現在のようになりました。「毒ガス倉庫になっていた兵舎が毒ガスもろとも埋められた可能性が高い。」という証言もあります。養成所のあったところの地下に埋もれている兵舎を利用した毒ガスの倉庫には赤筒などの毒ガスが置かれていた可能性があります。当時、養成所の学生は絶対に下の地下兵舎には入ってはいけないと言われていたのですが、怖いもの見たさでのぞくと毒ガスの缶みたいなものがたくさん置いてあったそうです。戦後、しばらくして来てみるとこのあたりは地形が変わるぐらい埋め立てられていたそうです。今でも兵舎ごと埋められた中に、毒ガスが埋められている可能性があるとのことです。

 

25:南部砲台跡

@     芸予要塞時代、南部砲台は現在のキャンプ場のところまでありました。

現在残っている南部砲台跡にスカ9速加砲4門が設置され、キャンプ場跡(毒ガス工場時代養成所があったところ)に24cm砲4門が設置され、計8門設置されていました。毒ガス工場時代、兵舎跡は毒ガスの貯蔵倉庫として利用されていました。現在も地下兵舎は埋もれた状態で残っています。兵舎の上には通気口も造られています。国民休暇村になってからはキャンプファイア場になっていたこともあります。2003年に貴重な遺跡なので環境省に頼んで説明版を設置してもらいました。

 

A 大三島(島の見えるところで説明)

 終戦前、日本本土への空襲が激しくなると、大久野島が空襲される危険性が高まったため、現在のフェリー乗り場あたりにあった製品倉庫から毒ガス缶を表桟橋に運び、そこから船で大三島の海岸に運び海岸の奥まった芋畑に毒ガス缶を並べて疎開させていました。倉庫から桟橋まで運び、大三島に渡り海岸から芋畑まで運ぶ作業は学徒動員の女生徒が使われました。毒ガス缶に何が入っているかも知らず作業をしたそうです。運んだ缶は旧いものが多く液なども付着したものもあったそうです。「ある時、缶の上に座って休憩をしたら後で尻がただれた」とう証言もあります。毒ガス缶とはとは知らず作業に携わり、毒ガス被害を受け、多くの人が後に後遺症で苦しんだのです。大三島に疎開させていた毒ガスは戦後,毒ガス処理のため再び大久野島に運び処理されました。

 

26:製品倉庫地帯跡(現在のフェリー乗り場前の広場、少し奥まったところ)

 赤1号や赤1号の材料及び黄剤を置かれていました。赤筒やイペリットなどの毒ガス缶が置かれていたのです。終戦前、学徒動員の女生徒が大三島へ移送する黒いドラム缶を運び水泡ができたと証言していますが,当時の現場監督は,毒物ではないと証言を否定するような発言をしています。これは,赤筒はシモリンとよばれ,1950年(昭和25年)にできた「毒物劇物取締法」では毒物になっているが,当時は赤筒を毒物とする法律がなかったのでこのような証言をしたのだと考えられます。学徒動員女学生の証言では,倉庫から桟橋に運び,途中に何個運んだか黒板に書かせ競争させられたと証言しています。

 元化学工は,4〜5人の徴用工をつれて,ここでフランス式イペリットのガス抜き作業をしています。「イペリットは不純物が多く,そのままでは爆発する恐れがあるのでガス抜きをするために、ドラム缶のネジをゆるめたとき,それが折れて,いっぺんにガスが出てきて浴びてしまった。傷はないが,障害を負った。」と証言しています。      

この証言者は戦後一番早く認定を受け、同期の人に比べると一番からだが弱っていました。それだけ後遺症がひどかったということです。彼は「この谷を見たら恐ろしい」と言っています。

戦後、毒ガス工場の所長は「徴用工には危険なところに行かせていない」と言っていますが,他の徴用工や工員も同じような証言をしているので,現場ではこのような危険な作業も行われていたのは間違いないと思われます。戦地へたくさん出ていった後の人材不足を徴用工で補っていたのです。ここで働いていた年輩の工員は,毒ガスの危険性を知っているので、危険な作業は避けたが、毒ガスの怖さをよく知らない若い人が働いて被害を受けています。

 

【その他の説明】

@呉線(見えるところで説明)

 対岸を通る線路は,大久野島が見える頃になると,汽車の海側の窓は外が見えないようにされた。近辺では,呉の軍港が見えるところも閉じられていました。

 

A阿波島(見えるるところで説明)

大久野島から見える海岸に毒ガスを荷揚げし,トンネルを通り対岸の倉庫に赤筒や青酸ガス(茶一)を保管していました。現在,トンネルと倉庫の基礎部分が残っています。現在も残っている基礎の石からみて倉庫はかなり大きなものだったことが想像できます。ここで働いていた従業者から,戦後、海岸に茶の瓶を埋めたという証言があり,行政がその海岸の調査をしたが見つかりませんでした。しかし調査していない反対側の海岸に埋められている可能性もあります。

 

B水源地

検査工室だった建物の奥に入ったところにある。わき水がでており,現在もこの水を濾過して使っている。1945年になって爆薬などを製造するようになってからは,水が足りなくなり,忠海から毎日船で運んでいました。一番奥の池は工員が掘ったものです。山側に「陸軍省所轄地」と刻まれた石が残っています。(その奥水源地はどこの所轄かわかりません)真ん中のものと一番下の水源地は,陸軍が作ったものです。

 

C元理財置き場(北の山に少し登ったところ)現在はなくなっている。

 水源地の北側斜面にある。登っていく右側に建物があり,老年工員が働いていました。理材とは使わなくなったものを整備したもの。今で言うリサイクルです。上部に異径管を置き,下部に化成釜を置いていました。養成所から山を通って理材置き場に遊びに来ていたと言う証言があります。白い色の窯やパイプ類は「日本碍子」で製作されて,マークも残っています。茶色の窯やパイプ類は「高山耕山製」(京都の工場)で,マークとその横に製造者番号も残っています。この京焼きは,有明海の粘土などを使って作られ,割れ口が非常に鋭い。化成釜などの使わない穴は,ピッチ(コールタール)によってふさがれていました。

 

D堀切(ほりきり・ほりわり・ほりぬき)

  桟橋から三軒家工場群まで行くため,人工的に切り開いたなかったものです。   

 

E防空壕跡

 大久野島には多くの防空壕があります。(50〜70カ所)

現在山肌に石垣を積み上げたところが防空壕の入口を塞いだ跡です。砒素汚染問題が起こり、1998年の汚染土壌除去工事中、毒ガスが発見されたりしました。その時、環境省が防空壕の入口を今のように石垣で塞いでしまいました。どこが防空壕跡か解らないようにしてしまったのです。どこか解りませんが、島内の50箇所以上の防空壕のうち十数箇所の防空壕に大量の赤筒や発煙筒が埋められています。防空壕は倉庫用・作業用の壕は強固に造られましたが、一般従業員の避難用は簡単なもので、「たこつぼ」と呼ばれる極めて簡単なものでした。空襲があればそこに、逃げるしかなかったのです。戦争中は防空壕として使われたのか,毒ガスの貯蔵庫として使われたのか不明なものが多いのです。