反侵略と友好を誓う中国の旅

私は1998年8月、南京の「侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館」を訪れました。

この紀念館は、日本軍が大虐殺を行った場所に立てられており、私たちが訪れた

時も、新たな遺骨が発見され、発掘が進められていることを知り驚きました。

戦争はまだ、終わっていないこと、虐殺された中国の人たちの無念さを私たち

日本人に訴えているように思われました。

1998年に南京を訪れた時のことを少し紹介ます。

 

参加者全員で慰霊の花輪を捧げ、       南京大虐殺の受難者は30万人以上です。

受難者の冥福を祈りました。           南京大虐殺はなかったとか、30万人も虐殺

日本人として、受難者へどう償えるのか。   されていない。とか言う人もいますが、それは

日本政府は責任の明確化と補償を       明らかに、歴史の真実を歪めようとするものです。

すべきです。                    実際に南京に行って、自分の目で確かめると

                            よくわかります。

 

上の写真が「南京大虐殺遇難同胞紀念館」の庭で発掘されていた大虐殺受難者の遺骨です。

日本軍の南京大虐殺の残虐行為を証明する歴史の真実です。皆さんも、一度南京を訪れて、

この、歴史的真実を確認してください。二度と繰り返してはならない犯罪であることがわかります。

この写真は1998年8月17日に私が撮影したものです。

「侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館」

紀念館のパンフレットを紹介します。

上の写真の300000の数字は南京大虐殺で殺害された数を表しており。紀念館の入り口

にあります。階段を上がって中に入ります。

上の写真は内部の展示室の様子と中庭の墓所の様子です。庭を取り巻く塀には侵略

者の圧制と暴虐に苦しむ中国人民の姿が彫刻されており、日本軍がどんなに残虐な

行為に及んだかが記録されています。

上の写真は墓所と追悼広場の様子です。右下は紀念館の所在地を示す南京市内

の地図です。

 

1998年8月16日〜8月21日

この旅で私たちは日中戦争の時、地下道戦のおこなわれた

河北省保定市の「冉荘地道戦遺跡」を訪れた。

     

   中国河北省清苑縣地道戦遺跡の参観券

中国では、日中戦争において、村、村に地下に隠れるための地道が掘られていた。

日本軍とまともに衝突すれば、その火力、兵器の力では日本軍に勝てなかった中国人民は

地道戦による、ゲリラ戦術で日本軍と闘った。

すなわち、日本軍がやって来ると地道に隠れ、日本軍が通り過ぎると地道から出て、背後から

日本軍を攻撃するような作戦を取った。

また、軍隊の居ない民間人ばかりの村でも、日本軍がやって来ると、

日本軍が虐殺・略奪・焼き尽くす、三光作戦を取っていたので、その被害から

逃れるためにも、人々は地下に隠れたのである。

この、遺跡は、その地道戦の後を保存している。                                                         

                    

            地道の中の通路                             地道の入り口

地道の中、高さ2mくらいで、地道と地道を結ぶ穴は、少しかがんで通り抜ける感じだった。

中には、会議室、医務室、火薬を作る作業場、などいろんな機能が果たせるように工夫されていた。

 

日本軍の毒ガスによって村人が虐殺された河北省北坦村を訪れる         

       

北坦村犠牲者慰霊碑犠牲者全員の名前が記入されている。   地元TVも日本からの訪問団を取材に来た。

  

 

      「日本軍の毒ガス虐殺を受けた北担村を訪ねて」

                        毒ガス島歴史研究所会員・ 山内正之

 私たちは、8月18日、日本軍の毒ガス攻撃でたくさんの住民が虐殺された村、河北省定県北担村に向かった。定州市で李徳祥さんの息子、李洪金さんの出迎えを受け定州市から車で2時間、まわり一面は畑でところどころに赤レンガづくりの民家が建つ平野を行くと北担村に着いた。華北平原に位置するこの農村はまわりには全く山や丘は見られない。「まわりが平原のこのあたりの村では日本軍からの攻撃を防ぐには地下に隠れるしかなかったのです。

 案内してくださった河北省教育委員会の王成馬さんが説明してくれた。村ごとに地下道を作り、村と村とも地下道で結ばれていた。  北担村に来る前、私たちは北担村から北へ約100qにある河北省清苑縣再荘村の地道戦遺跡で実際に地道の中を見学させてもらた。北担村の地道はほとんど埋まってしまって中に入ることはできないが、再荘村では今もその地道の一部が戦争遺跡として残されていて、青少年の教育に利用されている。戦争中は家と家、村と村をつないだ全長16qの地道が作られていた。地下道とはいっても中に入ってみると、それは地下の要塞とも言えるほど精巧に作られていた。地下道の通路は高さ120pから170p、 幅約100p。場所によって直立して歩けないほど低い通路や直立して歩けるところがあり、真っ暗な地道の中は方向を見失うようなところもあって迷路のようになっていた。敵が地道に進入してくることも想定して落とし穴を造るなど、いろんな工夫がされていた。中には司令室、休息室、厨房、トイレ、爆薬製造室、なども作られていた。案内の王さんの説明によると、地下道は2つのねらいを持って作られていたそうだ、一つは敵と戦うため、一つは自分たちを守るためである。大平原の中にある華北平原の村はこのような地下道で戦うしかなく、あちこちに地道の要塞が作られ、日本軍との戦いに効果を発揮した。 北担村は定州県の抗日の根拠地で、県の政府や、公安局、など役所が集まっていた。1942年5月27日 日本軍は北担村を包囲し総攻撃をかけてきた。遊撃隊が手製の銃や地雷で日本軍とよく戦ったが武器がなくなり、みんな地下道に逃げた。村に入ってきた日本兵は最初、村に誰もいないことに驚いて、村をあちこち探した。そして、ついに地下道の入口を見つけた。中に入るのは危ないと見た日本兵は、地下道の入口に毒ガス弾を投げ込んだ。これでもかこれでもかと投げ込んだ。ガスが外にでないように布団で入口をふさいだりした。地下道には大勢の村人が避難していた。2日間で約1000人が殺された。 この時のことについては、1989年の5月14日三原市でおこなわれた北担村の数少ない幸存者の一人、李徳祥さんの証言集会で詳しくその時の日本軍の毒ガス使用と虐殺のようすを聞かせてもらった。日本兵は苦しくなって地道からでた村人を次々に射殺したり、斬り殺した。女・子ども・老人だれかれなく殺害した。

これだけ残虐なことをしておりながら日本政府は、この北担村で日本軍が毒ガス弾を使用し、住民を虐殺したことを認めていない。「日本軍が中国で使用したのは、くしゃみ性ガスであり、致死性のガスではない。従って日本軍が中国で毒ガスによる虐殺をおこなったことは確認できない。」と責任逃れをしている。北担村のことを調べれば毒ガスを使用し住民を大量に虐殺したことは確かである。国際法に違反していた毒ガスの使用を認めると後が面倒だと闇から闇へ葬ろうとする日本政府の姿勢がありありと見える。これではいつまで経っても侵略戦争で日本が迷惑をかけたアジアの国々から信頼は得られない。 北担村で日本軍が使用した「あか一号」は大久野島で製造されたものと思われる。大久野島では5種類の毒ガス弾を製造していた。5種類なかで最も大量に中国に持ち込まれ、最も多く実戦使用されたジェフェニ−ル・シアンアルシン(あか一号)は大久野島で265万発も製造されたと言われている。大久野島で製造された毒ガスは大半は中国大陸に運ばれ使用された。日本政府も日中戦争において日本軍がこの「あか一号」は使用したことを認めている。しかし、「あか一号」は「非致死性のガス」つまり人を死なせるだけの毒性のないガスであると主張し、虐殺には使用できないという見解をとっている。しかし、大久野島で働いていた元工員は「あか一号はくしゃみ性ということで比較的、軽いように思われるが、とんでもない、「あか一号」は毒ガスの中でも一番恐ろしいもので吸えば狂い死にする。」と証言している。ましてや、北担村で使用したように、たくさんの人が入っている地下道に大量に投げ込めば、その殺傷力は莫大なものと予想できる。ましてや、苦しくて地下道から逃げ出してきた者を次々に殺害している日本軍の残虐行為を、使用はしても「あか一号」には「人を死なせる力はない」、従って虐殺にはならない、とする日本政府の見解はまるで真実からかけ離れている。

大久野島の毒ガスについて、毒ガス島歴史研究所の仲間と、いろいろ、学習し、調査している私は、今回の旅で北担村で毒ガスがどのように使用されたのかなどについて知りたいという願いをもっていた。今回の旅に出る前、李徳祥さんの証言を聞いたり、北担村の毒ガスによる大量虐殺について書かれた文献を読んだりした。そして、北担村の毒ガス虐殺のことについて知れば知るほど、その残虐さに心が重たく沈んでいった。と同時に、今回の旅で北担村の人達と交流を持つことになっているが、村の人たちは、加害者である日本人の私をどのように北担村の人迎えるのだろうと、考えるようになった。村民の皆殺しとも言える虐殺おこなうめに日本軍が使った毒ガスを製造した町からやって来た日本人(私)をどんな気持ちで迎えるだろうか。きっと憎んでも憎み切れない気持ちだろう、という思いが私の心のどこかにあった。

 しかし、北担村に到着した私たちを、村の人々は大歓迎で迎えてくれた。熱心に霊園の中を案内し、「日本軍の毒ガス攻撃で犠牲になった人々がこの霊園の地中に眠っている」と説明してくださった。私は、まず毒ガス虐殺の犠牲になった村民に心から冥福を祈る、とともに北担村の人々が、自分たちの村の毒ガスによる悲惨な歴史を日本人に伝えることによって二度とこのような悲劇を繰り返してはならないと願っているということが痛いほど伝わって来た。われわれが霊園に来たことを知った村の人たちが続々と私たちのまわりに集まって来た。日本人が来たということで複雑な気持ちで私たちを見ていた老人もいたことだろう。北担村の人たちに、私が謝罪する気持ちを表すための今できる方法は、北担村における日本軍の毒ガスによる大量虐殺の事実を多くの日本人に伝えていくことだと心の中で強く思った。

 北担村に着いたのは予定が遙かに遅れて夕方6時過ぎだった。そのため予定していた北担村の人たちとの交流はできなかった。李徳祥さんも体調を崩されているとのことでお会いできなかったのは大変残念だった。しかし、北担村と私とのつながりはまだ始まったばかり、来年は、北担村に記念館を建てようという取り組みも始まるとのこと、自分のできることは協力していきたい。そして、これからも子々孫々未来永劫にわたって日中友好が続くよう、微力ながら自分も努力しようと思う。

 

     中国抗日戦争における地道戦 文:山内正之                               

 1998年8月18日私たちは日中戦争の時地下道戦のおこなわれた河北省保定市の「冉荘地道戦遺跡」を訪れた。この地方では唯一ここにだけ「地道の跡」が保存されている。1942年から1944年の数年間、日本侵略軍は河北の平原で「大掃蕩作戦」を行なった。この時、日本軍は河北の中国軍を封鎖するため、5キロ毎にトーチカ、4キロごとに要塞を築き、溝を作りバリケードをめぐらした。日本軍の「大掃蕩作戦」を粉砕するため、河北の中国軍は新しい闘争方式を開拓した。これがすなわち地下道戦である。地下道戦というのは、地下に隠れ場所を作り、敵と戦う戦術である。まわりが広い平原で隠れる場所のない華北平原で考え出された戦術であった。地下道戦は敵から身を守るために隠れるという目的と、敵を攻撃するための要塞という二つのねらいをもって作られた。広い平原の地底に四方八方、まっすぐ伸ばしたものや、湾曲させたものなどいろいろな地下道を掘り、家々をつなぎ、村々に通じさせた。日本軍が来たら、人々はすぐ地下道の中に潜り込み、そして日本軍が行ってしまうと、また地下道から出てきて、いつも通りの生活や農作業をする。また時によっては、敵に奇襲を加えたりもするのだ。この地下道という堅固な要塞によって、華北平原の人民は後方から日本軍に攻撃を加える遊撃戦を堅持したのである。

 地下道の形式は百数種類もあった。例えば、村と村の連絡の地下道を通りの真下に掘り、他村と通じる地下道を畑の下に堀ったものもあった。地下道は高さが1メートル30センチ以上あるので、背の高い人でも前屈みになれば通れるし、地面から1メートル以上も深く掘っているので、地上の作物に何の影響もない。地下道には一定の距離ごとに木材で天井を支えた大きな洞窟があり、それは大変堅固にできていた。大洞宮の四壁にはたくさんの小さな洞宮が掘られて、それぞれ宿泊用、家畜用、物置き、そして便所というふうに用途別に使われていた。そして火薬や武器製造の部屋もつくられていた。洞窟の中にはいつも飲料水、乾燥食料、布団、灯火が用意されていて、中で四、五日は十分生活できた。またここには地面に通じる空気孔が開けられており、この穴から太陽の光も差し込むようにできていた。地面の空気孔の口は大変巧妙に隠されていて、敵はほとんどこれを発見することができなかった。ここに隠れていれば、息が詰まることも暗闇に困ることもなかった。

            

    幸存者の老人から当時の様子を聞く          たくさんの村人が迎えてくれた

地下道の出口も、表に荊をいっぱい積み上げるなどして、非常に巧妙に隠されて開けられていた。またある出口には、これに加えてまわりに落とし穴も作られていた。落とし穴には槍や地雷が仕掛けられ、板で蓋をし、その上に草をあしらって偽装していた。地下道の出口近くには特別に堅固な洞窟が掘られていて、民兵が武器を持って警戒に当たっていた。それから曲がり角の辺りには「迷い洞」と呼ばれる別れ道が作られてあり、敵が万一侵入してきた場合、どれが本当の道でどれが行き止まりなのかわからないようにしてあった。

 日本軍は、何とか地下道を破壊しようとして火攻めだ、水攻めだ、毒ガス攻めだとあらゆる方法を試みた。そこで、中国人民はまた、色々巧妙な方法を考えだして地下道を防備した。火攻めに対しては、洞窟の入り口に土と砂を用意して消火にあたった。また、狭い通路に吊し板を設けておいて、もし敵が毒ガスを放った時は、それを引き落として毒ガスが地下道の中に入っていかないようにした。水攻めに対する防御策は、更にうまい手を使った。地下道を枯れた井戸と暗渠でつなぎ、敵が放水して水が地下道に流し込まれても、そのまますぐに暗渠を通って枯れ井戸に注ぎ込まれるようになっていた。そして、万一の時には多くの村々が地下道で通じているので、全員が他の村に移動して身を守った。

 ところで人々は、どのようにして地上の情勢を察知したのだろう。これには次のような態勢が採られていた。地上では中国軍の司令部から派遣された数名の人が各所の配置につき、敵の動静を掴んだら次々に大声で知らせて、司令部まで伝えるのである。農民たちはこのような大声の連絡を「無線」と呼んでいた。この言い方で言えば、地下道には「有線」が通っていた。地下道には小さな銅の鉾のついた針金が通っていて、こちらで引っ張れば向こうで鳴るようになっており、何回引っ張ればどのような意味かということが決められていたのだ。人民の知恵というものは限りのないもので、日本軍を打ち破るためにはこのようにあらゆる方法が考えだされたのである。この地下道戦という戦術によって、中国軍と中国人民は日本軍の「大掃蕩作戦」を粉砕することができたのである。中国人民の考え出した地下道戦は抗日戦争史上、大きな成果を上げた戦術であった。

 

反侵略中国の旅 訪中日程

1998年

8月16日(日)

1400広島空港口ビー集合(搭乗手続き、結団式)

16:10広島空港発[便名WH294)〜上海着17:05

     迎えの車(16人乗り)で南京へ移動

21:00夫子廟でタ食、ホテルー状元楼大酒店(三星)(南京泊)

817日(月)

7:30朝食(夫子廟乗用車(16人乗り)で移動

8:30南京大屠殺遇難同胞紀念館(末成山館長説明、幸存者の証言)

11:00中華雲錦研究所参観

11:30昼食什惟飯店)

13:30大虐殺の現場を見学、観光(明孝陵、霊谷寺、中山陵など)

18:0000南京駅、構内レストランで タ食

20:00 夜行寝台列車にて 北京へ移動 (車中泊)

818()

  8:00 北京駅へ到着、朝食後 列車にて保定,、

  午前中   地道戦遺跡参観   定州で 昼食

  午後     北担村見学、交流  保定で タ食 (保定泊)

8月19日(水)

保定(朝食)   北京へ移動   午前中: 万里の長城へ

長野の団と交流         京瑞大履  (五星)北京泊)

8月20日(木)

 北京市内観光 午前中(天安門広場、故宮など)

           午後 (買物)   京瑞大履  (五星)(北京泊)

821()

北京空港〜上海空港;飛行擦)

上海空港発12:0[便名w293)〜広島空港着15:10

広島空港にて解散