縄平和学習の旅 

1996年8月21日〜24日

 

    

あなたはチビチリガマとシムクガマの話を知っていますか。

沖縄戦は、たくさんの一般市民を犠牲Iにした戦いでした。

沖縄の人たちは、日本軍が自分たちを守ってくれると信じていました。

しかし、それは、全くの間違いでした。日本軍は沖縄の一般市民を盾に

自分たちの命を守ろうとしたのでした。

 チビチリガマとシムクガマの話は真実を知ることがいかに

大切かを教えてくれます。

日本軍は沖縄の一般市民に、アメリカ軍に捕まるのでなく自殺を強制しました。

アメリカ軍の捕虜になったら、残酷な死に方をすると人々を恐怖に陥れる話を

信じ込ませ、強制的に自決させたのです。しかし、一般市民にはそういいながら

沖縄戦で生き延びた軍人がたくさんいます。いろんな、情報を手に入れることのできた

軍人が生き延びたのです。・・・・戦争とはそういうものです。戦争はぜったいにやっては

いけないのです。

 

[チビチリガマとシムクガマの話 ]

アメリカ軍が沖縄に上陸してきた時、読谷村波平の村人141人はチビチリガマに隠れて

いました。奥行き50mばかりの洞窟(沖縄ではガマと呼びます)

米軍がガマに迫ってきた時、隠れていた住民は男たちはみんな外に出て切り込み、

女や子どもは、みんな自決するように命令されました。

チビチリガマで指揮をとっていたのは、中国で戦争をしたことのある元軍人でした。

また住民の中に、看護婦として中国戦線に行っていた女性もいました。

日本軍が中国に侵略した時は、三光作戦という残酷、極まりない作戦が取られ

ていました。すなわち、侵略した土地の住民を殺しつくし、その土地のものを奪いつくし

奪ったあとは、村を焼き尽くす作戦でした。中国での戦争に参加した軍人と看護婦は

敵の捕虜になると、どんな目に合うか、日本軍のやった残虐行為Iからアメリカ軍も同じことを

すると考えていました。そのため、隠れていた住民に自決をしたほうがいいと促したのでした。

隠れていた住民はパニックに陥り、布団や衣類に火をつけ、かみそりや鎌など、刃物を持っていたものは、

子どもや、家族を刺し、自分も死のうとしました。毒を注射された者もいました。

暗い洞窟の中は地獄となりました。耐え切れず、洞窟から外に這い出した者もいました。

自分の家族を刺し殺し、自分は生き残った人もいます。 まさに、地獄としかいえません。       

                                                                                                                                                                        

チビチリガマの平和を祈る碑                                                                

 

一方、チビチリガマから約1kmくらい離れたシムクガマにも約1000人の村人が隠れていました。

その中にはかって、アメリカに移民で渡っていたことのある二人の男がいました。

米軍が洞窟に迫って投降を呼びかけた時、二人はアメリカのことも少しは知っていたし、

日本軍の宣伝するデマも信じていませんでしたから、自分たちが米軍と交渉するからと、隠れている住民を説得し、

米軍の指揮官と交渉し、艦砲射撃の砲弾にやられた3人を除く全員が投降し助かりました。

アメリカ生活の経験のあった二人は米軍はそんなに残酷なことは

しないことを知っていたのです。正しい知識を持っていたために、村人約1000人の命が守られたのです。

この[チビチリガマとシムクガマの話]は真実を伝えること、真実を知ることがいかに大切であるかを

私たちに教えています。

        

        シムクガマにある救命の碑                  シムクガマ入り口付近

戦争中、日本軍及び日本政府は「天皇のために」という大義名分のもとに、日本国民の命を軽かるんじてきました。

大切な国民の命を赤紙一枚で召集し、尊い命を「お国のため」といって失わせて来ました。

国民には正しい情報を伝えず、戦争賛美してきました。この歴史的事実を私たちは忘れてはなりません。

今、過去の日本軍の侵略戦争を賛美し、歴史の真実を歪めようとする動きがあります。

アジア民衆と共に生きることを妨害し、再び、悲惨な戦争へと向かう動きがあります。

今こそ、私達、一人一人が平和について考えなければならない時だと思います。

 

ご冥福をお祈り申し上げます。

2002年3月21日午前7時7分阿波根昌鴻さんが死去されたことを

新聞で知りました。101歳で亡くなられたとのこと、

平和運動に一生をささげられた阿波根さんの死は残念でなりません。

 

 

私は1996年伊江島の反戦地主、阿波根昌鴻さんに会いに行きました

 

阿波根昌鴻さんはアメリカ軍の強引な農地没収に抵抗し、非暴力の抵抗運動を戦った人です。

 

「米軍と農民」 阿波根昌鴻著 岩波新書より抜粋

かっての激戦地沖縄県伊江島。米軍が沖縄占領後は島の6割を軍用地に取られ

爆撃、落下傘降下などの演習地として利用されてきた。耕地を奪われた島の人々は

生きるためにやむなく立ち上がり、米軍を相手に根気のいる長い必死の闘いを続け

ざるを得なかった。・・・・

次は島民が米軍と交渉するために作った陳情規定です。

《陳情規定より一部抜粋》    

一、反米的にならないこと。   

一、怒ったり悪口をいわないこと。

一、会談の時には必ず座ること。

一、米軍と対応するときはモッコや鎌、棒切れなどもたないこと。

一、耳より手を上に上げないこと。

一、大きな声をださず、静かに話す。

一、軍を恐れてはならない。

大きな武力・権力を持った米軍と闘うためには無抵抗の抵抗で行くしかなかった。

弱い立での闘う者のすばらしい知恵で、見事に米軍を撤退させました。

                 

「ヌチドウタカラ」とは命こそ宝という意味です。

反戦平和資料館 「ヌチドウタカラの家」には戦争と基地被害の証拠品がところせましと並べられて

います。沖縄戦の悲劇を体験し、基地反対闘争の先頭に立ってきた阿波根昌鴻さんの資料館です。