第1回日中友好黒龍江省の旅

1977年7月25日〜8月1日

〜遺棄毒ガス問題を検証する〜           

日 程      

1997年

7月25(金)広島空港(15:55)→上海空港(17:05)

26(土)上海観光:豫園など上海空港(18:25)→ ハルビン空港(21:25)

27(日)歩平先生宅(9:30〜11:30 ハルビン駅(12:02)→ チチハル駅(15:30)

28(月)戦争遺跡見学;弾薬庫跡516部隊遺跡→嫩江大橋→   飛行場跡忠魂碑跡 ホテル

29(火)フラルギ区毒ガス弾被害者(王岩松さん、李国強さん夫妻)との交流 毒ガス缶発掘現場526部隊跡

30(水)チチハル駅(7:45)→ハルビン駅(11:30)

731部隊遺跡侵華日軍第731部隊罪証陳列館

ラルキ毒ガス被害者(李臣さん、呉鳳琴さん、劉振起さん、孫景霞さん)との交流

31(木)東北烈士紀念館で毒ガス展見学松花江の見学昼食

Aグループ;ハルビン空港→上海空港→ホテル

Bグループ;歩平先生宅ハルビン駅(18:25)→孫呉駅

8月1(金)Aグループ;上海空港(12:15)→広島空港(15:15)

Bグループ;孫呉駅(4:00)→ホテル

戦争遺跡見学;勝山要塞遺跡見学など

2(土)毒ガス弾埋蔵地見学毒ガス弾埋蔵関係者との交流(孫作敏さん)

3(日)孫呉駅(23:04)→ハルビン駅(8:00) 毒ガス被害者との交流 (催英勲さん一家)

 4(月)ハルビン空港(18:05)→上海空港(20:30)

5(火)上海空港(12:15)→広島空港(15:15)

          

           731部隊本部跡、1998年には中学校として使用されていた。

     現在(2002年)は侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館となっている。

     731部隊は残虐な生体実験をおこなった部隊です。

     森村誠一著「悪魔の飽食」で日本に広く知られるようになりましたが

     それまでは、極秘にされていたため、日本人の多くは、この日本軍

     のおこなった残虐行為の歴史的事実を知りませんでした。

 

旅行記                                    

7月25日(金)                          731部隊遺跡

重大な任務を背負った旅の始まり

 12:50 広島空港ロビーに集合、台風が接近中と言うことだが,まだ広島は快晴。前日、友達から,「台風で飛行機が飛ばないんじゃないの。」と言われたが,運良く台風は一日おくれで広島に来る様子でなんとか出発できそうだ。

 今回の旅の計画は当初は「今回の旅は遺棄毒ガスの実態調査が目的なので、参加者は多くなりすぎては困るので14〜15人で打ち切りにしよう。」などと言っていたが,ふたを開けてみたらなんと5人。しかも,「是非参加したい。」と遠く東京から申し込みをいただいたあの「地図にない島」の作者武田英子さんが,急な発熱でキャンセル。なんと総勢4人ということになってしまった。武田英子さんの不参加は非常に残念である。なぜなら,このチャンスにプロの作家の取材テクニックなどを学ばせてもらおうと密かにねらっていたからだ。逆に「しっかり取材してきて下さい。」と頼まれたとあっては,ますます責任重大ということで,荷物は極力少なく軽くしたのだが,なんだか重い物を背負っての旅になってしまった。

 思えば,今回の旅はたくさんの物を託されての旅である。まず,私たちの毒ガス島歴史研究所の代表,村上初一さんからは「毒ガスによる加害の現実をしっかり捉えてきて欲しい。」と歩平先生へのメッセージなどを託された。そして,武田英子さんから預かった牡丹江の被害者、孫さんの息子さんへの手紙などもあり、果たして,この4人で何処までやれるのか。重大な任務を背負っての旅の始まりである。

 誰の見送りもなく出発と思っていると、そこへ、大きなカメラを肩にテレビ新広島のカメラマンが私達にインタビュ−したいとのこと、 今回の旅の目的などのインタビュ−を受けた後いよいよ、テレビカメラに見送られての出発だ。広島空港から上海空港までの飛行機の所用時間は何と1時間10分、あっという間に異国の地、上海空港に到着。沖縄よりも近いのだ。「時差が1時間なので時計を1時間進めて下さい。」との機内放送で4時を示していた針を5時に合わせる。

上海空港に出迎えてくれたのは就職して3ヶ月という若いガイドさん。たどたどしい日本語だったが不自由なく話ができてひとまず安心。車で、公社が経営する食堂に直行、食べきれないほどの野菜たっぷりの料理と初めて飲むビ−ルで乾杯、無事、中国に到着した感激にひたる。日本はこの頃、台風が上陸していたそうで、もう一日遅れていたら飛行機は飛ばないところであった。

7月26日(土)

上海から哈尓濱へ

 翌朝、11:40分出発する予定の哈尓濱行きの飛行機が、夕方まで出ないとのこと。(中国では出発時間の変更はよくあるようです。)早く、哈尓濱に行って、第731部隊遺跡の見学と遺棄毒ガス弾の検証を、と思うものの飛行機が飛ばないのではどうしようもない。予定外の上海観光をすることになった。

 上海は今,古い建物を取り壊して高層ビルと高速道路の建設ラッシュ、いたる所が工事中である。工事音があちらこちらから響きわたり暑さの中に砂埃が舞い上がり,人々が動きまわりエネルギッシュな町であった。今から15年前、初めて上海を訪れた時と町の様子は一変していた。前回来た時の中国の人々の服装は人民服が多く、町の雰囲気も違っていた。10年後この町はどう装いを変えているのだろうか。10年後と言わず,再び近い内に来てみたいものだと思う。勿論中国独特の住居建築物を残そうと保存地区に指定されているところもあり3階建か4階建ての窓から洗濯物の竿がまるで小旗をつけた棒を突き出したようにのびている。 昔の上海の風景も見られる。

 ニュ−ス等の映像でよく見る風景だが中国では、人々は自転車で広い道路をわが道のように行き来している。歩行者も道路の所有者という感じを受ける。たくさんの人々が一斉に道路を横切る様子は圧巻である。自分ではとても自動車の運転はできないなと内心思う。

  上海はかつての日本軍の上陸地点。ここでこんなに時間があるのなら上海の戦跡をめぐるスケジュ−ルを組んで欲しかったような気もするが、発展する上海の姿を見れたのも良い勉強になった。豫園などを見物をして飛行機に搭乗したのは18時25分。もう夕闇迫る頃だった。哈尓濱に近づくにつれて急に日が暮れあたりが闇に包まれてしまった。哈尓濱の町を空から見ることは全く出来なかった。

 哈尓濱到着21:25分。どのような空港に降り立ったのか全く解らず、ちょぴり不安を感じながら、手荷物を受け取り,出口に歩いて行く。誰が迎えに来てくれているのだろうか。出迎えの人たちがそれぞれの人を見つけては歓声を上げ呼び合っている。私達はひたすら○○様ご一行様の文字を探すがない。その時.人々をかき分けて、一人の男性が大声で叫び手を振っているのを見つけた。私達は思わず「ダーさんだ。」といいながら近寄っていった。

 ダーさんは今回の私たちの旅行の目的に合わせてコ−ディネイトして下さった黒竜江省社会科学院日本問題の研究員であり、かつハルビン市北方旅遊会社の経営者でもある。ダ−さんと、ともに迎えてくれた女性は今回の通訳として私達の旅に同行して下さる鞠菊さん。本職は黒龍江省国際信託投資公司の信託業務部に勤務。この10日間は会社に申し出て休みをとって私達、遺棄毒ガスツア-の案内をして下さるとのこと。彼女は日本から来る、遺棄毒ガス関係の調査団を度々案内しているとのことで心強いばかりだ。西洋風のホテルに荷物を置いて早速、歓迎の夕食をいただく。

7月27日(日)

歩平先生宅でのレクチャ− 

 早朝、ホテルより初めて哈尓濱の町を見る。濃い緑の街路樹が多く広々としている。所々に高いビルも見える。ヨ-ロッパ風の雰囲気をもった静かな中堅都市である。 昨日の飛行機の時刻が変更になったせいで、当初予定していた第731部隊跡の見学は帰路に行くことにして歩平先生のお宅に直行。

 歩平先生は、昨年夏、全国毒ガス展で大久野島にこられたときより一段と日本語が上達された様子。 挨拶を交わしていると,ちょうど東京在住のカナダのジャ−ナリストが歩平先生の取材にやって来た。私たちの取材もしたいのでと,急拠、取材を受けた。取材に来ていた私たちが逆に取材された。彼の名前はドナルド・マッキンタイアさん。38才。通訳として王紅艶さん。彼女は現在、日本の大学の大学院に留学中で強制連行の裁判の支援をしているとのこと。ジャ-ナリストの質問は基本的なところからだが,「日本政府は何故日本軍の毒ガス使用を認めないのか、毒ガス被害者へ補償問題を真剣に考えないのか。」といった厳しい問いかけが多かった。

 私たちはここで歩平先生の詳しいレクチャーを受ける予定であったが,取材に時間を取られてしまい,斉斉哈尓行きの汽車の時刻を気にしながらスライドを見ながら大急ぎでレクチャ-を受け、斉斉哈尓に行くために哈尓濱駅に向かった。

東北平原を行く

 中国の汽車は遅れることはしばしばだが、たまに早く出ることもあるという。何とか予定通り12:40分、通訳の 菊さんとともに軟座車に乗り込む。日本のブルートレインのような座席で6人が一部屋。座席は指定席。お湯の入った大きなポットが二つ置いてあった。汽車が走り出して10分もすると一面にとうもろこし畑の広がるまさに大地。地平線が見える。生まれて始めて見る地平線だ。右の車窓を見ても左の車窓を見ても,山が全く見えない。丘さえもない。時折、現れる集落、広大な畑の中にある一軒家のような住まいは夏の間だけの作業小屋だとのこと。トウモロコシ畑を過ぎると今度は、広大な湿地が続く、地質が悪いので農地として利用できない土地だとのこ、ところどころで、羊や馬の放牧が小規模におこなわれているだけで、その湿地帯は延続いていた。中国東北部はトウモロコシ、大豆、こうりゃんなどの畑作地帯で肥沃な土地を想像していたので、意外な厳しい現実をみた思いだった。

 景色を見ながら、かって日本から、この地に送り込まれた満州開拓団のことを思い出す。はるばる、日本から極楽の地を夢見てこの荒野に送り込まれた時、何を思っただろうか。私の家族も、満州に移住していた。父は満鉄の日本語学校の教師をしていた。私が小学生の頃、父母から満州から引き揚げた時の苦労話をよく聞いたものだった。日本の侵略行為がもたらした結果とはいえ、この広大な平原を、日本軍に捨てられ、自力で逃げ帰るしかなかった開拓団の苦しみが目に浮かぶようだ。いつも弱い者が犠牲となる。善良な国民をだまし満州に移住させ、あげくのはては、その人達を放置し、自分達はサッサと日本に逃げ帰った支配者達は許されない。第731部隊の幹部や、医者達がそうであった。中国東北部の大平原の景色と軽やかな音楽の流れる約4時間の旅も終わり斉斉哈尓に到着。  

斉斉哈尓駅

 16:20分、斉斉哈尓駅到着。斉斉哈尓は黒龍江省第二の都市、ここには毒ガス部隊の関東軍化学部、通称「第516部隊」があったところだ。駅舎は赤い総レンがづくりの重厚な造りで満州国当時の建物とのこと。この建物は中国の「中」の字にに似せてつくられている。中国人の手によって、設計され、後でこのことを知った日本軍は激怒し設計者らを捕らえて殺してしまったという。

 李然さんと曹志劫さんが列車まで出迎えてくれた。李燃さんは斉斉哈尓中国国際旅行社日本部に勤務、32才。曹志さんは斉斉哈尓市社会科学院の院長、二人から美しい名刺をいただく。「まあ、美しい」と言うと菊さんが「李然さんは心も美しい人です。」と言う。その言葉通り斉斉哈尓に滞在中、李さんに心温まるお世話をしていただくことになる。

関東軍建物跡

 ホテル鶴城賓館へ直行し荷物を置くとすぐ,ホテル近くの関東軍の遺跡をまわるために出発。何とホテルのすぐ後ろに関東軍の兵事部 があるとのこと。行ってみると取り壊す直前で,たくさんの人々が一輪車で土を運んでいた。許可をえて中に入らせてもらう。壁はレンガだが松の木の床でこれが日本軍の建物の特徴をよく表しているとのこと。まだ,事務室として使われていた部屋もあったがほとんどの部屋はがらんとしていた。 二階建ての建物の壁には菊の紋の模様の飾りがついていた。この建物が取り壊されたらホテルを増築するとのことである。あれから5カ月。あの建物はすでになくなっていることだろう。

 中国東北部(旧満州)では、中国の経済開発が進む中で戦争遺跡もほとんど壊されているとのこと。 次に,ホテルの前の道の向側にある日本軍の電信部跡へ。メインストリートにある赤茶色のレンがづくりの3階建てのビルであり今も電話機などを売っていると言う。建物の説明を聞く。夕食はホテルを出て、地元の名物料理と地酒で歓待を受ける。

7月28日(月)

関東軍弾薬庫跡

  朝、7:30分ホテルのロビ−に降りて見ると、李然さんが待っていた。朝食はホテルの食堂で済ます。マイクロバスに乗り込みまず日本軍の弾薬庫の跡地に向かった。マイクロバスを運転して下さるのは間さん。この間さんの陽気さと運転のうまさには敬服してしまった。中国では、歩行者や自転車が、容赦なく自動車の前を横切ったり、自動車のボデ−すれすれに行き交う。あたっても当たり前のシ−ンがしばしば、全然、動じることもなく間さん運転のマイクロバスは人混みの中を泳ぐように進んで行く。

 弾薬庫跡に到着、道路に車を止め、大久野島の発電場の入り口とそっくりのトンネルのような入り口を入ると200坪くらいの土地の周りをぐるっと土塁で囲んでありその中に30坪くらいの平屋のレンがづくりの建物が二棟建っている。土塁の上にはやはり大きな木がうえられている。これは外からは勿論上空からも弾薬庫が見えないようにするためであろう。土塁は火災や爆発時に隣に類焼させないための物。実際すぐとなりあっておなじつくりの弾薬庫があり,私たちが見ただけでも4カ所は確認出来た。もう取り壊されているがこのあたりには多くの弾薬庫の施設が並んでいたという。

第516部隊跡

 次に訪れたのは、日本軍の第五一六部隊跡。この部隊は化学戦部隊で、毒ガス弾や化学兵器を秘密裡に研究製造していた部隊である。細菌兵器などを作っていた第七三一部隊とは悪魔の兄弟とも言える殺人部隊で、毒ガスなどを使った人体実験を盛んにおこなった部隊である。敗戦まぎわに証拠隠滅のため軍事施設はほとんど破壊されている。今は、ガラス工場になっている、なかにいくつかの当時の建物が残っており本部跡もあった。塀の外、道路の横に衛兵室跡、そこから南に約1キロメ−トル行ったところに第525部隊の着弾地の観測所跡などがあり曹志劫 さんに案内してもらった。これらの建物の中には現在、住居として利用されているところもあった。

 日本軍は、敗戦の時、たくさんの化学兵器を中国のあちこちに捨てて帰っている。しかも住宅地の近くであろうと、農地であろうと、河であろうと、お構いなしに捨ててきている。中国の人達の生活の場の近くに日本軍が遺棄した毒ガス弾などの化学兵器が、戦後たくさんの中国の人達の命を奪い、傷つけ、生活を破壊してきた。われわれが今回、中国にきたのもその毒ガス被害者の実態を調査することにあったが、現地に来て、改めて、日本の犯した罪の大きさを認識させられた。

嫩江大橋

 午後は少し体調を崩した人も出て、ホテルに帰って少し休息。その後、斉斉哈尓市を流れる松花江に架かる嫩江大橋へ。この橋の上からもたくさんの化学兵器が捨てられている。嫩江大橋に行ってみると、そこは大変、景色の良いところだった。川底の砂の下に、毒ガス弾が埋もれているのを知って知らずか、釣り人が1人、河の中で釣りをしていた。 嫩江大橋はちょうど工事中で橋の上から遺棄した場所を見ることはできなかったが橋の下の川辺の砂浜に降りて曽志劫さんより詳しい説明を聞いた。ここに遺棄したという日本軍の元隊員の証言をもとに中国の人が潜水具をつけて調査してみると、たくさんの遺棄毒ガス弾が砂に埋もれているのが見つかったとのこと。中には川の流れによって下流に流されたものもあり遺棄毒ガス弾はかなり拡散して埋もれているとのことだ。いずれ、ここに遺棄された毒ガス弾も日本が回収しなくてはならないが、それは、大変な作業になるだろうと思うが、また被害がでないように早急にやらなければならない。

 次に、日本軍の飛行場跡を見学。車窓から、格納庫や見張り塔など一部残っている遺跡を見る。まだ十分土地利用されていないようで、広い土地に建物が点々と存在する風景は、滑走路跡みたいなものもあり飛行場を思わせる雰囲気が残っていた。

 今日の遺跡めぐりの最後は、忠魂碑跡。現在は神社の石段が残っているだけだが、広い広場、それをとりまく林や参道のような道。階段の上に忠魂碑を想像してみるとよく日本の神社などに見られる風景がそこにあった。周りには日本人の学校が建てられていたそうで日本人と中国人の皇民化政策に利用されたに違いない。中国人がこの忠魂碑の前を通る時礼拝しなかったら罰せられたという。

嫩江大橋、日本軍は敗戦が濃厚となると、証拠隠滅のためこの橋の上から

大量の化学兵器(毒ガス弾など)を捨てて日本に逃げ帰った。

そのため、戦後、多数の中国の人たちが日本軍の捨てた毒ガス弾によって

殺傷されることになった。

 

7月29日(火)

毒ガス被害者との交流

 朝、早めに出て、斉斉哈尓市郊外にあるフラルキ区の中国第一重型機械集団公司供応処に向かった。今回の旅の目的の一つである遺棄毒ガスによる被害者からの聞き取りをさせてもらうためであった。1987年10月工事中に日本軍の遺棄した毒ガスの入ったドラム缶が掘り出され、毒ガスとは知らず、何であるかを調べているうちに王岩松さんをはじめ13人が被毒し呼吸器障害や皮膚びらんの症状になり、後遺症に悩まされ、その他、たくさんの人に軽い被毒症状が出たというところである。私達は今日、ここで王岩松さん、李国強さんら三人の方から証言を聞かせてもらうことになっていた。工場の広い応接室で、三人被害者より聞き取りをさせてもらった。いずれも、遺棄毒ガスによる被害により、今だに続いている後遺症、被毒がもたらした家族生活の破壊。私達、日本人が背負って帰らなくてはならない重たい現実を聞かせてもらった。私達はこの人達のために、何ができるだろうか。いや、何か力にならなくてはならないと心の中で誓った。

第526部隊跡

毒ガス被害者との交流の後、昼食を済ませて私達は、王岩松さん達に被害をもたらした毒ガス缶の堀り出された場所に行った。今は大きな建物が建っているだけだったが、1987年10月毒ガス缶はガス管の埋設工事をしていた時掘り出されたそうだ。土を5メ−トル掘ったところ重さ100kgもの鉄の缶が掘り出された。中の液体が何か解らないので、いろいろ調べているうちに、それに関わった人が次々と被毒したという。中国軍の防化班の専門技術員が調査し日本軍が遺棄していった軍用の毒剤イペリットの混合物と解ったそうだ。

 フラルキ区には日本軍が毒ガス剤を遺棄して帰ったことが、元日本軍の隊員であった金子氏の話でも明らかになっている。金子氏は第526部隊に所属していて化学部練習隊の隊員だったそうで、終戦時、約200個くらいの毒ガス缶を第526部隊の近くに埋めて帰ったと証言している。第526部隊跡は静かな農村地帯にあり草地と林の中にあった。部隊の正門跡だというコンクリ−トの残骸が残っているだけでほかには遺跡は残っていなかっがこの近くに毒ガス缶が埋められているという。日本軍が引き揚げた後、日本軍の残した物資を手に入れ、その中にあった缶を毒ガスとはわからず触れた農民が被害を受けたそうだ。そんなことがあったとは思えないような静かな農村地帯であった。

7月30日(水)

侵華日軍第731部隊罪証陳列館

 お世話になった李然さん、曹志功さん達に別れを告げて哈尓濱へ。哈尓濱駅に着くと再びダ−さんの出迎えを受け、宿泊予定の国際飯店へ、そこで荷物を置くとすぐに第731部隊跡へと向かった。侵華日軍第731部隊罪証陳列館の近くの食堂で昼食、そこで、靖福和さんを紹介される。靖さんは1946年この近くの後二道溝という村で子どもの時、第731部隊が飼育していたペストに汚染した蚤をつけた動物たちが村に逃げ込み、それが原因でペストが大流行、靖さんの家族と親戚19人のうち12人が亡くなったという。あとで、靖さんの話を聞かせてもらえることになっていたが、時間が取れず十分話が聞けなかったのは残念だった。

 昼食後、侵華日軍第731部隊罪証陳列館に向かった。そこではこの館の金民成研究員、前館長の韓暁さんを紹介された。金成民さんが館内の第731部隊跡の模型をつかって第731部隊遺跡の全貌について説明して下さった。思ったより広い範囲に関連施設が造られていた。現在第731部隊関係の遺跡が22カ所残っているとのことだった。陳列館内は第731部隊のつくられた歴史的経過、犯した罪証などが第1部から第6部に分けて解りかり易く整理展示されていた。館内で学習した後、金成民さんと韓暁さんの案内で第731部隊の遺跡を見学に。二人は、「死ぬ前に真実を、中国人の証言」という本を共著で出版している第731部隊についての研究家だ。

第731部隊跡 

 車で工場の中の狭い道をしばらく行くと古い荒れた建物の前で下車。吉村班の冷凍実験室跡だ。吉村寿人はここでの人体実験デ−タを持ち帰り、戦後の自分の研究に利用し、南極観測隊の指導などで社会的地位を築いていった人物だ。あの薬害エイズの感染の原因を造ったミドリ十字の設立者内藤良一などもそうだが、第731部隊関係者は戦後その罪を問われることなく平然と日本の医療界に君臨している者がたくさんいる、本当に許されないことだ。

 次に、細菌をばらまくために飼育されていた小動物飼育室、イタチ飼育室へと案内してもらった、小動物飼育室は中に入ることは出来なかったが、地下に二つ部屋が造られており、ペスト菌に感染させるための鼠が飼育されていたところだ。イタチ飼育室の中はに約1m四方、深さ1mの穴64個が当時のまま残されていた。映画「黒い太陽第731部隊」の中では鼠がうようよ飼われているシ−ンも出ていたが、それを思い出して背筋が凍る思いだった。

 その後、再び車で移動、第731部隊本部へ行く。今は中学校として利用されている建物の中に入り薄暗い通路も案内してもらう。この薄暗い通路があの特設監獄のあったロ号棟につながっていたのだろう。本部の建物は二階建てで長さ約170m、正面向かって右端二階に石井部隊長の執務室があったそうだ。とても、あの残酷な人体実験が行われていたとは思えない静かな風景。夏休み中なので、人はほとんどいなかったが生徒が3〜4人教室に出入りして日本のどこにでも見られる学校風景であった。その本部建物の後ろに造られていたロ号棟や人体実験にする捕虜を収容していたマルタ小屋と呼ばれた特設監獄は今は跡形もなく、完全に破壊されいる。第731部隊の遺跡で残っているのは、比較的秘密保持の必要性の少なかったものが多い。本部跡は人体実験の標本を処理し、書類を始末すればあとはあまり証拠となるものはなかったのだろう。

 本部跡から車ですぐのところに第731部隊跡の象徴的遺跡であるボイラ−室跡がある。前から見れば二本に見える煙突は裏から見ると3本あった。かなり分厚いコンクリ−トで造られていた、相当、大がかりなボイラ−室であったことが解る。破壊しようにも破壊しきれなかったのだろう。しかし50年の風雪に耐え歴史の証言者としてたち続けいる。そこからやや後ろよりのところに第731部隊専用の飛行場があった。今は、三階建ての建物が残っているだけであった。その他、隊員が使っていた宿舎棟などは今も残っていて住民の住居として利用されているとのことだった。

 もっと、時間があれば韓暁さんや靖福和さんの話を聞きたいところだが、この後、佳木斯の毒ガス被害者との交流が予定されていたため急いで、国際飯店に帰る。

     

731部隊ボイラー室跡         731部隊冷凍実験室跡

731部隊に、配属された日本人医師たちは、あらゆる、残虐な人体実験をおこないました。

その一つに、冷凍実験があります。極寒でのソ連との戦争に備えての実験でした。

たくさんの罪もない一般市民が犠牲になりました。

731部隊の医師たちは終戦前に日本に逃げ帰り、戦後の医療界で大きな権威を持つように

なりました。その医師たちの中には、薬害エイズを引き起こした製薬会社を創立した者もいます。 

 

毒ガス被害者との交流

 国際飯店で李臣、呉鳳琴、劉振起、孫景霞さんから約3時間にわたって聞き取りを行った。李さん達の証言は以前、テレビや本の中で証言を聞いたり読んだりしたことがあったが、直接話を聞くと、より切実な問題として毒ガス問題が李臣さん達の生活を破壊していることがよく解った。そして、23年前に被害に合いいまだに後遺症に悩まされている現実を知り、毒ガスの恐ろしさを改めて認識させられた。

7月31日(木)

東北烈士記念館(毒ガス展)

 朝、荷物をまとめ、国際飯店を出発。今日の午後からAグル−プ、Bグル−プに分かれる。最初に、東北烈士紀念館へ、毒ガス展が開催されているとのこと。東北烈士紀念館はがっしりした西洋風の建物、戦争中は日本の警察庁だったとのこと。終戦後、周恩来が日本軍と闘ったこの地方の烈士をたたえるための記念館として以後ずっと展示場になっているとのこと。

 この地下室で「侵華日軍化学戦罪行展」が開かれていた。すなわち、日本軍の毒ガス戦がどのように行われ、現在でも日本軍の遺棄した毒ガスが中国の人々にどのような被害を与えているかていねいに整理され展示されていた。毒ガスの製造を行った大久野島の大きな地図をはじめ、たくさんの日本側の資料も展示され前大久野島資料館館長の村上初一さん「大久野島のかたり」を書いた岡田れい子さんの手紙なども紹介されていった。戦争中の毒ガス戦の実態と現在の毒ガス問題がよく解る展示だった。もう、2年くらい前からこの展示は行われているそうで多くの中国の人達も見学に訪れているとのこと。時間の関係でその他、烈士の展示物を見ることができなかったのは残念であった。

松花江

 その後、哈尓濱の観光の名所である古いロシア風の町並みと石畳の通りで飾られた中央大街を歩いて、松花江の見学へ。松花江は汽車の中から二度ほど見てはいたが、ダ−さんが、「是非、美しい哈尓濱も見て帰って下さい。」と案内してくれた。中央大街は本当にきれいな歴史の重みを感じさせる町並みでした戦争中からある建物も多いとのこと。松花江はよく母親から、冬は凍ってトラックも河を渡ると聞いていたところだ。たくさんの観光客でにぎわっていた。思っていたより水量が少なかったが、多い時には中州がなくなるほどの水量になるとのこと。かっての大洪水を記念した碑もあった。この、松花江にも終戦時、第731部隊の捕虜達を焼き殺した灰を証拠隠滅のため、たくさん捨てたという元隊員の証言が残っている。日本軍はこの哈尓濱の市民の憩いの場にまで戦争の罪悪をまき散らしている。

 哈尓濱でもよく知られた餃子専門店で昼食後、Aグル−プは哈尓濱空港から上海に、明日は広島へ帰る。Bグル−プはさらに毒ガス被害者との交流と毒ガス検証の旅を続け孫呉まで足を延ばし8月5日に帰国する。また、チャンスがあれば訪れたいそういう思いを持って哈尓濱をあとにした。

旅の後、報告会を行い多くの人々に

中国遺棄毒ガス問題について訴えました。