撫順戦犯管理所開設50周年記念日中友好の旅

2000年9月14日〜18日

   平頂山同胞殉難記念館

                                                          

                                                

日本軍が村人全員を虐殺しようとした

平頂山虐殺遺骨記念館を訪れ      

                                                                               大きなショックを受けました。

写真は掘り出された遺骨の

一部です。

村人3000人のうち生き残った人は

わずか20人あまりだったそうです。

戦争がいかに残虐か、

日本の侵略戦争の残忍な加害の事実を

学ぶことができます。

撫順に訪れたら、ぜひ、

                                                                                                     慰霊に訪れて欲しい 場所です。

 

撫順戦犯管理所開設50年記念友好訪中団

2000年9日14日(木)〜18日(日)‥Aコース

     

    記念大会の記念写真                                     管理所の職員と管理所で生活した日本人の再開

撫順戦犯管理所には日中戦争後、日本人戦犯が収容されていました。

戦犯はここで生活する中で、中国政府の「戦争を憎んで、個人を憎まず」という

人道政策と管理所職員の暖かい世話を受けながら、自分が、いかに戦争中

残虐な罪悪を犯したかを反省することができました。

捕虜になった戦犯は、自分は戦争中、残虐なことを中国人にしてきたから、

今度は報復に、ひどい目にあわされるだろうと、思っていましたが、そうではなく

ここで、暖かい、人道的世話を受けることによって、本当の人間性を取り戻すことができたのでした。

戦犯たちの中には、日本に帰って、中国帰環者連絡会を組織し、二度と戦争をしない日本に

するために、自らの戦争体験を語り、人々に戦争とは以下に悲惨で、非人道的なものかを訴えて

平和な国づくりに努力されています。

今回の記念式典はその撫順戦犯管理所開設50周年を祝った、日本と中国両国

の協力のもとに開催されました。

           

      記念大会会場前にて                                            露天掘りで知られる撫順炭鉱にて

「撫順戦犯管理所開設50周年記念友好訪中団に同行して」

                 広島県竹原市東野町983−5  山内正之

 私は1944年に今回の旅で一泊した瀋陽で生まれました。今回の旅は私にとっては初めて生まれ故郷を尋ねる旅でした。小さいときから、両親に「お前はよく生きて帰れた。」「それだけでも運が良かった」と言われながら育ちました。満鉄の日本語の教員をしていた父は徴兵されるのが遅く、幸い家族はバラバラにならず敗戦後1年経った頃家族で引き揚げてきました。私の記憶には残念ながら中国(満州)での生活の記憶はありません。あるのは、引き揚げて、日本に帰って後の、貧乏暮らしをしながら必死に家族を養う父母の姿でした。子どもながらに満州に行って大変な目に遭ったんだなということを感じていましたが、中国を侵略するための国策として満州に行ったことが解ったのは大人になってからでした。今は、すでに父は病死し母も記憶を失っており、残念ながら当時の詳しい様子を聞くことはできません。

敗戦時、ソ連軍が偽満州国に侵攻してきて、死ぬ思いで逃げ回ったこと、生活の糧を得るために「飴」を売って歩いたこと、女の人はみんな坊主頭にして男性のように見せかけていた話など、いろいろ苦労話を母親から聞いたことがあります。私たち家族が一人も欠けずに引き揚げることができたのが何よりも幸せだと両親は引き揚げた時をよく振り返っていました。そして、みんな無事に日本に帰れたのは中国の人がいろいろ助けてくれたからだと話していました。長い間、私はそのことの意味がはっきりと理解できていませんでした。両親が中国の人に親切にしていたから、そのお返しに親切にしてもらったのだろう、というくらいの認識しかありませんでした。

 中国共産党と中国政府の侵略者日本人に対する人道主義の政策があったからこそ敗戦後もしばらく中国にいて、無事日本に帰還できたことが解ったのは、撫順戦犯管理所における人道主義に基づく人間変革のことを知ってからでした。「軍国主義は許せないが、日本人は憎んではならない、人間として尊重しなさい。」とう人間尊重の政策と中国人民の温かい心が私を無事日本に帰してくれたのです。

 1997年、遺棄毒ガス弾被害検証の旅に参加した時チチハルやハルピンで案内してくださった中国の通訳さんから、いろいろ、残留日本人の人たちのことを聞きました。中国に残された日本人がどのような思いを持って暮らしてきたか、中国の人たちは残された日本人の子どもをどのように育てたか、この残留日本人の話は私にいままでは考えたことのない強烈な衝撃を与えました。 それは、自分が残留日本人であってもおかしくないことに気づいたからです。今まで、他人事のようにしか考えていなかった自分の無知さを恥じました。敗戦時10ヶ月の乳児であった私は大病していた母に代わって12才だった姉が背負って引き揚げてきたそうです。母乳も出ずミルクなどあるはずがない当時、私は雑穀のお湯を飲んで飢えをしのいだそうです。親切な中国の人から「連れて帰ると途中で乳児は死んでしまうといけないから私がしばらく預かってあげましょう。日本に引き揚げて落ち着いたら連れに来られればいいと。」言ってもらったそうです。しかし両親はそれを断って、一緒に連れて帰ったというのを姉から聞きました。私にとっては中国は生まれ故郷であるとともに私を温かく支えてくれた恩人です。

撫順戦犯管理所で教育を受けた「中帰連」の方と管理所の工作員の方の再会の様子を目の当たりに拝見させてもらい、「撫順戦犯管理所開設50周年記念」という歴史的行事に参加できて本当に良かったと思いました。この素晴らしい人道主義に基づく人間的つながりこそ日中両国の平和と友好を築づくものだと確信できました。

「中帰連」の活動を戦争未経験者であるわれわれがしかっりと受け継ぎ、撫順戦犯管理所の素晴らしい人間教育の実践を末永く、より多くの人に伝えていく必要があると思う。

 一部の歴史の真実から目をそらし軍国主義日本を復活させようとする動きに動揺することなく、私たちは、自分自身の力で中国を初め日本が侵略したアジア諸国の人たちと友好を深めて行かなくてはならない。そのためには、まず日本がおこなった侵略への謝罪と賠償責任を日本人一人一人が自覚するところから出発しなければならない。そして、アジア諸国の人民が交流を深め、お互いを理解し、尊重しあうことが友好平和を促進していくものであることを確信できたことが今回の旅の最大の成果でした。

旅の日程

広島空港発

大連空港着

CAl54便にて空路大連へ

着後、専用バスにて瀋陽べ(瀋陽泊)

 

9/15()瀋陽〜撫順(終日学習 参観)

 柳条湖事件(九一八事変)遺蹟参観

 張作霖爆殺遺蹟参観

 九一八事変紀念館 張学良旧居陳列館参観

 周恩来同志読書旧祉  藩陽故宮博物館参観

専用パスにて撫順へ  (撫順泊)

 

9/16 撫順(土)

撫順戦犯管理所参観

撫順戦犯管理所開設50周年記念パ−テイ

 

9/17

撫順戦犯管理所開設50周年記念行事参列

撫順雷鋒陵園参観

午後から大阪・東京組と合流

平頂山殉難同胞遺骨館参観

(幸存者の証言聞き取り)

撫順露天鉱参観

元戦犯管理所職員と中婦連会員の座談会 (撫順泊)

大連 発〜広島空港着

CAl53便にて空路広島へ 着後、解散